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才能なしと追い出されましたが、辺境で魔導書工房を始めます。──なぜか王国最高位の魔術師が、うちの工房に来るのですが?  作者: 森凛


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第三十四話 ー 差替え

 灰架室の入口は、朝でも暗かった。


 前に来たときは壁の裏から入った。今回は表側です。南壁の外周に沿った細い通路を抜けると、半円の石門が見えた。灰で曇った石の口。上の擦れ跡も、門の内側に張りついた匂いも、前と変わらない。


 違うのは、人がいることでした。


 作業員が二人、門の脇で灰を練っている。鉄鍋の中で灰糊がゆっくり泡を立てていた。こちらを見たが、声はかけてこない。ライナルトの顔を見て、すぐ目を戻した。


 中へ入る。


 前回は夜だった。朝の灰架室は、もう少しだけ広く見える。明かり取りから差す光が、作業台の石と壁の継ぎ目を薄く照らしていた。灰の粉が光の筋の中を静かに舞っている。


 私は壁際へまっすぐ歩いた。


 前回、紙層が剥がされていた場所。南壁第三継の内側。あのとき右手の男性が支えの層を抜き、赤い筋が脈打った継ぎ目。


 継ぎ目は修復されていた。


 灰糊が新しく塗られている。表面はまだ湿っていて、指を寄せるとかすかな温みがある。


 けれど、その横の壁に目が行った。


 前回は気づかなかった場所です。継ぎ目の左側、作業台の影になる位置に、もう一つ別の層がある。古い灰糊の下に、薄い紙が重なっている。前回見た層とは明らかに色が違う。白くない。灰色がかった、くすんだ紙でした。


「ライナルト」


 小声で呼ぶと、彼はすでに隣にいた。


「触るな」


「分かっています」


 私は触れずに目を寄せた。紙の端が少しだけ浮いている。灰糊との間に隙間がある。新しく差し込まれたものでした。古い壁に、新しい紙が入っている。


 しかも繊維の向きが違う。


 前回この壁で見た紙は、縦に流れていた。これは横です。別の紙。別の処理。別の目的で入れられたもの。


「差替えって、これですね」


 ライナルトは答えない。代わりに作業台の方を見た。


 台の上に、へらと灰糊の壺が置かれている。その脇に、薄い布に包まれた平たいものがある。まだ壁に入れていない差替え用の紙。


 私は布を開いた。


 三枚。


 端に印がある。赤い点ではない。灰色の短い線。仮置庫四の予備片に見た印とは違う体系でした。


 紙を一枚持ち上げた。薄い。けれど繊維の間に何かが入っている。前回の予備片と同じように、灰を混ぜた処理がされている。表面に細い線が走っていて、魔力を通す構造に近い。


 近いだけで、同じではない。


 私は紙を灯りへ傾けた。線の走り方が違う。予備片は繊維に沿って線が通っていた。これは繊維を横切っている。


「流れが逆です」


「何の」


「魔力の通り道です。予備片は壁の継ぎ目に沿って力を流す紙でした。これは継ぎ目を横切ってる」


 ライナルトの目が細くなった。


「留めるんじゃない」


「はい」  私は紙を机に戻した。 「通すんじゃなくて、遮ってる」


 壁の継ぎ目を保つための紙を抜いて、遮るための紙を入れる。


 控え帳の赤い点が示していた巡回路。四で消して、灰架室で差し替えて、東門で動かして、南壁で差し替える。何年もかけて、壁の中身を少しずつ入れ替えている。


 入れ替えていたのは、これだった。


 継ぎ目を留める紙を抜き、代わりに遮る紙を入れる。


 壁の力を、内側から少しずつ切っている。


 手が冷たくなっていた。作業台の石が冷えているせいだけではない。


 そのとき、門の外で声がした。


「おい、帳付が来るぞ」


 作業員の一人が、もう一人に低く言った声でした。


 帳付。


 昨夜、焼却場で聞いた言葉です。南塔付きの記録係。赤い点を打っていた人。ミシェル。


 ライナルトが私の肩を掴んだ。


「こっちだ」


 壁の裏手へ引かれる。前回通った狭い通路の入口がすぐそこにあった。石の継ぎ目を押すと、壁が数寸だけ沈む。体を滑り込ませた瞬間、門の方から足音が聞こえた。


 一人分。底の硬い靴。


 通路の闇の中で、私は息を殺した。


 壁の隙間から、作業場が細く見える。


 入ってきたのは、小柄な人物でした。男性か女性か、すぐには分からない。フードを深く被っていて、顔はほとんど見えない。けれど手だけがはっきり見えた。袖口がきれいで、指先に灰がない。


 焼却場で見た小柄な男性とは違う。もっと細い手でした。


 その人物は作業台へまっすぐ歩き、布に包まれた差替え紙を確認した。三枚あることを数え、それからへらと灰糊の壺を手前に引く。


 壁に入れるつもりだ。


 私は通路の中で拳を握った。


 止めるべきか。


 でもライナルトの手がまだ肩にあった。動くなという圧力。


 フードの人物は差替え紙を一枚取り上げ、壁の継ぎ目へ当てた。位置を確認している。まだ入れていない。灰糊を塗る前の、仮合わせ。


 そのとき、人物がフードの端を片手で押さえ直した。


 手首が見えた。


 細い革紐が巻かれている。そこに小さな金具がついていた。革紐の色は黒。金具は丸い。見覚えがあった。


 ヴェラの針入れの留め具に似ている。


 心臓が跳ねた。


 似ているだけかもしれない。でも、あの丸い金具の形は、南外荷宿で受け取った針入れの留め紐についていたものと同じ大きさ、同じ丸みでした。


 人物は仮合わせを終え、紙を布に戻した。そして作業台の端から、もう一つ別のものを取り出した。


 薄い帳面でした。


 私は目を凝らした。通路の隙間から見える範囲は狭い。けれど帳面の端に、赤い点が見えた。


 控え帳と同じ印。


 人物はその帳面に何かを書き込み、すぐに閉じた。懐へ入れる。それから差替え紙を布ごと抱え、門の方へ歩き出した。


 今日はやらないのだ。


 仮合わせだけして、帰る。


 人物が門を出ると、作業員たちの手が止まっていた。鍋の中の灰糊が泡を立てるのをやめていた。誰も何も言わない。帳付が来て、帳付が去った。それだけのことが、この場所では当たり前になっている。


 足音が遠ざかるのを待って、ライナルトの手が肩から離れた。


「追いますか」


「追わない」


 即答でした。


「なぜ」


「帳面を持ってる。追えば警戒される。今のうちに壁を見る」


 私たちは通路から作業場へ戻った。


 作業員たちがこちらを見る。驚いてはいない。壁の裏に通路があることを、知っている顔でした。


 私は壁の継ぎ目へ近づいた。さっきフードの人物が仮合わせをしていた場所。灰糊はまだ湿っている。その横に、差替え紙が当てられた跡がわずかに残っていた。紙の端が灰糊を少しだけ押した痕。


 私はその位置を目に焼きつけてから、継ぎ目のすぐ隣にある古い層を見た。


 前に入れられた差替え紙が、そこにある。


 作業員の年配の方が、近づいてきた。


「それに触ると鳴るよ」


「分かっています」


 私は触れずに、顔を寄せた。古い差替え紙の端が、灰糊の下からわずかに覗いている。色がくすんでいる。入れてから数年は経っている紙です。


 そしてその紙の向こうに、さらに古い層がある。もっとくすんだ、ほとんど灰色に変わった紙。


 何度も入れ替えられている。


 年配の作業員が、腕を組んだまま言った。


「帳付は毎月来る。壁を見て、位置を測って、次の月に紙を持ってくる。おれたちは糊を塗るだけだ」


「中身は見ないんですか」


「見ない」  作業員は首を振った。 「触ると鳴る。鳴れば上から人が来る。おれたちの仕事は糊だけだよ」


 私はライナルトを見た。


 彼は壁の前に立ったまま、継ぎ目を見ていた。その目は紙を見ているのではなかった。もっと奥を見ている。壁の向こう側、あるいは壁の中を。


「何枚入ってる」


 ライナルトが作業員に聞いた。


「知らないよ。触らないって言っただろう」


「入れた回数は」


 作業員は少し黙ってから、指を折った。


「おれがここに来てから六年だ。帳付が来たのは……十四回か、十五回。最近は間が短くなってる」


 十四回か十五回。六年で。


 控え帳の記録と合う。回転が速くなっている。


「次はいつですか」


「知らない。けど、今日仮合わせをしたなら、近いだろうよ。いつもそうだ。測ってから十日もしないうちに来る」


 十日。


 私は壁の継ぎ目を見た。古い層と新しい層。留める紙と遮る紙。何年もかけて、少しずつ中身が変わっている。


 私は作業員に聞いた。


「壁が鳴る頻度は、増えていますか」


 作業員は鍋の方をちらりと見てから、低く言った。


「増えてるよ。前は年に二回くらいだった。去年は五回。今年はもう三回鳴ってる」


 壁の中身が替わるほど、壁が鳴る。


 継ぎ目を留める層が減り、遮る層が増えれば、壁は弱くなる。弱くなれば鳴る。鳴れば予備片を動かす手順が発動する。手順が動けば、仮置庫四から紙が出る。紙が出れば、焼却票で消される。


 全部がつながっていた。


 差替えは原因で、異音は結果で、焼却は証拠隠滅。赤い点はその全体を記録する控え帳の目印。


「ライナルト」


 彼は壁から目を離した。


「壁を弱くしてるんです。少しずつ、継ぎ目を切ってる」


 ライナルトは答えなかった。けれど顔が少しだけ険しくなった。


「入れ替えを止めるだけじゃ足りません」  私は続けた。 「もう入っている分を抜かないと、壁はこのまま弱くなり続ける」


 作業員が顔をしかめた。


「抜くって、おれたちにそんなことは――」


「できます」


 私は言った。  自分でも驚くほど、迷いのない声だった。


「紙を扱うのは私の仕事です」


 ライナルトが私を見た。蝋燭のない朝の光の中で、その目はいつもより明るく見えた。


「やれるか」


「一枚ずつなら。継ぎ目を壊さずに抜く方法はあります。ただし」


「ただし」


「時間がかかります。それと、抜いたあとに元の留める紙を戻さないと、継ぎ目がもっと弱くなる」


「予備片が要るということか」


「はい」


 三枚に分けて隠した予備片。あれが、ここで必要になる。


 計量室の帳面の背に入れた一枚。小窓の風よけに隠した一枚。そして私の針入れの返し縫いの中の一枚。


「予備片を使うんですか」


 自分で聞いておきながら、答えは分かっていた。使い切りの三枚。あれを使えば、もう次はない。


 ライナルトは壁に手を当てた。


「選べ」


 短かった。


「全部は戻せない。三枚では足りない。どの継ぎ目を先に戻すか、選べ」


 私は壁の前に立った。


 朝の光が、明かり取りから斜めに差している。灰の粉が光の中を舞っている。壁の継ぎ目は長く、どこまでも続いているように見えた。


 どこから直すか。


 三枚しかない。壁は長い。全部は無理だ。


「南壁第三継です」


 私は言った。


「なぜ」


「いちばん鳴っている場所だからです。鳴れば手順が動く。手順が動けば仮置庫から紙が出る。鳴りやすい場所を先に止めれば、回転を遅くできる」


 ライナルトの手が壁から離れた。


「いつやる」


「帳付が次に来る前に。十日以内です」


 作業員が鍋を見た。灰糊がまた泡を立て始めている。


 私は壁の前で、自分の手を見た。灰の粉が薄くついている。指先はまだ冷たい。けれど、震えてはいなかった。


 やることは決まった。


 十日以内に、南壁第三継の差替え紙を抜き、予備片を入れる。

 三枚を集め直す。

 この壁を、もう一度、留め直す。


 門の外で、朝の鐘が鳴った。時刻を知らせる鐘。昨夜から何度目かの鐘です。けれど今度は、夜明けの鐘でした。


 灰架室に朝の光が差し込んでくる。灰の粉が金色に変わった。


 ライナルトが先に歩き出す。


 私は壁に一度だけ手を伸ばしかけて、やめた。触れば鳴る。今はまだ、触るときではない。


 けれど十日後には、この壁の中に手を入れる。


 門を出る。朝の空気が頬に当たった。冷たいのに、どこか柔らかい。夜が明けたばかりの空気の匂いです。


 私は懐の帳面と、その隣の針入れを同時に押さえた。


 帳面には赤い点の順番が残っている。

 針入れの中には、予備片が一枚眠っている。


 十日。


 その言葉だけが、朝の光の中で静かに重かった。

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