第三十五話 ー 集め直し
朝の南塔は、昨夜とは別の建物みたいに静かだった。
廊下を歩く人の数が少ない。鐘の余韻もない。壁に据えられた燭台はすべて火が落ちていて、代わりに明かり取りから差す朝の光が、石の床に薄い四角を並べていた。
私は計量室の前で足を止めた。
扉は閉まっている。閂の位置は変わっていない。取っ手にも傷はない。
けれど、扉の下の石に、灰の粉が散っていた。
昨夜はなかった。私たちが出たとき、この位置には何もなかった。誰かが扉の前に立ち、足元の灰を踏んだ跡です。灰の粒が細かい。南壁の作業場から持ち帰った靴底の灰ではない。もっと白くて軽い。上の階の、乾燥棚まわりの灰に似ていた。
「ライナルト」
小声で呼ぶと、彼は扉の横に立ったまま顎を引いた。気づいている。
閂を開ける。
扉を押すと、計量室の空気が流れ出てきた。冷たい。一晩閉じていた部屋の匂い。石と埃と、かすかに糊の残り香がする。
中に入る。
秤。分銅。封蝋の欠片。補修用の糸巻き。窓の隙間の古紙。昨夜と同じ配置に見える。
机の上に帳面が置いてある。
私はそこで立ち止まった。
帳面の位置が違う。
昨夜、私は帳面を机の左端に置いた。秤の隣、分銅箱の手前。そこが一番自然に見える場所だった。
今、帳面は机の中央にある。
ほんの手のひらひとつぶんのずれ。急いでいる人なら気づかないかもしれない。でも私は昨夜、ここで帳面の背を補修した。置いた位置は、手が覚えている。
私は帳面を手に取った。
重さは変わっていない。表紙の角の潰れも同じ。背の糸も、昨夜留めた二か所がそのまま残っている。
けれど、背を指でなぞったとき、指先がほんの少し引っかかった。
糊が浮いている。
昨夜塗った糊は、一晩で乾いているはずでした。乾いた糊は紙に密着して、撫でても段を感じない。なのに、背布の端にごくわずかな段がある。一度剥がしかけて、また戻した跡。
息が止まった。
剥がし方に覚えがあった。
帳面の背を開けるとき、力任せに引くと紙芯が裂ける。だから端の糊を少しずつ緩めて、布を浮かせてから中身を確認する。製本の補修で最初に覚える手順です。
この帳面を触った人は、その手順を知っていた。
途中でやめている。背布を浮かせかけて、中を見る前に戻した。糊を温め直す道具がなかったのか、それとも、中に何があるか分かった上でやめたのか。
「触られています」
私が言うと、ライナルトが机の前に来た。
「抜かれたか」
「いえ」
私は背布をもう一度撫でた。段はあるけれど、糸は切れていない。中の予備片がずれた感触もない。
「開けかけて、やめてます。中身は残ってる」
帳面を机に置き、昨夜の補修糸を解いた。背布を慎重に浮かせる。紙芯の横に、予備片が一枚、まだ収まっていた。端がわずかに温かい。昨夜より温かい。誰かの指が近づいた余熱なのか、それとも朝の空気のせいなのか、区別がつかなかった。
私は予備片を抜き出し、布の上に置いた。
一枚目。
次は小窓でした。
窓に近づく。石枠に詰められた古紙は、見た目には変わっていない。けれど窓の桟に、朝露とは違う湿り気がある。指で触ると、ほんの少しだけぬるい。誰かが窓に顔を寄せた息の跡かもしれない。
古紙を一本ずつ抜く。三本目の奥に、昨夜入れた包みがある。引き出した。薄紙に包んだ予備片。紙の端がわずかに波打っている。夜の湿気を吸ったせいでした。
包みを開く。予備片は無事だった。
二枚目。
布の上に並べる。一枚目と二枚目の間隔を、指二本ぶんほど空けた。昨夜、机の上で三枚を近づけたとき、熱が出た。今は二枚だけでも、布越しにかすかな温みが感じられる。
最後は針入れでした。
懐から出す。灰色の革は体温で温まっている。留め紐の返し縫いを、指先でたどった。昨夜縫い直した目。その下に、一枚。
針を一本抜き、縫い目を解く。革が浮いて、中から予備片が滑り出た。
三枚目。
布の上に置こうとして、手が止まった。
二枚に近づけた瞬間、指先に熱が走ったからです。
予備片が反応している。二枚のときはかすかだったのに、三枚目が近づいた途端、温度が跳ねた。布越しではない。紙そのものが熱を持っている。
私は三枚を布の上に並べた。間隔は指三本ぶん。それでも、机の上に薄い陽炎みたいなものが漂っている気がした。目に見えるほどではない。ただ、三枚の上の空気だけが揺れている。
「離れろ」 ライナルトが言った。
私は一歩引いた。
三枚の予備片は、布の上で静かに並んでいる。端がわずかに反っていた。紙が互いに引き合っているのか、あるいは壁の方を向いているのか。
「やっぱり、隠しておくものじゃないですね」
「ああ」
ライナルトの声は短かった。けれど、その一言の中に、今すぐ使わなければ間に合わないかもしれない、という重さがあった。
私は三枚を一枚ずつ薄紙で挟み、布で包んだ。重ねるのではなく、間に紙を入れることで直接の接触を避ける。製本で使う合紙と同じ考え方でした。
包み終わると、熱は少し落ち着いた。触れ合わなければ、反応は弱くなる。
布の包みを懐へ入れる。胸の下に、紙三枚ぶんの重さが加わった。軽い。なのに存在だけがはっきりしている。
私は帳面の背を元通りに閉じた。糊を薄く塗り直し、糸を留める。もう中には何もない。ただの古い帳面に戻った。
「ライナルト」
「何だ」
「帳面を開けかけた人がいます」
「ああ」
「製本の手順を知っている人です。糊を壊さずに浮かせる方法を知ってる。力任せじゃない。紙を傷つけない剥がし方をしてました」
ライナルトは窓の方を見た。古紙を戻した石枠。朝の光が、隙間の紙の端を白く照らしている。
「昨夜ここに来たのか」
「たぶん。灰の粉は乾いてます。夜中のうちだと思います」
「見つけたか」
「いえ。帳面は開けかけてやめてます。小窓と針入れは触った形跡がない」
私はそこで黙った。
帳面だけ。
帳面だけに手をつけて、やめている。なぜ帳面だったのか。小窓の方が簡単に開く。針入れは懐にあるから触れないとしても、窓の方が先に見つかるはずです。
なのに帳面を選んだ。
背を開けるという発想が先にあった。紙を隠すなら背の中、という考え方をする人。
製本師。
私はその言葉を口にしなかった。代わりに、針入れの留め紐を見た。返し縫いの糸。ヴェラが残したもの。
ヴェラも製本師だった。
胸の奥で何かが冷たく揺れた。
「行くぞ」
ライナルトが扉を開けた。
私は計量室を振り返った。秤も帳面も窓も、もう何も隠していない。ただの部屋。けれど、昨夜ここに来た誰かの指先の跡だけが、帳面の背に薄く残っている。
廊下へ出ると、朝の光が足元まで伸びていた。石壁が少し温まっている。夜が明けてから、もう少し時間が経ったらしい。
私は懐の布包みを片手で押さえた。紙三枚。薄紙で隔てても、かすかな温みが伝わってくる。
もう隠す段階じゃない。
使う段階に入った。
私は前を歩くライナルトの背を見た。彼は振り向かない。けれど歩幅がいつもよりわずかに短い。私に合わせている。
南壁の方角から、かすかに低い音がした。壁の異音ではない。朝の風が、石の隙間を抜ける音。
でも耳がそちらへ向いた。
壁はまだ鳴っていない。けれど、もうすぐ鳴る気がした。
懐の中の三枚が、それを知っているみたいに、ほんの少しだけ温かかった。




