第三十六話 ー 南壁第三継
夜明け前の灰架室は、音がなかった。
前回来たときは作業員がいて、灰糊を練る泡の音や、へらが石を擦る音が響いていた。今は何もない。鍋は片づけられ、石台の上にはへらが一本だけ横たわっている。火も落ちている。明かり取りの窓から入るのは光ではなく、夜明け前の湿った空気だけでした。
足元が見えない。
ライナルトが手のひらに小さな灯りを出した。魔力の灯り。炎ではなく、白っぽい光が指の間からこぼれている。それだけで作業場の輪郭が浮かんだ。石台、壁、継ぎ目、乾いた灰糊の筋。
私は壁の前に立った。
南壁第三継。前にここへ来たとき、右手の男性が支えの層を抜いた場所。そのあとで私が予備片を仮に差し込み、赤い筋が沈んだ場所。
今は灰糊が新しく塗られている。表面はすでに乾いていた。指を近づけると、灰の粉が薄く浮いている。その下に、何層もの紙が重なっている。
目を寄せた。
前回は触れなかった。鳴るからです。でも今日は触らなければいけない。
懐から布包みを出した。薄紙に挟んだ予備片三枚。開いた瞬間、手元がわずかに温くなった。壁に近いせいか、反応が前より強い。
「始めるか」
ライナルトが隣に立った。光を持つ手を壁の方へ向ける。継ぎ目が白く浮かぶ。灰糊の表面にひびが何本か走っていた。乾きすぎている。急いで塗ったのか、それとも壁の内側の熱で水分が抜けたのか。
「先に灰糊を剥がします」
「鳴るぞ」
「分かっています」
私は針入れから細針を一本抜いた。
灰糊の表面に、針先をごく浅く入れる。紙の継ぎ目ではなく、糊だけを削ぐ。力を入れすぎると下の紙まで傷つく。入れなさすぎると糊が剥がれない。加減は、古い本の表紙を剥がすときと同じでした。
一筋、二筋、三筋。
糊が薄く剥がれて、灰の粉になって床に落ちる。その下から、紙の端が見えた。
白くない。灰色がかった、くすんだ紙。前回、壁の中に見たものと同じ色。差替えで入れられた遮る紙です。
「見えました」
声を落として言う。
紙の端をへらで少しずつ浮かせる。本の見返しを剥がすときに似た手応え。でも、もっと慎重にしなければいけない。見返しは破れても貼り直せる。この紙は、壁の継ぎ目に食い込んでいる。
端が浮いた瞬間、壁の奥で何かが震えた。
音ではない。振動でした。足の裏に届くほどではないけれど、指先には伝わる。紙を通して、壁の内側から何かが押し返してくるような圧力。
「来るか」
ライナルトが言った。
「まだです。糊が剥がれただけです」
嘘ではなかった。でも心臓が少し速くなっている。
紙をさらに浮かせる。一枚目の端が完全に出た。そこで私は手を止めた。
紙の裏が見えたからです。
灰色の紙の裏側に、文字があった。
小さな字でした。墨ではない。もっと薄い、鉛筆のような跡。壁に差し込めば見えなくなる位置に、わざと書かれている。
――ここは まだ あけない
指先が止まった。
「まだ」。
その二文字が、妙に重かった。
まだ開けない。いつか開ける。でも今ではない。
壁を壊そうとしている人の言葉ではなかった。待っている人の言葉でした。
「ライナルト」
「見えてる」
彼の声は低かった。光を近づけて、文字を照らす。
私はそのまま一枚目を引き抜いた。
壁が震えた。今度ははっきりと。足の裏まで届く振動。上の方で、かすかに鈴の音がする。鐘室の鈴。継ぎ目の異変を拾う銅線が反応している。
「抑える」
ライナルトが壁に手を当てた。光が消える。代わりに、彼の手のまわりの空気がわずかに重くなった。魔力。形にしない、ただの力。壁の震えがゆっくりと鎮まっていく。
私はその間に二枚目へ手をかけた。
一枚目より深い。灰糊が紙の繊維に入り込んでいて、引き剥がすのに時間がかかる。へらの角度を変え、紙と石のあいだに空気を送り込む。古い糊が粉になって散る。甘くて苦い匂い。乾燥棚の部屋で嗅いだ匂いと同じ薬が混ぜてある灰糊でした。
二枚目が浮く。裏を見る。
文字はなかった。代わりに、紙の端に小さな針穴がふたつ並んでいる。綴じるための穴ではない。位置を合わせるための目印。次に入れる紙をここに揃えるための、基準点。
丁寧な仕事でした。壁を壊す人の仕事ではない。
二枚目を引き抜く。壁がまた震えた。ライナルトの手に力が入る。鈴の音は聞こえない。抑えている。
三枚目。
これが最後でした。いちばん奥の層。石と紙のあいだに、ほとんど隙間がない。へらが入らない。私は針先に変えた。紙の端のほんのわずかな浮きを探して、少しずつ空気を入れていく。
爪が欠けるかと思った。石の角に指先が当たって、鈍い痛みが走る。でも手を引くわけにはいかなかった。ここで止めたら、壁の震えが止まらなくなる。
三枚目の端が浮いた瞬間、壁の内側から熱が漏れた。
指先が焼ける、と思った。でも実際には熱ではなく、紙を通して伝わる振動の強さが熱に似ていたのでした。壁の中で、何かが脈打っている。赤い筋が継ぎ目の奥で明滅しているのが、紙越しに見える。
「イリス」
ライナルトの声が固かった。
「あと少しです」
三枚目を引き抜く。
壁が鳴った。
低い音でした。鈴ではない。壁そのものが出す音。石と石のあいだの空気が震え、それが通路を伝って遠くまで延びていく。灰架室の天井から灰の粉が細く落ちた。
「今だ」
ライナルトが言った。
私は予備片を手に取った。三枚。薄紙を外す。裸の紙が指に触れると、壁の振動とぶつかるようにして熱が走った。
一枚目を継ぎ目へ当てる。
紙が壁に吸い込まれた。
差し込んだのではない。当てた瞬間に、壁の方から引っ張られたのです。予備片の端が石と石のあいだへ滑り込み、繊維が灰糊の残りと絡む。紙が壁に馴染んでいく感触。本の背に芯を入れたとき、糊が芯を抱くのに似ていた。
震えが少しだけ弱くなる。
二枚目。
同じでした。当てた瞬間に壁が受け取る。紙が継ぎ目を埋めていく。赤い筋の明滅が遅くなる。呼吸が整っていくように。
三枚目。
最後の一枚を指で持った。
手が少し震えていた。使い切り。これで終わり。次はない。
壁に当てる。
紙が沈んでいく。
赤い筋が一度だけ強く光った。灰架室の壁全体が、一瞬だけ赤く照らされる。天井の灰が金色に光り、石台の影がくっきりと床に落ちた。
そして、消えた。
赤い筋が消えたのではない。光が穏やかになったのです。脈打つような明滅が止まり、継ぎ目に沿って静かな赤がうっすら残っている。心臓が暴れるのをやめて、寝息に変わったみたいでした。
壁が、黙った。
鈴も鳴らない。振動もない。灰の粉が光の中をゆっくり落ちているだけ。
私は壁の前にしゃがんだまま、しばらく動けなかった。
指先がじんじんしている。爪の横が少し切れていて、灰が傷口に染みた。痛い。でもその痛みが、今ここにいることを確かめてくれていた。
「入りました」
「ああ」
ライナルトの手が壁から離れた。手のひらに汗が光っている。彼にとっても、楽ではなかったのだ。
私は床に散った三枚の遮る紙を拾い集めた。
一枚目。裏に「ここは まだ あけない」。 二枚目。端に針穴ふたつ。 三枚目。
三枚目を裏返したとき、手が止まった。
紙の裏に、何もないと思っていた。でも灯りが変わった今、目を凝らすと見えるものがある。
繊維の処理が違う。
一枚目と二枚目は、繊維を横に走らせて魔力の通り道を遮る構造だった。壁の力を切るための紙。
三枚目は違う。
繊維が放射状に広がっている。中央から外へ向かって、均一に開いている。これは遮る構造ではない。
私は紙を灯りへ傾けた。
放射状の繊維の中心に、ごく細い穴が空いている。針穴より小さい。けれど、意図的に開けられた穴。繊維を避けて、正確に中心を通している。
この穴を通して何かを流す構造でした。
遮るのではなく、通す。ただし、全体ではなく一点だけ。壁全体を開けるのではなく、ここだけを開ける。
扉。
壁に穴を開けるのではなく、壁の中に扉を仕込む紙。
「ライナルト」
彼はしゃがんでいる私の横に立っていた。三枚目の紙を見ている。
「これ、壊すための紙じゃないです」
声が少しかすれた。
「繊維が放射状です。中心に穴がある。遮ってるんじゃなくて、一か所だけ通す構造です」
ライナルトは黙ったまま、三枚目の紙を見下ろしていた。
「壁を弱くしてたんじゃない」
私は続けた。
「開けるとき、壁が壊れないように準備してたんです。ここだけ開くように。扉みたいに」
灰架室の空気が冷たかった。夜明け前の石壁の冷気。でもそれとは別の冷たさが、胸の奥から広がっていく。
壁を弱めていた人は、壁を壊そうとしていなかった。
いつか開ける日のために、壊れずに開く場所を作っていた。
何年もかけて。赤い点を一つずつ打ちながら。巡回路を回りながら。少しずつ、少しずつ。
私は一枚目の裏をもう一度見た。
――ここは まだ あけない
まだ。
その文字が、今度は違って見えた。壁を閉じておきたい人の言葉ではない。開けたいのに、まだ開けられない人の言葉。
待っている人の言葉。
三枚の紙を重ねて、懐へ入れた。紙はもう熱を持っていない。壁から離れれば、ただの処理紙に戻る。けれど繊維の中に仕込まれた構造は変わらない。
明かり取りの窓が、ようやく白み始めていた。夜明けが近い。石壁の表面に、朝の最初の光がうっすらと触れている。
壁は静かだった。予備片を入れたところだけが新しく、あとは前と変わらない灰色の壁。
けれどその壁の中には、もう扉を作るための紙はない。私が抜いてしまった。
正しいことをしたのだと思いたかった。壁を修復した。震えを止めた。鈴を鳴らさなくした。
でも同時に、誰かが何年もかけて準備していた扉を、壊したのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、指先が冷えた。
「ライナルト」
「何だ」
「この紙を作った人は、壁を壊したかったんじゃないと思います」
彼は答えなかった。
代わりに、壁に一度だけ手を触れた。静かな壁。もう震えない壁。
その手を離して、歩き出す。
私は立ち上がった。膝が少し痺れている。長くしゃがんでいたせいでした。
灰架室を出るとき、振り返った。壁の継ぎ目に沿って、赤い筋がごく薄く残っている。脈打ってはいない。けれど消えてもいない。眠っているだけの光。
門を出ると、朝の空気が頬に当たった。冷たくて、わずかに湿っている。夜明け直前の空の色が、石壁の上に薄く広がっていた。
懐の中には、遮る紙が三枚ある。一枚には「まだ あけない」と書いてある。一枚には扉の構造が仕込んであった。
壁を守るために来て、壁に扉を作ろうとしていた人の痕跡を、持ち帰ることになった。
それが何を意味するのか、まだ全部は分からない。
けれど一つだけ、はっきりしたことがある。
この壁をめぐって動いている人は、敵とは限らない。
朝の光が、門の石を白く照らし始めていた。




