第三十七話 ー 再び、東門旧療養舎へ
東門旧療養舎までは、城壁の外側を回らなければいけなかった。
朝の通りはまだ人が少ない。石畳の上を荷車が一台、ゆっくりと東へ向かっている。車輪の音だけが、壁に沿って長く伸びていた。空は白んでいるのに、太陽はまだ出ていない。建物の影が薄くて、すべてが同じ色に沈んでいる時間帯でした。
私は歩きながら、懐の中の紙を意識していた。遮る紙三枚。壁から抜いたもの。その一枚に書かれた「ここは まだ あけない」の字と、もう一枚に仕込まれていた扉の構造。
東門が見えてきた。
門自体は使われている。朝の荷受けの人が何人か、門番と言葉を交わしている。けれど門の右手に続く古い建物は、人の気配がなかった。窓板が半分落ちている。壁に蔦が食い込んで、石の目地を押し広げていた。
旧療養舎。
ここへ来るのは二度目です。
前に来たのは、もっと早い時期でした。まだライナルトと二人で歩き始めたばかりの頃。あのときこの建物の奥で見つけたのは、「わたしは ここで まつ」と書かれた紙片でした。
あの紙片は今も懐にある。
旧療養舎の入口は、前と変わらず開いていた。錠はない。扉の蝶番が錆びて、閉まらなくなっているだけでした。押すと、湿った木の匂いがする。中は暗い。廊下の奥に、窓から入る朝の光が細く落ちている。
埃が厚かった。
前に来たときの足跡がまだ残っている。私の靴跡と、ライナルトの靴跡。二筋の線が廊下の奥へ続いていた。
けれど今日は、もう一つ別の足跡がある。
私たちの足跡の上に、新しい靴底の痕が重なっていた。つま先が細い。歩幅は短い。小柄な人の足跡。
私はしゃがんで、その靴跡を見た。
埃の潰れ方が浅い。最近の足跡です。昨日か、一昨日か。少なくとも、私たちが前に来たときよりあとに、誰かがここを歩いている。
「先客がいます」
ライナルトは廊下の先を見ていた。答えない。代わりに、歩き出す。
前回は廊下の途中の部屋で紙片を見つけて、それ以上は奥へ進まなかった。今日はその先へ行く。
廊下は突き当たりで右に曲がっていた。角を曲がると、空気が変わった。湿気が減って、代わりに古い紙の匂いがする。旧療養舎の奥に、書庫のような場所があるのかもしれない。
三つ目の部屋の前で、足跡が止まっていた。
扉は開いている。中は狭い。寝台の枠が一つ残っていて、その横に木箱が置かれている。寝台の上には何もない。けれど木箱の蓋が、ほんの少しだけずれていました。
私は部屋に入った。
窓は一つ。板が落ちていて、朝の光がまっすぐ差し込んでいる。埃が光の柱の中を舞っていた。木箱は古い。角が丸く削れていて、運び込まれてから長い時間が経っている。
蓋をずらす。
中に帳箱が一つ入っていた。
帳箱。ミシェルが塔を出るとき持ち出したという帳箱。掃除係の女性が言っていた。「帳箱ひとつ持って出た」と。
でもこれは、持ち出された箱ではないかもしれない。
帳箱の表面に、薄く埃が積もっている。最近置かれたものではない。もっと前から、ここにあった箱。持ち出された箱と対になるもう一つ。
私は帳箱を開けた。
中に、帳面が三冊と、折り畳まれた紙の束が入っている。
一冊目を開いた。
差替えの記録でした。日付、場所、紙の枚数、処理の種類。乾燥棚の部屋で見つけた控え帳よりも詳しい。紙の厚さや繊維の向き、灰糊の配合まで書かれている。作業記録。現場で手を動かした人が書いたものでした。
二冊目。
こちらは巡回の記録。四、灰架室、東門、南壁。同じ四か所が繰り返し出てくる。日時と、作業の進捗。何枚入れたか、何枚抜いたか。まだ残っている枚数。
紙に触れたまま、指が止まった。
筆跡が二種類ある。
片方は角張った字。筆圧が強く、はねが短い。控え帳の押し傷と同じ書き方。ミシェルの字。
もう片方は丸みのある字。筆圧はやや弱く、けれど線が途切れない。一画ずつ丁寧に引いた字でした。
二人が交互に書いている。前半はミシェルの字が多く、後半になるにつれて丸い字が増えていく。
三冊目を開いた。
これは記録ではなかった。
手順書でした。
壁を開放するための手順。どの順番で紙を抜くか、どの継ぎ目から手をつけるか、どのくらいの期間を空けるか。灰糊の配合。紙の処理方法。扉を仕込む位置。
丁寧に書かれている。項目ごとに余白があり、あとから書き足した注釈がいくつもある。何年もかけて修正し続けた手順書。
最後の頁を開いた。
署名がある。
V.W. M.S.
二つの名前が並んでいる。
私はその文字を見つめた。
V.W.はヴェラ・ヴェルナー。M.S.はミシェル。二人の共同作業。壁を開けるための手順を、二人で作った。
ここまでは、予想の範囲でした。
けれど、手順書を最初の頁に戻したとき、気づいたことがある。
V.W.の署名の字と、本文中の丸い字が同じでした。それは自然です。ヴェラが書いた部分はヴェラの字。
問題は、M.S.の署名の字と、本文中のミシェルの字でした。
署名のM.S.は角張っている。本文中のミシェルの字も角張っている。同じ人の字。当然です。
けれど手順書の中盤に、おかしな箇所がある。
角張った字で書かれた文の途中に、丸い字の癖が混ざっている。句読点の位置が変わる。はねの角度が丸くなる。一行の中で、前半は角張っているのに後半は丸い。
書いている途中で、字が変わっている。
私は頁を戻し、最初から丁寧に見直した。
序盤は二つの字がはっきり分かれている。ミシェルの角張った字と、ヴェラの丸い字。交互に書いている。二人の人間が、一冊の手順書を順番に書いている。
中盤から、境目が曖昧になる。
角張った字の中に丸い癖が出る。丸い字の中に角張った力が入る。二つの字が、少しずつ混ざっていく。
終盤に近づくと、もう区別がつかない。
角張っているのに丸い。丸いのに力が強い。二つの字が一つになっている。
まるで、同じ手が二つの書き方を覚えて、途中で忘れてしまったように。
私は帳面を閉じた。
指先が冷たかった。
「ライナルト」
彼は部屋の入口に立っていた。窓から入る光が、彼の背中の輪郭を白く縁取っている。
「筆跡が混ざっています」
「二人ぶんか」
「最初はそう見えます。でも、途中から一つになってる」
私は手順書を開いたまま、中盤の頁を見せた。
「ここ。角張った字と丸い字が、同じ行の中で切り替わっています。二人が交互に書いたんじゃない。同じ手が二つの字を使い分けている」
ライナルトは入口から動かなかった。顔は影の中にある。けれど、呼吸が少しだけ変わった気がした。
「V.W.の署名の横に、針穴があります」
私は続けた。
「帳面を綴じるための穴じゃないです。ずれています。目印です。位置を確かめるための穴。製本師が使う印です」
その針穴を見たとき、朝の灰架室で抜いた遮る紙の二枚目を思い出していた。あの紙にも針穴がふたつあった。位置を合わせるための基準点。同じ癖。同じ手。
「製本の癖が同じです」 私は言った。 「ヴェラの署名の横の針穴と、遮る紙の針穴が同じ」
窓の外で、鳥が一羽鳴いた。朝の音。旧療養舎の静けさの中では、その声だけがやけにはっきり聞こえた。
ライナルトが初めて、入口を離れた。部屋の中に入り、寝台の枠に背を預けるように腰を下ろす。
古い木がきしむ音がした。
「十年前の話をする」
私は手順書を閉じた。
彼は窓の光を見ていた。目は私ではなく、光の中を舞う埃を追っているようでした。
「壁が開いたのは、冬だった」
低い声だった。
「南壁の第三継に亀裂が走った。中から圧力がかかっていた。壁の力が内側で溜まりすぎたんだ。放っておけば崩壊する」
私は黙って聞いた。
「閉じ直すには、白紙本が要った。壁の封は白紙本の一行で保たれている。一行が消えかければ、壁も消えかける」
「書き直したんですか」
「ああ。子どもに書かせた」
「子ども」
「ヴェラが連れてきた。小さな子だった。顔は覚えている。名前は聞いていない」
ライナルトは埃を見つめたまま続けた。
「子どもは一行だけ書いた。壁は閉じた。そのあとヴェラが子どもを連れて消えた。学院にも宮廷にも渡さなかった」
「その子どもが書いた一行で、壁は十年持った」
「ああ。だが、十年しか持たなかった」
十年しか持たない。それは失敗だったのだろうか。
私は手順書のことを思った。ヴェラが何年もかけて作った、壁を開けるための手順。十年で切れる封。十年かけて仕込む扉。
「ライナルト」
「何だ」
「十年しか持たなかったんじゃなくて、十年で切れるように書いたんじゃないですか」
彼の目が、埃から私に移った。
「ヴェラが書かせたんです。子どもに。十年で消える一行を」
「なぜそう思う」
「手順書です」 私は帳面を持ち上げた。 「壁を開けるための手順が、十年ぶんの工程表になってる。十年で封が切れることを前提にして、そこに間に合うように壁の中に扉を仕込んでいく計画です」
部屋の空気が変わった。窓からの光は変わらない。埃も同じように舞っている。けれど、何かが動いた。
ライナルトは寝台の枠に手をついたまま、しばらく黙っていた。
「ヴェラはそこまで考えていたのか」
独り言のような声でした。
私は答えなかった。代わりに、手順書の署名をもう一度見た。
V.W. M.S.
二つの名前。二つの筆跡。けれど途中から一つになる字。
「ライナルト」
「何だ」
「ヴェラとミシェルは、別の人ですか」
彼の目が少しだけ細くなった。
「会ったことはない。ミシェルには」
「でも、ヴェラには会っている」
「十年前に一度だけだ。顔と、手だけ覚えている。左利きだった」
左利き。
私は白紙本の一行を思った。まだ見てはいない。けれどライナルトは「子どもが書いた」と言った。子どもの字。
左利きの人が、右手で書いたら。
あるいは、左利きの大人が、子どもの字に見えるように右手で書いたら。
その考えが浮かんだ瞬間、背筋を冷たいものが走った。
今はまだ確かめられない。白紙本を見なければ分からない。
けれど手順書の筆跡は、はっきりしている。二つの名前を使い分けていた人がいる。最初は意識して分けていたのに、年月が経つにつれて混ざっていった。
二人ではなく、一人。
ヴェラが、ミシェルとしても動いていた。
壁を閉じた人が、自分で壁を開ける準備をしていた。
私は帳箱の中身をまとめて布に包んだ。帳面三冊と紙の束。重い。けれど、ここに置いていくわけにはいかなかった。
部屋を出る前に、私は寝台の横の壁を見た。
古い石壁。何も書かれていない。けれど壁の下の方に、ごく小さな傷がある。釘か針で引っ掻いたような、細い線。
目を凝らすと、文字ではなかった。丸。小さな丸がひとつだけ。
赤い点ではない。石に刻まれた、ただの丸。
でもその丸の位置は、ちょうど寝台に横になった人の目の高さでした。
ここに誰かがいた。長い時間。壁を見つめて、丸をひとつだけ刻んだ。
私はその丸に指で触れた。石は冷たかった。
それからライナルトの後を追って、廊下を戻った。
旧療養舎を出ると、朝の光が眩しかった。目が慣れるまで少しかかる。門番の声と、荷車の音と、鳥の声。街が動き始めている。
私は布に包んだ帳面を抱え直した。腕の中で、紙の角が肋骨に当たる。
「ライナルト」
前を歩く背が、少しだけ遅くなった。
「白紙本を見せてください」
彼は足を止めた。振り向く。朝の光の中で、その顔はいつもより疲れて見えた。
「南塔の奥にある」
「分かっています」
「見てどうする」
「一行目の字を確かめます」
子どもの字なのか。左手で書いた字なのか。ヴェラの字なのか。
それが分かれば、十年前の封が何だったのかも分かる。
ライナルトは朝の光の中に立ったまま、少し長い沈黙を落とした。街の音が遠くに聞こえる。風が、旧療養舎の蔦を揺らしている。
やがて彼は言った。
「行くぞ」
それだけでした。
私は帳面を抱えたまま、その後を追った。石畳を踏む二人ぶんの足音が、東門の壁に沿って伸びていく。
朝の光は強くなっていた。影が短くなり始めている。
懐の中で、遮る紙と控え帳と手順書が重なっている。どれもがヴェラにつながっている。閉じた人。開けようとした人。二つの名前を使った人。子どもを連れてきた人。そしてたぶん、壁の中の丸を刻んだ人。
全部が同じ手から始まっていた。




