第五話 ー 本は燃えていない
今日は別の依頼を片付けていた。
村長から頼まれた古い記録帳の修繕だ。
毎年、村の農作繁栄を祈る「月光祭」で使われるものらしい。祭りの夜に読む祝詞や、供えた麦の量、その年の当番の名を記していく帳面で、何十年も村の家々を回りながら使われてきたのだと聞いた。長い年月に手で触れられ続けたせいで、表紙の革は角から剥がれ、綴じはところどころ糸が浮いていた。
霧の森に囲まれたグラウハイム村では、朝になると森の切れ目にだけ薄く日が差して、村の人たちはその短い光のあいだに畑を見て、薪を割って、家畜の世話をする。薬草を摘む者もいれば、森の浅いところで木の実を集める者もいる。みんな大きな声では話さないけれど、誰がどこの家で何に困っているかは、だいたい知っていた。
月光祭は、そういう村のためのものだ。立派な儀式ではなく、冬を越え、春を迎え、また畑に種をまけるようにと願う、静かな祈りに近い。
今回の修繕でいちばん大事なのは、祭りの夜に灯される小さな加護と、人の手のぬくもりに、何年も静かに耐えることだった。
だから、強い魔力を受け止めるための厚手の羊皮紙ではなく、軽くてやわらかい亜麻紙を選んだ。綴じには蜜蝋を引いた細い亜麻糸、表紙には手になじみやすい薄い鹿革を使う。
強い術を受ければすぐに傷むだろうけれど、それで十分だった。
私は浮いた糸を切って、古い綴じを一本ずつほどいていった。
表紙を外してみると、背の内側に細い布が残っていた。昔の修繕で足された寒冷紗だろう。糊はほとんど乾ききっていて、指で触れると粉のように崩れた。鹿革の裏も、汗と湿気を吸って少し硬くなっている。けれど、芯紙そのものはまだ生きていた。背を作り直せば、もう十年は使える。
私は新しい亜麻紙を帳面の厚みに合わせて裁ち、欠けた部分にあてる補修片を作った。古い紙より少しだけ薄くする。そうしないと、重ねたときに段差ができる。綴じ直したあとで背が不自然に膨らめば、開き癖が変わってしまう。
鹿革も、元の癖を見ながら切る必要があった。新しい革を厚くしすぎると、帳面だけが若返って見える。使い込まれた道具には、直しすぎない方がいいこともある。
どうすれば、本の力を最大限に引き出せるのかを考えはじめると、あっという間に時間が過ぎて行ってしまった。
◇
モーナが来たのは、昼を少し前にした頃だった。
扉を開けたら、乾いた薬草の匂いが外から滑り込んできた。ラベンダーと、少し青さの残るローズマリー。布袋をふたつ提げて、いつもの足取りで入ってくる。
「作業してるのかい」
「はい、村長からお預かりした記録帳です」
モーナは作業台の前まで来て、帳面を覗き込んだ。
「ああ、月光祭のね。今年もその季節になったね」
「背がかなり傷んでいました。綴じを半分以上やり直さないと、祭りの夜に開いたとき崩れると思います」
「さすがイリちゃん、頼もしいね」
「開くときに崩れる本は、使う人が一番困りますから」
モーナは「そうだね」と笑って、今度は作業台の隅に目をやった。エルザ商会の羊皮紙だった。村の中ではまず見かけない質のものだから、目につかない方がおかしい。
「あら、いい紙だこと」
「……いただきました」
「依頼人から?」
「はい」
それだけ答えると、モーナの目が少しだけ細くなった。
「最近よく来てる方? 背の高い、黒い外套の」
私は補修片の端を揃えながら、小さくうなずいた。
「依頼人です」
「依頼人...そうよね」
同じ言葉を返しただけなのに、少し違う響きがあった。モーナは棚に薬草を置きながら、独り言のように続けた。
「村の入り口で何度か見かけたよ。霧の深い日でも、迷わずまっすぐ歩いてくる。王都の人って、もっと足音がせわしないものだと思ってたけど」
モーナは薬草を置き終えると、帳面の表紙を指先でそっと撫でた。
「いつも本を直してもらって、村のみんなはとても助かっているよ。祭りのものって、壊れてもすぐ新しくできるわけじゃないから」
「新しくすると、手になじむまで時間がかかりますから」
「そういうものかい」
「はい。頁の重さも、革の曲がり方も、毎年少しずつ手に馴染んでいくので」
「なるほど」
モーナは感心したように笑ったあと、もう一度、作業台の端にある羊皮紙へ視線をやった。
「その紙は、まだ使わないのかい」
私はそこで、少しだけ手を止めた。
「……まだ、どこに使うか決めていません」
白紙の本のことまで含めて言ったつもりはなかった。でも、自分の耳にはそう聞こえた。
モーナが何かを言いかけた、そのときだった。
◇
外で、砂利を踏む音がした。
急ぎも迷いもない足取りで、まっすぐこちらへ近づいてくる。モーナが顔を上げた。私も手を止めた。
音は扉の前で止まった。
「どうぞ」
そう言ったあとで、自分の声が思ったより早く出たことに気づいた。
開いた扉からライナルトの姿が見えた。
彼は戸口に立ったまま、まずモーナを見た。ほんの一拍ぶんだけ、足が止まる。
「あら、いらっしゃい」
モーナが先に笑った。ライナルトは何も言わなかったが、視線をわずかに下げた。知らない相手に無愛想なのではなく、どう返していいかわからないときの沈黙だと、私はもう少し前から知っている。
「依頼人の、ライナルト様です」
口にしてから、自分でも少しおかしかった。依頼人であることは事実なのに、言い訳のようにも聞こえたからだ。
モーナは布袋を抱え直しながら、扉の方へ向かった。
「じゃあ私は帰るよ。祭りの帳面、楽しみにしているね」
「はい」
モーナはライナルトの横を通るとき、もう一度だけ彼を見上げた。何か言いたそうだったけど、代わりに、春先の土を踏むみたいにやわらかく笑って、そのまま外へ出ていった。
扉が閉まったら、工房の空気が少しずつ落ち着いて、さっきまで浮いていた薬草の匂いも棚のあたりに沈んでいくようだった。
◇
モーナが帰ったあと、ライナルトは作業台の前まで来た。
そのときになって、私は彼が何も持っていないことに気づいた。
損傷した本も、包みも、羊皮紙の束もない。外套の下も平らだった。これまでの来訪には、いつも何かしらの目的が手に見えていた。受け取りの本、焼けた残骸、持ってきた素材。でも今日は、そのどれもない。
(どうしたんだろう)
私は記録帳の背を押さえたまま、次の言葉を待った。ライナルトはすぐには話さなかったが、作業台の上を一度、ゆっくり見渡す。月光祭の記録帳、脇に置いたエルザ商会の羊皮紙、その隣の白紙の本。視線が順に触れて、それから私に戻った。
「……本は、燃えていない」
短い言葉だった。
でも、一瞬で前回の依頼品のことを言っているのが分かった。
「そうですか」
「ああ」
それだけだった。
私は手を動かしながら、記録帳の背の傷みをもう一度指でなぞった。本が燃えなかったということは、表紙も、背も、紙の層も、少なくとも前回の使用では持ちこたえたということだ。
「熱は、どこに残りましたか」
私が尋ねると、ライナルトは少し考えてから答えた。
「表紙が少し熱くなったが、中央は前ほど上がらなかった」
「匂いは」
「焦げはしなかった。革が温まる匂いだけだ」
私は小さくうなずいた。三層目を薄くして、余剰魔力の逃げ道を作ったのが効いている。中央に熱が残らないなら、芯の近くで術式が詰まっていない。前回のように頁の内側から炭化が始まることも、ひとまずは避けられている。
「開きはどうでしたか」
「前より軽い」
「頁の端は引っかかりませんでしたか」
「ない」
厚手の羊皮紙を使っても、繊維の締まりが強すぎれば、魔力が頁の内側で跳ね返る。反対に柔らかすぎれば、受け止めた熱が散る前に焼ける。今回の本は、背の近くで熱を溜めず、表紙側へ少しずつ逃がせているらしい。なら、次は表紙の革と見返し紙のあいだに、もう一枚薄い緩衝層を入れてもいいかもしれない。
私はそう考えながら、祭り用の記録帳の補修片を元の紙に重ねた。
ライナルトが、その手元を見ていた。
「……それも、直すのか」
「はい、村の祭りで使う物だけど」
「そうか。良いものになりそうだ」
その言葉を聞いて、なぜか少し照れくさい気持ちになった。
◇
外の光が少し傾きはじめた頃、ライナルトがようやく外套に手をかけた。
けれど彼は扉へ向かう前に、作業台の前で止まった。
「次を、頼みたい」
私は顔を上げた。
「三冊目ですか」
「ああ」
「前の仕様で?」
「いや、できれば違うやつを試したい」
私は記録帳から手を離し、作業台の隅の羊皮紙へ視線をやった。
「承りました。前回と同じく、中央に熱を溜めない構造で組んでみます。ただ、今回は見返しの内側に一枚、薄い緩衝紙を入れます。表紙に熱が寄るなら、その手前で少し散らした方がいいので」
「任せる」
一言だけ残して、ライナルトは振り返らずに扉を開けた。外の冷えた空気が流れ込んできて、霧の匂いが工房にうっすら残るようだった。
扉が閉まると、工房の中は少し静かになった。けれど、さっきまでと同じ静けさではなかった。人がいた場所だけ、まだわずかに温度を残しているようだった。
◇
私はエルザ商会の羊皮紙を手に取った。
窓の光にかざすと、繊維の流れがきれいに揃って見える。厚みも均一で、端へいくほど薄くなる癖がない。これなら、見返しに薄い緩衝紙を重ねても、背のふくらみを抑えやすい。紙目に逆らって裁てば熱で反る。だから最初の一枚は、繊維の流れに沿って長く取る必要があった。
私は定規をあて、切り口が乱れないように、最初の一枚に静かに刃を入れた。




