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才能なしと追い出されましたが、辺境で魔導書工房を始めます。──なぜか王国最高位の魔術師が、うちの工房に来るのですが?  作者: 森凛


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第六話 ー 月光祭の火

 月光祭の夜は、村の灯りがひとつずつ増えていったら、霧の中に小さな星が降りたように見えた。


 私は修繕した記録帳を抱えて、広場へ向かった。

 昼のあいだは畑にいた人たちも、今日は早く家へ戻っていたらしく、道には洗った長靴が並び、戸口には白い布が結ばれていた。月の光を迎える夜には、家の前を少しだけ明るくしておく。それが、この村の昔からの習わしだった。


 広場の中央には細い木の柱が立てられ、そのまわりに灯皿が円を描いていた。子どもたちは火に近づきすぎないよう年長の娘たちに呼び止められ、男たちは祭りの道具を運び終えると、いつもより少し静かに立っていた。騒がしい祭りではなく、祈りのための夜だ。だから人の声も、火の音を邪魔しないくらいの高さで止まる。


「持ってきたね」


 振り向くと、モーナがいた。

 薄い外套の上から肩をさすりながら、私の腕の中の記録帳をのぞき込む。


「はい。もう使えます」


「村長が、ずっと待ってるよ。あれがないと落ち着かない人だからねえ」


 モーナがそう言って笑ったら、たしかにそうかもしれないと思った。

 あの記録帳は、祭りの祈りを書き足すための本というより、村そのものの手触りを残してきたものに近い。誰がどの年に豊作を願い、誰が病の快癒を書き込み、誰が亡くなった家族の名を小さく加えたのか。頁をめくれば、村の時間が重なっている。


 早速、私は村長に記録帳を渡した。

 村長は何度か表紙を撫でてから、ほっとしたように息を吐いた。


「これで今年も読めるな」


「無理に大きく開かなければ、問題ありません」


「そこは私より、おまえさんのほうがよく知っとる」


 そう言って村長は笑った。

 笑い方まで乾いた人だけれど、今日だけは顔がやわらいで見えた。


 そのとき、広場の外れに黒い影が見えた。


 灯りの輪の少し外。霧と夜気の境目みたいなところに、ライナルトが立っていた。

 村の祭りに似合う人ではないはずなのに、遠くから見ると、不思議と場を乱してはいなかった。黒い外套の裾だけが風に揺れて、そこだけ夜が少し濃いように見えた。


 モーナが私の横で小さく言った。


「やっぱり来たね」


 私は返事をしなかった。

 返事をしたら、私までそれを待っていたみたいに聞こえそうからだ。


 やがて火がひとつ落とされ、広場が静まったら、村長が記録帳を開いた。

 

 古い祈りの文句が読み上げられる。短い言葉だった。


 土が荒れないように。

 霧が深くなりすぎないように。

 冬の前に病が広がらないように。


 王都の大きな祈祷式みたいな立派さはないけれど、この村にはこの村の言い方がある。


 頁は問題なくめくれていた。綴じも、背も、紙端も落ち着いている。


 私はそこでようやく肩の力を抜いた。


 けれど、次の頁が開かれたときだった。


 見返しに近い継ぎ目が、月の光をひとすじ噛んだように、かすかに光った。


 私は目を止めた。


 ただの反射ではなかった。

 革でも紙でもない。もっと細いものが、背の内側で光を返した。


「……どうした」


 いつの間にか、ライナルトがすぐ後ろにいた。


「今、継ぎ目が」


 村長の声は続いていた。

 まわりの人は祈りを聞いている。気づいたのは、たぶん私とライナルトだけだった。


「見せてください」


 村長が読み終えるのを待って、私は記録帳を受け取った。


 灯皿のそばへ寄せると、背の内側に、細い銀糸が一本だけ渡されているのが見えた。補修に使ったものではない。私が触った場所より、さらに内側だ。


 私は指先で継ぎ目をそっと押した。


 紙がわずかに浮く。そこに、何かが隠されている。


「祭りのしるしかな」


 モーナがのぞき込む。


「違います」


 私は小さく答えた。


 糸の撚りが違った。


 針穴の間隔も、綴じの寄せ方も、この村で使われてきた形式ではない。祈りの本に入れる補強なら、こんな位置にこんな細さでは置かない。見つからないように、見返しの奥へ沈めてある。


 ライナルトが記録帳を受け取って、灯りに傾けた。


「……隠してる」


「はい」


 村長も、さすがに顔をしかめた。


「そんなものが入っとったのか」


「直したときには気づきませんでした。綴じを崩していないので、背の芯までは見ていませんでした」


 私はそこで言葉を切った。


 言い訳みたいに聞こえるのが嫌だったけれど、事実ではあった。あの本を使うために修繕を優先した。全部をばらして組み直す仕事ではなかった。


 ライナルトは表紙を閉じ、短く言った。


「工房で見る」


 村長が迷った顔をしたので、私はすぐに言い添えた。


「戻します。今夜のうちに」


「……頼む」


 祭りを止めるわけにはいかない。

 村長は代わりに口伝の祈りへ切り替え、広場の輪は何とか保たれた。けれど、さっきまで穏やかだった空気は少しだけ変わっていた。水面の底に枝が沈んでいるのを見つけたあとみたいに、見えているものの下が気になってしまう。


 私は記録帳を抱えて、工房へ戻った。

 ライナルトがついてくる。後ろを振り返らなくても、それはわかった。


 途中、広場の外れにひとり、見覚えのない男が立っていた。

 村の者ではない。服の泥のつき方が違う。村道を歩く人の泥ではなく、もっと硬い道を長く来た泥だと思った。


 男は私ではなく、記録帳を見ていた。

 ライナルトが視線を向けると、その男はすぐに顔をそらし、人の影の向こうへ消えた。


 私は足を止めかけた。


「今の人……」


「放っとけ」


 声は低かった。

 けれど、短いその言い方が、かえってよくなかった。


 工房へ入ると、外の祭りの音が一枚壁を隔てただけで遠くなった。

 扉を閉めたら、村のざわめきまで霧の向こうへ退いたように静かになった。


 私は机の上に布を敷いて、記録帳を開いた。

 灯りを寄せ、見返しの継ぎへ細いへらを入れる。糊を切りすぎないよう、紙の息だけをはがすつもりで進めると、内側から細長い紙片が現れた。


 古い控え札だった。

 半分は切られ、半分は焼かれている。けれど印だけは残っていた。


 七つの塔を円で囲んだ印。


 私は息を止めた。


 それは王都の書庫印に似ていた。

 けれど、完全には同じではない。円の綴じ方が違う。塔の根元を結ぶ線が一本多い。その形を、私は知っていた。


 学院の保存室でしか見ない印だった。


「知ってるな」


 ライナルトが言った。


 私はすぐには答えられなかった。

 知っている、と言ってしまえば、その先も話さなければならなくなる気がした。


「……昔、見たことがあります」


「どこで」


「学院で」


 それだけ答えるのがやっとだった。

 自分で口にしたら、その言葉が思っていたより近くに残って、少しだけ息がしづらくなった。


 ライナルトは追及しなかった。

 その代わり、紙片を手に取って裏を見た。


 裏面には数字と地名が並んでいた。

 インクは薄れていたけれど、ひとつだけ読める行があった。


 灰鐘峠(はいがねとうげ) 南観測所 移送済


 私は読んで、首を上げた。


 南観測所。

 この村から王都へ向かう古道の途中にある、今は使われていない施設の名だ。もう閉じられて久しいと聞いていた。旅人も、荷馬車も、いまは別の道を通る。


「どうして、そんなものが村の記録帳に……」


「隠したからだ」


 ライナルトは即答した。


「王都の印と、学院の綴じ。村の祈りの本に入れる理由はない」


「誰かが、持ち出した……?」


「たぶんな」


 私はもう一度、紙片を見た。

 紙質も違う。村で使う記録紙より緻密で、けれど宮廷文書ほど固くない。保存用に近い。

 折りたたんで隠すために選ばれた紙だ。


 そのとき、外で足音がした。


 一人分。

 扉の前までは来ない。様子をうかがうように、窓の下で止まって、それから離れていった。


 私は思わず灯りを押さえた。

 工房の中が急に狭くなったように感じた。


 ライナルトが扉のほうを見たまま言う。


「見られてる」


「祭りの広場の人ですか」


「ああ」


「村の人では、ありませんでした」


「だろうな」


 それきり、少し沈黙が落ちた。


 外ではまだ祭りが続いているはずなのに、工房のまわりだけ別の夜になったみたいだった。

 灯りの輪の外へ、一歩だけ出てしまった感じがした。


 私は紙片を布で包んだ。


「村長には、どう説明しますか」


「全部言う必要はない」


「でも、」


「巻き込まれる」


 私は黙った。

 その言い方に反発したかったのか、安心したかったのか、自分でもよくわからなかった。


 ライナルトは記録帳を閉じ、布ごと紙片を押さえた。


「確かめたい場所がある」


「南観測所ですか」


「……その前だ」


「前?」


「残りを持ってる奴がいる」


 私は顔を上げた。


「わかるんですか」


「少しな」


 また、それ以上は言わない声だった。

 けれど、今までの曖昧さとは少し違った。行き先がある人の声だった。


「おまえが見た印も必要だ」


「私が?」


「綴じを見分けられる人が必要だ」


 言われて、胸の奥が小さく冷えた。

 それは職人として認められている言葉のはずなのに、別の意味も含んでいる気がした。学院の印を、私が知っていたこと。村の外のものを、私は見分けられること。


 モーナの声が、遠くで一度だけした。

 祭りの終わりを知らせる呼び声だった。


 ライナルトが外套を直す。


「明日」


 それだけ言って、私を見る。


「村を出る」


 私はすぐには意味がつかめなかった。


「……私もですか」


「ああ」


「なぜ」


「おまえじゃないと、追えない」


 短い言葉だった。


 村の記録帳の中から出てきたのが、ただの古い紙切れではないことは、もうわかっていた。

 あれは、どこかへ運ばれたものの記録で、誰かが隠した跡で、そしてたぶん、まだ終わっていない話の残りだ。


 ライナルトが扉へ向かったら、工房の空気まで外へ引かれるように動いた。


「夜明け前に来る」


「……わかりました」


 扉が閉まる。

 その音が消えたら、工房はまた静かになった。けれど、さっきまでの静けさではなかった。村の夜に戻ったというより、村の外へ続く道が、見えないまま扉の前に置かれたような静けさだった。


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