第三十九話 ー 再会
壁が鳴り始めたのは、南塔を出て間もなくのことでした。
最初は気のせいだと思った。足元の石畳がわずかに揺れたような気がして、立ち止まる。風が城壁の隙間を抜けただけかもしれない。
けれど二度目は、はっきり聞こえた。
低い音。地面の下から響いてくる。石と石のあいだで何かが擦れて、その振動が壁を伝って空気を揺らしている。
三度目は、立っていても分かるほどでした。
足の裏が痺れる。音というより、体の内側を直接揺さぶられる感覚。街を歩いていた人たちが足を止め、壁を見上げている。
南壁の方から、鐘が鳴った。
異音の鐘。短く三つ。続けてもう三つ。鐘室の鈴が拾った振動が、鐘に変わって塔の上から落ちてくる。
ライナルトの歩幅が変わった。
「来たか」
独り言ではなかった。私に向けた声。
「封ですか」
「ああ。切れかける」
切れかける。まだ切れてはいない。けれど、壁の震えは前より強い。南壁第三継に予備片を入れたのは昨日のこと。あそこは静かになったはず。鳴っているのは別の場所です。
第二継か、第四継か。予備片はもうない。抑える手段がない。
私は走り出していた。
ライナルトが追いつく。追い越さない。並んで走る。石畳を踏む靴音が二人ぶん、朝の通りに響く。すれ違う人たちが振り返る。また鐘が鳴る。今度は長い。鳴り止まない。
灰架室の石門が見えた。
門の前に作業員が三人、立ち尽くしていた。中から灰の粉が吹き出している。壁の内側で何かが弾けたような、乾いた埃の噴出。
「入れない」
年配の作業員が振り向いて言った。顔が白い。灰のせいだけではない。
「継ぎ目が開き始めてる。三か所。糊が剥がれて、中の紙が浮いてきた」
私は門の中をのぞいた。
灰の煙が薄く漂う向こうに、壁が見える。継ぎ目に沿って赤い筋が走っている。昨日まで静かだった筋が、脈打つように明滅していた。南壁第三継だけは暗い。予備片を入れた場所。そこだけが眠っている。
けれど、その両隣が光っている。
赤い筋が枝分かれして、天井に向かって伸びていく。壁の中で力が暴れ始めている。
「ライナルト」
「分かってる」
彼は門をくぐった。灰の煙の中を歩く。作業員たちが何か叫んだけれど、ライナルトは止まらない。私もその後に続いた。
灰が目に入る。瞬きをしながら壁に近づく。
熱い。
壁そのものが熱を持っている。石の表面が素手で触れないほどではないけれど、近づくだけで顔の皮膚がじりじりする。
赤い筋が、目の前で脈打っていた。
速い。心臓の鼓動より速い。壁全体が何かを押し返そうとしている。あるいは、何かが内側から押し出そうとしている。
私は懐から白紙本を出した。
布を解く。小さな冊子が手の中に現れる。壁に近づけた瞬間、紙の端がかすかに震えた。壁の振動に呼応している。
一頁目を開く。
――この壁は わたしが まもる
墨が薄い。前に見たときよりも、さらに薄くなっている。字の輪郭がぼやけている。紙の上から消えかけている。
封が消える。
書き直さなければ。
私は二頁目を開いた。白紙。まだ何も書かれていない。ここに書けば、壁は閉じる。同じ一行を書けば、封が更新される。
指先を紙に当てた。
書く。今すぐ。
「書かないで」
声がした。
背後から。
私は手を止めた。
灰の煙の向こうに、人影がある。石門の内側、作業台の陰に立っている。フードを被った小柄な人物。
前に見た。灰架室で仮合わせをしていた人物。手首に黒い革紐。丸い金具。
作業員たちが振り向く。ライナルトが体の向きを変える。
人物は動かなかった。石門の灯りを背にして、フードの下の顔は影に沈んでいる。
「書かないで」
もう一度、同じ言葉。
声は低かった。けれど荒くはない。震えてもいない。ただ、静かに、はっきりと。
「誰だ」
ライナルトが言った。
人物は答えず、フードに手をかけた。
ゆっくりと下ろす。
年配の女性でした。
白い髪が灰の煙の中で揺れている。顔にはいくつもの皺がある。頬がこけて、唇が薄い。長い時間、あまり食べていない人の顔。
けれど目だけが、まっすぐこちらを見ていた。
私は知らない顔でした。
会ったことがない。記憶にない。
けれど、フードを下ろしたその手を見た瞬間、息が止まった。
左手。
指先の爪が短く切られている。親指の腹にごく薄い胼胝がある。紙を長く扱ってきた手。へらを持ち、糊を塗り、針を通してきた指。
革紐の巻き方。金具の位置。針入れの留め紐と同じ手の記憶。
「ヴェラさん……?」
声が震えた。自分で驚くほど。
女性はうなずかなかった。
代わりに、一歩だけ前に出た。灰の煙が薄くなったところで、朝の光が彼女の顔に当たる。皺の一本一本が影を落としている。目の色は灰色。深くて、静かで、長い時間を見てきた色。
「その壁を閉じたのは私です」
女性が言った。
「開けようとしていたのも、私です」
灰架室の中に、その声だけが通った。壁はまだ脈打っている。赤い筋が明滅している。鐘が遠くで鳴り続けている。けれどその声は、全部の音の下をくぐって、まっすぐ私の耳に届いた。
ライナルトが動いた。一歩だけ前へ出て、女性の顔を見る。
「ヴェラか」
長い間があった。
「久しぶりですね、大魔術師」
その呼び方で、ライナルトの表情がわずかに変わった。眉の間の皺が深くなる。十年ぶんの記憶が、一瞬で顔に上ったように見えた。
「十年前と同じ声だ」
「あなたも変わらない」
短いやりとりだった。でも、二人のあいだに流れた空気は短くなかった。十年のあいだ一度も会わなかった人同士が、壁を隔てて同じことをしていた。片方は壁を閉じた側で。もう片方は壁を開けようとしていた側で。
私は白紙本を持ったまま、二人のあいだに立っていた。
「なぜ」
口から出たのは、その一言だけでした。
なぜ壁を閉じたのか。なぜ開けようとしたのか。なぜ二つの名前を使ったのか。なぜ子どもの字に見せかけたのか。なぜ私をここから遠ざけたのか。
全部を聞きたかった。けれど全部は聞けない。壁がまだ鳴っている。時間がない。
ヴェラは私を見た。
その目が、一瞬だけ揺れた。顔は動かない。声も変わらない。けれど目の奥の何かが、ほんの一瞬だけ崩れかけて、すぐに戻った。
「壁の向こうに、あなたの母親がいます」
灰架室の空気が止まった。
灰の粉が光の中で動かなくなった。そう見えただけかもしれない。けれど私の体も止まっていた。心臓だけが動いている。耳の奥で、自分の脈拍が聞こえる。
「母……」
「壁の外ではありません。壁の中です」
ヴェラの声は変わらなかった。静かで、はっきりしていて、感情を抑えた声。けれど「壁の中」という言葉だけが、重さを持っていた。
「十年前、壁が開いたとき、外から何かが入ってきたのではありません」
ヴェラが続ける。
「内側から誰かが出ようとした。あなたの母親です」
膝から力が抜けかけた。白紙本を持つ手が震える。もう片方の手で、本を支えた。
「政権が変わったとき、前の支配者が壁の力を使いました。反対する人たちを封じた。壁の中に。あなたの母親は、その一人でした」
私は壁を見た。赤い筋が脈打っている。この壁の向こう、いや、この壁の中に。
「閉じなければ壁が崩れるところでした」 ヴェラは言った。 「崩れれば、街ごと潰れる。だから閉じた。閉じるしかなかった」
彼女の声が、初めてほんのわずかに震えた。
「でも、閉じれば中の人は出られない」
赤い筋が強く光った。壁の内側から、何かが押しているみたいに。
「だから十年にした」 ヴェラが続ける。 「十年で切れる封。十年あれば、壁を壊さずに開ける準備ができる。扉を仕込める。それでぎりぎりだった」
手順書。巡回路。遮る紙。赤い点。全部が、この一つの目的のためだった。
「ミシェルは」 私が聞くと、ヴェラは小さくうなずいた。
「私です。南塔に入り込むために別の名を使いました。記録係として。票を書いて、壁の中身を少しずつ入れ替えた」
控え帳の赤い点。乾燥棚の部屋の薬の匂い。金属棒の先端の赤。あれは全部、この人の手から出ていた。
「あなたが修復した南壁第三継」 ヴェラが私を見た。 「あそこに扉を作っていました。何年もかけて。壊さず開くための場所を」
私の手が冷たくなった。
昨日、私が予備片を入れた場所。遮る紙を抜いた場所。扉の構造が仕込まれていた紙を、私が剥がした場所。
「壊しました」
声が小さかった。
「あなたが作った扉を、私が」
「知らなかったのだから仕方がない」
ヴェラの声は責めていなかった。けれど、その静けさがかえって重かった。
「けれど、まだ間に合います」
ヴェラが白紙本を指した。私の手の中の、小さな冊子。
「書き直せば、あと十年閉じます。書かなければ、今夜封が切れて壁が開く」
壁がまた鳴った。今度は近い。灰架室の天井から灰の粉が大量に落ちてきた。作業員たちが叫びながら門の方へ走る。
「でも開き方を間違えれば壁が崩れます」
ヴェラの声が、騒ぎの中をまっすぐ通る。
「崩さずに開ける方法は」
「あります」
ヴェラが一歩近づいた。
「あなたが書けば」
「同じ一行を?」
「違う一行を」
赤い筋が激しく明滅している。壁全体が震えている。足元の石が揺れる。
「『まもる』と書けば閉じます。『あける』と書けば開きます」
ヴェラの目が、まっすぐ私を見ていた。
「でも」
「でも」
「開けるとき、壁を支える力があなたの体を通ります」
私は息をのんだ。
「魔力を外に出せないあなたの体を、壁の力が通る。紙を通して定着させるのがあなたの力なら、壁の力もあなたの体を通って紙に定着する。その負荷は」
「どのくらいですか」
「分かりません。誰もやったことがない」
正直な答えでした。嘘をつく余裕がないのか、最初から嘘をつくつもりがないのか。
ライナルトが動いた。
「させない」
低い声だった。ここまでで一番低い。
ヴェラがライナルトを見る。
「あなたが十年前に止めなかったから、今こうなっている」
「だから今度は止める」
「止めてどうするの」
ヴェラの声が、初めて少しだけ高くなった。
「あと十年、あの人を壁の中に閉じておくの」
灰架室に沈黙が落ちた。
壁は鳴っている。鐘は鳴っている。灰は降っている。けれど二人のあいだの空気だけが、凍ったみたいに止まっていた。
私は二人を見た。
ライナルトは壁を閉じたい。壁が崩れれば街が危ない。私を危険にさらしたくない。
ヴェラは壁を開けたい。中に人がいる。私の母親がいる。もう十年待たせた。
どちらも嘘をついていない。
どちらも正しい。
私は白紙本を見た。手の中の小さな冊子。二頁目は白紙。ここに何を書くかで、壁が閉じるか開くかが決まる。
壁が激しく震えた。天井の石が一つ、ぱらりと剥がれて床に落ちる。乾いた音が響いた。
時間がない。
私は顔を上げた。
「ヴェラさん」
女性がこちらを見る。
「母は、壁の中で生きているんですか」
「生きています」
その答えに、迷いがなかった。
「十年間。ずっと。壁の力に守られて、老いもせずに」
老いもせず。
壁の力が人を閉じ込めるなら、時間も閉じ込める。十年前のまま、壁の中にいる。
「会えますか」
「壁が開けば」
私は白紙本を両手で持ち直した。
紙が震えている。壁の振動を受けて、頁の端が細かく揺れている。
閉じるか。 開けるか。
まだ決められない。
けれど、決めなければいけない時間は、もう始まっていた。
壁が、また鳴った。




