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才能なしと追い出されましたが、辺境で魔導書工房を始めます。──なぜか王国最高位の魔術師が、うちの工房に来るのですが?  作者: 森凛


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第四十話 ー 一行

壁が鳴り止まなかった。


灰架室の天井から灰の粉が絶え間なく降っている。光の柱の中を白い粒が舞い、石台の上にうっすらと積もっていく。足元の石が小刻みに震えていて、立っているだけで足首に力がいる。


赤い筋が、壁の継ぎ目を走っていた。


南壁第三継だけが暗い。昨日、予備片を入れた場所。そこだけが眠っている。けれどその両隣、第二継と第四継の赤い筋が激しく明滅して、光が枝のように天井まで伸びている。


壁全体が脈打っていた。


私の手の中で、白紙本も震えている。紙の端が細かく揺れて、頁と頁のあいだから乾いた空気が漏れてくる。本が呼吸しているみたいでした。


ライナルトが私の前に立っていた。ヴェラとのあいだに体を入れるように。


「書かせない」


低い声だった。


「大魔術師」  ヴェラが言った。 「あなたに決める権利はない」


「壁が崩れれば街が潰れる」


「崩さずに開ける方法がある。それを十年かけて準備した」


「扉は壊れた。イリスが予備片を入れた」


「だから書き直すんです。扉を、もう一度」


二人の声がぶつかっている。けれど怒鳴り合ってはいない。低い声と低い声が、灰の降る空間で重なっている。


私は二人の声を聞きながら、壁を見ていた。


赤い筋。明滅する光。その奥に、何層もの紙が重なっている。留める紙と遮る紙。古い層と新しい層。十年ぶんの仕事が、この壁の中に入っている。


ヴェラの十年。


壁を閉じて、自分で開ける準備をして、赤い点を打ち続けた十年。


その十年の先にいるのが、私の母親。


壁がひときわ大きく鳴った。石台の上のへらが転がり落ちて、床に乾いた音を立てる。天井の石がまた一つ剥がれた。今度は大きい。拳ほどの塊が灰の中を落ちて、作業台の角にぶつかった。


「時間がない」


ヴェラが言った。声がかすかに切迫している。


「封が切れる。完全に切れたら、もう制御できない。壁が好きなように開く。崩れるかもしれない」


ライナルトが壁に手を当てた。抑えようとしている。けれど魔力が壁の振動に弾かれて、手のひらの周りで白い火花が散った。


「抑えきれない」


彼が言った。初めて聞く声だった。押さえつけた焦りが、一言の端に漏れている。


私は白紙本を見た。


二頁目。白紙。


ここに何を書くか。


「まもる」と書けば閉じる。  「あける」と書けば開く。


閉じれば母は出られない。  開ければ壁が崩れるかもしれない。


どちらかを選べ、と二人は言っている。  でも。


私は壁の継ぎ目を見た。


赤い筋。その下の灰糊。灰糊の下の紙。紙の下の石。何層にも重なった壁の構造。


本と同じだった。


表紙があって、見返しがあって、芯紙があって、折丁があって、糸で綴じてある。壁も同じ。石があって、糊があって、紙があって、力で綴じてある。


本を修復するとき、全部を壊す必要はない。


背を壊さずに一頁だけ外す方法がある。糊をゆるめて、糸を解いて、紙を一枚だけ抜いて、また綴じ直す。


壁だって同じではないか。


全部を閉じる必要はない。全部を開ける必要もない。一か所だけ、通れる場所を作ればいい。壁を壊さず、崩さず、一か所だけ。


扉。


ヴェラが何年もかけて準備していたもの。遮る紙の三枚目に仕込まれていた構造。繊維が放射状に広がり、中心に穴がある紙。壁全体を開けるのではなく、一点だけ通す構造。


私がそれを抜いてしまった。


でも、白紙本がある。


白紙本は書いた人の意志で性質が決まる。ヴェラが「まもる」と書いて壁は閉じた。なら、私が別の言葉を書けば、壁は別のことをする。


閉じるでもなく、開けるでもなく。


綴じ直す。


「ライナルト」


私の声に、二人とも止まった。


「どけてください」


彼の背中が、一瞬だけ固くなった。


「何をする」


「書きます」


「何を」


「閉じません。開けもしません」


ライナルトが振り向いた。灰の粉が舞う中で、彼の目が私を見ている。


「どういう意味だ」


「本の修復と同じです」


私は白紙本を持ち上げた。


「背を壊さずに一頁だけ外す方法があります。壁だって同じです。全部を開けなくても、一か所だけ通れるようにできる」


ヴェラが息をのんだ。


「扉……」


「はい。ヴェラさんが準備していたものと同じです。私が紙を抜いてしまったから、もう壁の中に扉はない。でも白紙本に書けば、壁そのものに扉を作れる」


壁が鳴った。天井から石の欠片が落ちてくる。灰が濃くなっている。時間がない。


「負荷が来る」  ヴェラが言った。 「壁の力があなたの体を通る。扉を作るなら、閉じるよりも開けるよりも繊細な制御がいる。体が持つか分からない」


「分かっています」


「分かってない」  ライナルトが言った。 「持たなかったらどうする」


「持たせます」


自分でも驚くほど、迷いのない声だった。


けれど本当は怖かった。指先が冷たい。心臓が速い。壁の振動が体の中まで届いていて、内臓が揺さぶられているような感覚がある。


でも、ここで止まるわけにはいかない。


閉じれば母が出られない。開ければ街が壊れるかもしれない。どちらも選べないなら、どちらでもないものを書くしかない。


「ライナルト」


「何だ」


「魔力を流してください。形にしないで、そのまま」


前にも同じことを言った。南壁第三継で予備片を入れたとき。あのときと同じ。紙を通して力を定着させる。


ただし今度は、予備片ではなく白紙本。壁の一部ではなく、壁の全体。


規模が違う。


ライナルトは数秒のあいだ、私を見ていた。灰の粉が彼の肩に積もっている。顔は険しい。けれど目の奥に、別のものが見えた。信じるか信じないかの、際にいる目。


「……ああ」


それだけ言って、彼は壁に両手を当てた。


空気が変わった。


ライナルトの手のまわりから、重い力が広がっていく。形にしない魔力。押しつけない。ただ在るだけで空間を満たす力。壁の振動がわずかに鈍くなる。抑えているのではなく、振動の速度を落としている。


私は壁の前にしゃがんだ。白紙本を膝の上に開く。二頁目。白紙。


紙に指を当てた。


右手の人差し指。


墨はない。筆もない。あるのは、指先から紙へ伝わるもの。紙に触れて、紙を通して、定着させる力。魔力を外に飛ばせない私が唯一できること。


ライナルトの魔力が壁から流れてくる。壁を通って、空気を通って、私の体に届く。温かくはない。冷たくもない。ただ重い。水の底に沈んでいくような圧力が、肩から腕を通って指先に集まっていく。


書く。


指先が紙の上を動いた。


「こ」。


紙の繊維が沈む。墨がないのに、指が通ったあとに文字が浮かぶ。繊維の向きが変わって、光の当たり方が変わって、字になる。


「の」。


壁の赤い筋が一度、強く光った。私の指に連動している。文字を書くたびに壁が反応する。


「か」。


体が重い。指は動いているのに、腕全体に力が乗っている。壁の力が流れ込んでいる。紙を通して、指を通して、体の中を通っている。


「べ」。


視界がわずかに白くなった。目の端から光が滲む。壁の赤い筋が全部同時に光っている。灰架室全体が赤く染まっている。


「に」。


苦しい。息を吸おうとしても、肺が重い。空気の代わりに力が体の中を流れている。紙と体がつながっている。壁と紙がつながっている。全部がつながっている。


私は歯を食いしばった。


あと少し。


「と」。


「び」。


「ら」。


「を」。


壁の光が一段と強くなる。灰の粉が金色に変わった。石台の影が消えて、灰架室が影のない空間になった。


「ひ」。


「と」。


「つ」。


最後の一画を引いたとき、体の中で何かが弾けた。


光ではない。音でもない。もっと深い場所で、何かが通り抜けた感覚。骨の中を水が走ったみたいな、一瞬の冷たさ。


――この壁に 扉を ひとつ


白紙本の二頁目に、文字が並んでいた。


私の字。右手で書いた字。子どもの字ではなく、大人の字。製本師の字。紙の繊維を読める手が、紙の上に残した字。


壁が光った。


赤い筋が一斉に走る。壁全体が、一瞬だけ白くなった。


けれど崩れない。


光が壁の中を走り、枝分かれして、合流して、一か所に集まっていく。南壁第三継。私が予備片を入れた場所。あそこだけに、光が集中していく。


継ぎ目が開いた。


壁が割れたのではない。石はそのまま。灰糊もそのまま。けれど継ぎ目の赤い筋が広がって、人が通れるほどの輪郭を描いた。壁の中に、光の扉が浮かんでいる。


壁の向こうから、風が吹いた。


灰架室の空気とは違う風。冷たくて、古くて、でもどこか懐かしい匂いがする。石と水と、それから微かに、花の匂い。十年間閉じていた場所から吹いてくる風。


私は白紙本を膝の上に置いたまま、その光の輪郭を見ていた。視界がまだ白い。体が重い。指先の感覚がぼんやりしている。


光の中に、影が見えた。


人の形。


小さくはない。けれど大きくもない。光が強すぎて輪郭しか分からない。


影がゆっくりと、光の中から一歩を踏み出した。


ヴェラが走った。


年配の体が灰の中を駆ける。転びそうになりながら、壁の前に辿りついて、光の中から出てきた影に手を伸ばす。


影の手が、ヴェラの手を掴んだ。


光が弱くなっていく。扉の輪郭がゆっくりと細くなる。壁が閉じようとしている。


ヴェラが影の手を引いた。


光の中から、一人の女性が出てきた。


若い女性でした。私と同じくらいの年に見える。けれどそれは十年間、時間が止まっていたから。本当はもっと年上のはず。


髪が長かった。服は古い。十年前の服。顔は灰の粉にまみれていて、よく見えない。


けれど、手が見えた。


左手。


指先の爪が短い。親指の腹にごく薄い胼胝がある。


私の手と同じだった。


紙を扱う人の手。へらを持ち、糊を塗り、針を通してきた指。


女性がこちらを見た。


灰にまみれた顔。目だけが光っている。灰色の目。ヴェラと同じ色。


涙が流れていた。女性の頬を、灰の粉を溶かしながら、二筋の線が落ちていく。


私は知らない顔でした。会ったことがない。記憶にない。


けれど、手が知っている。


あの手に紙の持ち方を教わった。あの指に針の通し方を見せてもらった。覚えているのは手だけ。顔も名前も声も覚えていない。でも手だけが、ずっとここにあった。


私の目からも何かが落ちた。涙だと気づいたのは、頬が濡れてからでした。


光の扉が閉じていく。


壁の赤い筋が急速に細くなる。光が引いて、灰架室が薄暗さを取り戻していく。


継ぎ目が閉じた。


赤い筋が消えたのではない。静かになったのです。脈打つような明滅が止まって、継ぎ目に沿ってごく淡い赤がうっすり残っている。呼吸が穏やかになった壁。


扉は消えた。


壁は元に戻った。けれど中にはもう誰もいない。


女性がヴェラの手を握ったまま、灰架室の床に座り込んでいた。ヴェラも座っている。二人とも灰にまみれている。二人とも泣いている。声は出していない。ただ手を握って、座っている。


私は膝の上の白紙本を見た。


二頁目に字が並んでいる。乾いている。紙の繊維が沈んで刻まれた文字。消えない字。


――この壁に 扉を ひとつ


三頁目は白紙のまま。まだ書ける。けれど今は書かない。


体が重かった。指先の感覚がまだ戻らない。視界の端がぼんやり白い。壁の力が体を通った跡が、骨の奥に鈍く残っている。


そのとき、膝が折れた。


座り込んだのではない。力が抜けたのです。白紙本を抱えたまま、石の床に崩れかけた。


腕が支えた。


ライナルトの腕でした。


肩に手が当たって、体が傾くのを止めている。強くはない。けれど離れない。


「終わったか」


彼の声が、すぐ近くで聞こえた。


「……はい」


声がかすれていた。自分のものとは思えないほど弱い声。


「立てるか」


「少し、待ってください」


彼の腕はそのままだった。


私は灰の降る中で、しばらく座っていた。石の床が冷たい。冷たさが体の裏側から染みてきて、壁の力が通った場所をゆっくり鎮めていく。


ヴェラと女性がまだ手を握っている。


女性が何か言った。小さな声で、聞き取れなかった。ヴェラが首を振って、また何か答える。二人のあいだに十年ぶんの空白がある。でもその空白を、今ここで埋めようとしている。


やがて、女性が顔を上げて私を見た。


灰にまみれた顔。涙の跡。灰色の目。


何も言わなかった。言葉の代わりに、手を見せた。左手。私と同じ手。紙を扱う人の手。


私も自分の手を見た。右手。白紙本を抱えた手。指先の感覚がまだ鈍い。でも、紙はちゃんと持てている。


同じ手。鏡みたいに。


女性が小さく笑った。泣きながら。


私も笑おうとした。うまくできたかどうか分からない。


白紙本を閉じた。


二頁目の字はもう乾いている。三頁目は白紙。まだ書ける。でも今は書かない。今日はもう書かない。


壁は静かだった。鐘が止まっている。灰の粉がゆっくり床に降り積もっている。赤い筋は薄く残っているけれど、もう脈打ってはいない。眠っている壁。


ライナルトの腕が離れた。


私は自分の足で立ち上がった。膝がまだ少し震えている。でも立てる。


石門の外から朝の光が差し込んでいた。灰架室の中は薄暗いのに、門の向こうだけが白く光っている。


ヴェラが女性の手を引いて立ち上がった。二人とも灰まみれで、二人とも疲れきった顔をしている。でも手は離していない。


私は白紙本を布で包み、懐へ入れた。


紙の角が肋骨の下に当たる。軽い。たった数頁の本。でも二頁目には、壁に扉を作った字が残っている。


私の字。


ヴェラでもなく、子どものふりでもなく、左手でもなく。


右手で。自分の意志で。製本師の手で書いた一行。


門を出た。


朝の光が眩しかった。目を細める。壁の外では街がもう動き始めていた。荷車の音。人の声。犬が吠えている。何も変わっていない朝の景色。


壁がさっきまで鳴っていたことを、街の人たちは知っている。けれど、壁の中から誰かが出てきたことは知らない。白紙本に一行が書き足されたことも。


ライナルトが隣を歩いていた。何も言わない。前より少し近い。


ヴェラと女性が、少し遅れてついてくる。二人の足音は揃っていない。長い時間離れていた人たちの歩き方。でも手は離していなかった。


街の角を曲がったとき、壁に貼られた古い掲示が目に入った。端が剥がれかけた紙。右上に、小さな赤い点がひとつだけ残っている。


足を止めた。


赤い点。


ただの染みかもしれない。虫食いかもしれない。掲示を貼った人が間違えてつけた跡かもしれない。


でも今の私には、もう分かる。赤い点が何を意味するのか。表に出さない票の印。裏を通る紙の目印。誰かが何かを隠して、でも全部は消せなかった痕。


ヴェラの十年間の痕跡。


私はその紙をそっと剥がした。裏を見る。


何もなかった。ただの掲示。ただの染み。


紙を元に戻した。


それでよかった。


全部の赤い点が意味を持つ必要はない。ただの点は、ただの点でいい。もう追わなくていい。


歩き出す。


背中の後ろから、ヴェラの声がかすかに聞こえた。女性に何か話しかけている。女性が短く答える。声の中身は聞き取れない。でも、声の温度だけは分かった。温かい声だった。


「ライナルト」


「何だ」


「帰ります」


彼は何も言わなかった。ただ、歩幅が私に合った。


ヴェラと女性が少し遅れてついてくる。街の角を曲がるとき、壁に貼られた古い掲示が目に入った。端が剥がれかけた紙。右上に小さな赤い点がひとつだけ残っている。


足を止めかけて、やめた。


ただの染みかもしれない。ただの虫食いかもしれない。もう追わなくていい。


歩く。石畳を踏む四人ぶんの足音が、朝の通りに散っていく。


ヴェラと女性とは、東門の手前で別れた。


ヴェラが私を見た。何か言いかけて、やめて、代わりに手を出した。左手。私はその手を握った。紙を扱う人の手。胼胝の位置が似ている。力の入れ方も似ている。


「また来ます」


私が言うと、ヴェラは小さくうなずいた。女性も、灰にまみれた顔のままうなずいた。


手を離す。


二人が東門の向こうに消えるのを見届けてから、私は歩き出した。ライナルトが隣にいる。何も言わない。いつも通り。


工房に着いたのは、昼前でした。


扉を開けると、糊の匂いがした。


古い木と、紙と、少しだけ酸っぱい糊の匂い。ずっと嗅いでいた匂いのはずなのに、数日ぶりに帰ると新しく感じる。鼻の奥が少しだけ緩んだ。


マルグリットが奥の机で帳面の背を糸で綴じていた。顔を上げて、私を見て、それから私の後ろのライナルトを見て、また私を見た。


「ひどい顔してるよ」


「そうですか」


「灰だらけだし、目が赤いし、袖口が破れてる」


言われて見ると、本当だった。右の袖口がほつれている。壁の石に引っかけたらしい。灰はもう払ったつもりだったけれど、髪にまだ白い粉が残っていた。


「手を洗っておいで。戻ったら仕事がある」


マルグリットはそれだけ言って、糸に目を戻した。


それだけだった。どこにいたのか、何をしていたのか、聞かない。聞かないのがマルグリットだった。仕事があるから戻ってこい、とだけ言う。


ライナルトは工房の入口に立ったまま、中に入ろうとしなかった。


「入らないんですか」


「用は済んだ」


短い返事。いつも通り。


「ライナルト」


「何だ」


「ありがとうございました」


彼は少しだけ眉を動かした。それから、何も言わずに背を向けた。通りの方へ歩いていく。三歩目で足が止まった。


「イリス」


振り向かないまま。


「何ですか」


「腕のいい製本師を知っている。帳面の修復を頼みたい」


私は少し笑った。


「いつでも来てください」


彼の背中が通りの角で消えるまで、扉の前に立っていた。それから中に入って、扉を閉めた。


手を洗った。水が冷たい。灰が流れて、桶の底に白い筋を引く。指先の感覚が少しずつ戻ってくる。壁の力が通った痺れが、水の冷たさに溶けていくみたいだった。


机に戻ると、マルグリットが帳面を三冊、私の方へ寄せた。


「背がゆるんでる。糸を替えて、見返しも貼り直して」


「分かりました」


私は椅子に座った。


帳面を手に取る。背に触れる。糸がゆるんでいる。芯紙が少し浮いている。表紙との接着が甘い。


見ただけで分かる。触ればもっと分かる。どこがゆるんで、どこを締め直せばいいか。手が勝手に動き始める。


針入れを出した。灰色の革の針入れ。返し縫いの糸目が、少しだけ前と変わっている。予備片を入れて、抜いて、縫い直した跡。でもそれは、もう誰にも分からない。


針を一本抜いて、糸を通す。


帳面の背に針を入れた。古い糸を抜き、新しい糸を通す。折丁のあいだを縫っていく。一目、二目、三目。糸が紙を抱いて、背が少しずつ締まっていく。


窓から午後の光が差していた。机の上に、針と糸と糊壺と帳面が並んでいる。いつもの配置。いつもの仕事。


手が動いている。


この手は壁に扉を作った手です。白紙本に一行を書いた手です。予備片を継ぎ目に差し込んだ手です。


でも今は、帳面の背を縫い直している手です。


それでいい。


糸を締めて、針を止めて、糊を薄く塗る。見返しを貼り直す。指で押さえて、布で拭いて、しばらく重しを載せる。


一冊目が終わった。


二冊目を手に取る。


マルグリットが奥で何か鼻歌を歌っていた。聞いたことのない節。たぶん自分で作った節。この工房では、仕事の合間にいつもこうだった。


懐の中に、白紙本がまだある。布で包んだまま。軽い。でも確かにそこにある。


三頁目は白紙。いつか書く日が来るかもしれない。


でも今日は書かない。今日は帳面を直す。


窓の外で、荷車が通る音がした。犬が吠えて、子どもの声がして、それから静かになる。いつもの午後の音。


私は二冊目の帳面の背に針を入れた。


一目。二目。三目。


糸が紙を抱く。背が締まる。帳面が、もう一度ちゃんと開けるようになる。


それが私の仕事でした。


壊れたものを直す。ゆるんだものを締め直す。ばらけた紙を、もう一度一冊にまとめる。


壁も本も、やることは同じだった。


午後の光が少しだけ傾いて、机の上の影が動いた。針の先が光を拾って、小さく光る。


私は三目目の糸を引いた。


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