第三十八話 ー 白紙本
南塔の最深部は、地下にあった。
仮置庫四のさらに奥。ふだんは鉄扉で閉じられている通路を、ライナルトが鍵もなく開けた。手のひらを扉に当て、短く何か呟くと、錠の内側で金属が擦れる音がして、扉がゆっくりと内側へ開く。
「魔力の錠ですか」
「ああ。俺と、もう一人しか開けられない」
もう一人。誰か、とは聞かなかった。たぶん答えは分かっていた。
通路は狭く、まっすぐ下へ傾いていた。壁に燭台はない。ライナルトが手のひらに灯りを出した。白い光が石壁を照らすと、天井が思ったより低いことに気づく。頭を少しだけ下げなければ通れない高さでした。
空気が変わっていく。
上の階は乾いた灰の匂いだった。ここは違う。湿ってはいない。けれど重い。動かない空気が、長い時間そのまま澱んでいる。壁の石が呼吸を止めたみたいな、静かすぎる空気でした。
通路の先に、もう一つ扉がある。
こちらは鉄ではなく木でした。古い樫の扉。取っ手は錆びているのに、蝶番だけが新しい。誰かが定期的に手入れしている。
ライナルトが取っ手を引いた。
部屋は、想像していたより小さかった。
四歩で端まで行ける広さ。石の台座がひとつだけ。壁に棚はない。窓もない。天井に明かり取りがひとつあるけれど、地下なので光は入らない。ライナルトの灯りだけが、石の台座をまっすぐ照らしていた。
台座の上に、布が一枚敷いてある。
その上に、本がありました。
小さな本でした。
手のひらに乗るほどの大きさ。厚さは指一本ぶんもない。表紙がない。背もない。ただ紙が重なっていて、細い糸でゆるく綴じられているだけ。
製本と呼べるものではありませんでした。むしろ、綴じかけのまま止まっている。完成する前に中断された本。あるいは、完成させてはいけなかった本。
私は台座の前で足を止めた。
灯りの下で、紙の色が見える。白ではなかった。少しだけ黄みがかっている。古い紙の色。けれど傷んではいない。十年間、この部屋で動かなかった紙の色。
「触れるか」
ライナルトが聞いた。
「大丈夫ですか」
「今は静かだ。壁を直したあとだから、しばらくは反応しない」
私は手を伸ばした。
紙に触れた瞬間、指先に何かが走りました。
熱ではない。冷たさでもない。もっと細い感覚。紙の繊維が指紋に触れて、そこから何かが流れ込んでくるような。体の外側ではなく、内側に届く感触。
思わず手を引きかけた。けれど、引かなかった。
この感触を、知っている気がしたからです。
古い本を初めて開いたとき。工房でマルグリットに渡された、修復待ちの帳面に触れたとき。紙が指に馴染む瞬間。あの感触に似ていた。
私は白紙本を持ち上げた。
軽い。帳面一冊よりも軽い。でも手の中に収まると、重さとは別の存在感がある。紙の束が、手のひらの体温を吸っていくような感覚。
一頁目を開いた。
白い紙。
そこに、一行だけ書かれている。
――この壁は わたしが まもる
子どもの字でした。
たどたどしい。一画ずつ止まりながら書いている。「壁」の字が少し大きくて、「まもる」の字が少し小さい。バランスが取れていない。けれど、一画一画にためらいがない。止まってはいるけれど、迷ってはいない。
指が震えた。
この字を、知っている。
筆圧。紙に当たる角度。はねの丸さ。「わ」の最初の一画の入り方。
自分の字に似ていた。
幼い頃の記憶はない。七つより前のことは、ほとんど覚えていない。けれど手には記憶がある。紙に触れたときの指の置き方。筆を持ったときの角度。それは体が覚えていて、忘れようがない。
この字は、私の手に似ている。
心臓が速くなった。自分が書いたのか。十年前、この一行を書いたのは自分なのか。ヴェラに連れられて、壁を閉じるために、ここで。
そう思いかけたとき、指先が引っかかった。
紙の上の字を、もう一度なぞる。
「わ」の一画目。入りの角度が、右から左へ向かっている。
私は右利きです。右手で書くとき、「わ」の入りは左から右へ流れる。これは逆。右から左への入り。
左手で書いた字。
私は目を凝らした。
灯りの下で、一文字ずつ確かめていく。「この」の「こ」。横線が右から始まっている。右利きなら左から引く線。「壁」の縦画。下ろし方が少し外側に膨らむ。左手で筆を持ったときの癖。「まもる」の「る」。最後の払いが内側に入る。右手なら外に流れるところが、内に巻いている。
全部、左手の字でした。
子どもの字に見える。たどたどしさがある。けれどそれは幼さではない。利き手ではない方の手で書いたぎこちなさ。大人が、わざと子どもの字に見せるために、左手で書いた字。
私は白紙本を持ったまま、しばらく動けなかった。
この字は私の字ではない。
私の手の癖に似ているのは、同じ人に教わったからです。同じ師匠のもとで紙を扱い、同じ道具で仕事をしてきた手は、似た癖を持つ。
ヴェラの字。
ヴェラが左手で、子どもの字に見えるように書いた一行。
「ライナルト」
声が少しかすれた。
彼は台座の反対側に立っていた。灯りを持つ手が、わずかに下がっている。私の顔を見ている。
「これ、子どもの字じゃないです」
彼の表情は変わらなかった。けれど、まばたきが一つだけ遅れた。
「左手で書かれています。大人が利き手じゃない方の手で書いた字です」
「……確かか」
「はい。入りの方向が全部逆です。右利きの子どもならこうはならない。左利きの大人なら、右手で書いてもこうはならない。左利きの大人が、左手のまま、わざとゆっくり書いた字です」
部屋の空気が、さらに重くなった気がした。石の壁が音を吸い込んでいる。
「ヴェラは左利きでしたよね」
ライナルトがうなずく。前にそう言った。十年前に一度会ったとき、左利きだったと。
「子どもが書いたんじゃない」 私は言った。 「ヴェラが、子どもの字に見せかけて書いたんです」
白紙本は「書いた人の意志で性質が決まる」。
子どもの意志で書かれた封なら、子どもの力で壁は閉じる。けれど実際に書いたのがヴェラなら、壁はヴェラの意志で閉じている。
ヴェラの意志。
手順書に残っていた言葉を思い出した。何年もかけて壁の中に扉を仕込む計画。十年ぶんの工程表。遮る紙の裏に書かれた「ここは まだ あけない」。
十年で封が切れるのは、失敗ではなかった。
最初から、そう設計されていた。
ヴェラは壁を永久に閉じるつもりはなかった。十年だけ閉じて、その十年のあいだに壁を壊さず開ける準備をする。封が切れたとき、扉が開く。壁を崩さずに、中のものを出す。
全部が、最初からつながっていた。
「なぜ」
ライナルトの声は低かった。
「なぜ子どもの字に見せた」
私は白紙本の一行をもう一度見た。
――この壁は わたしが まもる
「わたし」。
この「わたし」は、ヴェラ自身だった。子どもを使ったのではない。自分が書いた。自分の意志で閉じた。けれど、それを誰にも知られたくなかった。
学院も宮廷も、白紙本の「最初の記述者」を追っている。記述者が誰かによって、白紙本の帰属が決まる。もしヴェラが書いたと知られれば、ヴェラが追われる。ヴェラの意志で壁が閉じているなら、ヴェラを捕まえれば壁を自由にできる。
だから子どもの字に見せた。記述者は子どもだと思わせた。子どもを遠くへ逃がした。学院も宮廷も、子どもを探す。ヴェラは探されない。
子どもを守るためだった。
そしてたぶん、その子どもが私だった。
足の力が少し抜けた。台座の縁に手をついて、体を支えた。
記憶はない。七つより前のことは何も覚えていない。ヴェラの顔も知らない。製本を教わった相手の手は覚えているけれど、顔は思い出せない。
でも手が知っている。
この一行の字の癖が、自分の手と同じ流れを持っていることを、指先が知っている。
「ライナルト」
「ああ」
「十年前、壁を閉じる場にいた子ども」
「ああ」
「それが私ですか」
長い沈黙だった。
灯りが揺れる。石の壁に、二人の影が静かに伸びている。
「分からない」 彼は言った。 「顔だけ覚えている。名前は聞いていない。小さな子どもだった。ヴェラが連れてきて、ヴェラが連れて帰った」
「でも、その子どもが書いたんじゃない」
「ああ。お前が正しければ、書いたのはヴェラだ」
「なら、子どもはなぜそこにいたんですか」
ライナルトは答えなかった。
私は白紙本を見た。一頁目の一行。二頁目は白紙。三頁目以降も白紙。まだ書ける。でも今は書かない。
子どもがそこにいた理由。
ヴェラが自分で書くなら、子どもは要らない。けれど、子どもがいなければ「子どもが書いた」という嘘が成り立たない。
目撃者が必要だった。
ライナルト自身が目撃者だった。十年前、彼はこの場で「子どもが一行を書いた」と見た。そう思った。そう報告した。
けれど実際に書いたのはヴェラで、子どもはただそこにいただけ。
ヴェラはライナルトをも騙していた。
その事実が、この小さな部屋の空気をさらに重くした。
「……やられたな」
ライナルトが、ごく低い声で言った。
独り言だったのかもしれない。けれど灯りの下で、彼の目が少しだけ揺れていた。怒りではない。十年分の確信が崩れたときの揺れでした。
私は白紙本を布で包んだ。
台座の上には布だけが残る。本があった場所に、わずかに凹んだ跡がある。十年間、同じ場所に同じ重さがかかり続けた跡。
「持っていきます」
「ああ」
「封が切れかけています。書き直すかどうか、まだ分かりません。でも、ここに置いておくのは危ない」
ライナルトはうなずいた。それ以上は何も言わなかった。
部屋を出る。通路を戻る。鉄扉を閉める。ライナルトの手が扉に触れると、内側で錠が鳴った。
階段を上がるにつれて、空気が軽くなっていく。灰の匂いが戻ってくる。人の声がかすかに聞こえる。地上の朝は、まだ続いている。
南塔の廊下に出たとき、窓から差す光が眩しかった。白い光。朝の光。目が慣れるまでしばらくかかる。
懐の中に、白紙本がある。
布越しに、紙の感触が肌に伝わる。冷たい。けれど、さっきよりほんの少しだけ温かくなっている。私の体温を吸い始めている。
十年前、ヴェラがこの本に一行を書いた。子どもの字に見せかけて。自分の意志で。十年で切れる封を。
その十年が、もうすぐ終わる。
封が切れたとき、何が起きるのか。壁が崩れるのか。扉が開くのか。
それはまだ分からない。
でも一つだけ、はっきりしたことがある。
次にこの本に字を書くのは、ヴェラではない。
私だ。
廊下の先で、ライナルトが立ち止まっていた。振り向いて、私を見ている。朝の光の中で、その顔にはいつもの無表情が戻っていた。けれど目だけが、さっきの地下の部屋から何かを持ち帰ってきたみたいに、少し深かった。
「行くか」
「はい」
私は歩き出した。
懐の白紙本が、一歩ごとにわずかに揺れる。
紙は軽い。
けれど、これから書く一行の重さは、まだ量れなかった。




