第七話 ー 夜明け前の道
まだ夜の色が抜けきらないうちに、扉が三度だけ鳴った。
約束どおりだったので、特に驚かなかったけれど、胸の奥は、先に外へ出て待っていたみたいに落ち着かなかった。
肩掛け鞄は、もうまとめてある。骨べら、目打ち、細刃、糸切り鋏、小さな糊壺。
旅支度というには軽く、仕事道具というには少し偏っているが、必要最低限の荷物は鞄に詰め込んだつもりだ。
扉を開けると、ライナルトが立っていた。
黒い外套の肩に、夜露が薄くのっている。
「行こう」
「はい」
それだけで話は足りた。
私は工房を振り返り、火の気のない机と、昨夜のまま伏せておいた記録帳を一度だけ見た。それから鍵を掛けたら、工房まで黙って見送るように静かになった。
道へ出ると、霧は低く流れていた。村の家々はまだ眠っていて、窓の灯りも少ない。月光祭の翌朝は、いつも村の目覚めが遅い。祈りの夜のあとは、土も人も、少し長く黙っている。
「やっぱり、行くんだね」
門のそばで、モーナが立っていた。
いつもの籠ではなく、小さな包みを抱えている。
「これ、持っていきな。干し林檎と黒パン。道で黙る人と一緒なら、なおさらいるだろうからね」
そう言って、私にではなくライナルトのほうを見た。
「返しておくれよ」
ライナルトは少しだけ視線を上げた。
「……ああ」
短い返事だった。
でも、それでモーナは十分らしかった。私の手に包みを押し込むと、外套の裾を払うようにして笑う。
「イリス、道で迷ったら足元を見なさい。空を見ると、人は遠くまで行きたくなるからね」
「はい」
本当は、迷ったことなど一度もなかった。村の中では。
けれど村の外の道については、私は白紙同然で何も知らないのだ。
門を出たところで、ライナルトが歩き出す。
私は少し遅れてその背を追った。霧の森の道は見慣れているはずなのに、今日は枝の先まで違って見えた。毎日見ていた景色が、境目を越えたとたん、こちらを見返してくるようだった。
しばらく無言で歩いたあと、私は聞いた。
「南観測所へ行くんですか」
「いや、峠下の継場だ」
灰鐘峠へ上がる前にあった、古い継場。
王都へ向かう荷馬車や伝令が足を止める場所だったけれど、新しい街道が通ってからは使われなくなったと聞いている。
「昨夜の人が、まず寄るならそこだ」
「どうしてわかるんですか」
「祭りの広場にいたとき、靴を見た」
ライナルトは前を向いたまま言う。
「付いてたのは村道の泥ではない。石を多く踏んだ泥だったから、街道側から来てる」
私は少し黙って、その言葉を追った。
人の顔より先に靴の泥を見る人なのだと思ったら、少しだけ可笑しい気もした。でも、その観察が昨夜の短い時間で済んでいたことを思うと、やはりこの人は、私とは別の仕方で物を見る。
「記録帳の紙片を持っていた人ですか」
「持ってるか、運んでる側だ」
「南観測所のことを知っている人が、まだいる」
「そういうことだ」
朝はまだ来ていない。
けれど森の端が少しずつ薄くなっていく。夜がほどける前の時間は、物の輪郭だけが先に戻る。ライナルトの背も、道の白さも、霧の流れも、まだ色を持たないままそこにあった。
「昨夜の紙片」
私は鞄の上から、包んで持ってきた布に触れた。
「学院の綴じでした」
「見てわかったか」
「はい。綴じ穴の寄せ方が、保存室の帳票に近かったので。あれは、頁を開かせるための綴じではなくて、抜かれないための綴じです」
答えてから、自分で少しだけ息を詰めた。
学院のことを、こんなふうに口に出すのは久しぶりだった。
ライナルトはそれを聞いても振り返らなかった。
「だから連れてきた」
「……私が必要だからですか」
「ああ」
その答えは早かった。
ためらいがないぶん、余計なことを考えずに済む返事だった。
でも私は、そのまま次を聞かずにはいられなかった。
「それだけですか」
少しだけ、歩幅が止まった。
ライナルトは数歩先で立ち止まり、それから肩越しにこちらを見た。
「ここから先は、村の用事ではない」
私は門を出てから、ずっと胸の内に置いていたものを、ようやくちゃんと見た気がした。
これは頼まれ仕事の続きではない。
村の記録帳を直した、その延長でもない。
ここから先は、見覚えのある印、知ってしまった綴じと、何かの事件につながっているかもしれない。
私は鞄の紐を握り直した。
「分かってます」
そう言ったら、霧の向こうにあった道が、少しだけはっきりした気がした。
継場は、峠へ上がる前の窪地に残っていた。
屋根は半分落ち、馬繋ぎの杭も朽ちている。けれど石壁だけはまだ残っていて、古い中継地の骨みたいにそこにあった。
扉は閉まっていなかった。
押したら、木が乾いた音を立てて開く。
中の空気は冷えていたが、人が入った気配が、まだどこかに残っている。灰の匂いではなく、濡れた布と革の匂いがした。
部屋は薄暗くて、中の状態まで確認ができなかったので、とりあえず声をかけてみた。
「誰かいますか」
「いや、もう出てる」
「えっ、わかるんですか」
「火を使ってないから、長居してない」
ライナルトが床を見て、窓際を見て、それから奥へ進む。
私は崩れかけた長椅子と、壁際の棚を見回した。何もないように見えるけど、何もない場所は探す人の目にはむしろ不自然なのだと、昨夜から少しずつわかり始めていた。
奥の卓の下に、小さな革袋があった。
落ちているようでいて、見つけにくい場所に押し込まれている。
「ありました」
私が拾い上げると、ライナルトがこちらへ来た。
袋の口は空いている。中身はない。けれど手に持ったとき、革の厚みが妙に不揃いだとわかった。
「縫い目を見せてください」
私は卓の上へ袋を置き、窓から入る薄明かりへ寄せた。
口紐の脇にある一列の縫い目だけ、糸の戻しが逆だった。乱暴に直したのではなく、最初からそう作られている。見せかけの継ぎ目だ。
「隠しポケットがあります」
「開けられるか」
「はい」
骨べらを差し入れて、糸目を一つずつ浮かせる。
切らずに外していくと、革の内側にもう一枚、薄い仕切りが現れた。そこに挟まっていたのは、折り畳まれた紙一片と、小さな真鍮片だった。
真鍮片には、七つの塔を円で囲んだ印が書かれている。
昨夜の紙片と同じ系統のものだ。
紙のほうは湿気を吸って波打っていたが、文字はまだ読めた。
私は広げて、息を止めた。
「……白紙本」
その語だけが、最初に目に入った。
行は短い。帳簿の抜粋みたいな書き方だった。
第七封架 白紙本 一冊
灰鐘峠南観測所経由
移送先 抹消
末尾には署名のようなものがあった。
半分しか残っていない。
けれど、頭の一文字だけは読めた。
ヴ
それだけだった。
それだけなのに、指先が冷たくなった。
「どうした」
ライナルトの声が、今度は近かった。
「署名が……」
私はそこまで言って、言葉を切った。
ヴで始まる名前など、いくらでもある。
そう思おうとしても、思うより先に心が拒んだ。
ライナルトが紙を受け取り、目を走らせる。
「やっぱり残ってたか」
「知っていたんですか」
「半分はな」
「白紙本のことを?」
ライナルトはすぐには答えなかった。
窓の外へ一度だけ視線をやってから、低く言う。
「昔、白紙のまま運ばれた本がある。何も記されていないのに、消されずに残された本だ」
「……それが、あの白紙の本と関係あるんですか」
「あるかもしれない」
ある、と言い切らなかった。
でも、ないとも言わない。
工房の棚の上に置いた、あの白紙の本を見たときの視線を思い出した。
「この署名」
私はもう一度、紙の端を見た。
「学院の人間です。少なくとも、学院の帳票に触れられる立場の人です」
「王都側でもある」
「はい」
「なら、村の記録帳に隠した理由は一つだ」
「追われていた」
「か、残したかった」
その言葉を聞いたとき、昨夜の祭りの広場が頭に戻った。
あの本の中に紙を残した人は、ただ隠したかっただけではないのかもしれない。いつか誰かが綴じを開いて、見つけることまで考えていたのかもしれない。
外で、石を踏む音がした。
ひとつ。
ふたつ。
ライナルトが紙を私の手へ戻すと同時に、腰の短杖へ手をやった。
「下がれ」
戸口の影が動く。
次の瞬間、細い刃が扉の隙から差し込まれた。木片が跳ねる。私は反射で卓の下へ隠れた。
ライナルトが一歩出る。
空気が鳴った。目に見えるほどの光は出なかったのに、戸口の向こうで何かが壁へ叩きつけられる音がした。短い息。足音が乱れて、ひとつ外へ逃げる。
「待っ――」
言いかけた私を、ライナルトが手で制した。
「追うな」
「でも」
「目的は紙だ」
外へ飛び出したら、むしろ手がかりを捨てることになってしまう。
ライナルトは外をうかがい、追跡しないまま戸を閉める。壊れた木片を足で寄せると、短く舌打ちした。
「相手が動くの、早いですね」
「向こうも、昨夜の時点で気づいてた」
「私たちが記録帳を持ち帰ったから」
「ああ」
私は包み直しかけた紙を見た。
たった数行の記録なのに、それだけで人が刃を向けてくる。村の外にあるものは、私が思っていたよりずっと近くで、ずっと早く動いていた。
「南観測所へ行くんですね」
「今からな」
ライナルトは壊れた戸口を一瞥した。
「ここからは、追う側じゃなくて、先に着く」
その言い方には、迷いがなかった。
ずっとこの形の追跡をしてきた人の声だった。
私は紙片を鞄の内側へ入れ、工具を確かめた。
手はまだ少し冷えていたが、動きは止まらなかった。
継場を出るころには、夜がようやく明け始めていた。
峠の上に薄い光が差し、その先の空だけが先に朝になっている。村はもう見えない。霧の森も背の低い影になって、振り返っても輪郭しか残っていなかった。
「イリス」
歩き出す前に、ライナルトが一度だけ私を呼んだ。
「今なら、まだ村へ戻れる」
私は少しだけ笑いそうになった。
さっき、戻らないと答えたばかりなのに、この人はたぶん、本当に最後のところでしか人に道を決めさせない。
「帰りません」
今度は、ためらわなかった。
「白紙本のことも、署名のことも、確かめたいです」
「……そうか」
それだけ言って、ライナルトは峠のほうへ向き直る。
私はその背を追った。
村から続いていたはずの道は、もう別のものになっていた。暮らしへ戻る道ではなく、隠されていた綴じ目をひとつずつ開いていくための道だった。
朝の光が差したら、足元の石まで少しずつ色を持ち始めた。
その先にあるものが何か、私はまだ知らない。
けれど知らないままで立ち止まるには、昨夜見つけた印も、今朝見つけた署名も、私の手の中で重すぎた。
峠道へ踏み出したら、風が変わった。
村の匂いが遠くなり、代わりに乾いた石と古い鉄の匂いが混ざりはじめた。




