第三十三話 ー 順番
階段を上りきると、塔の上層は静かだった。
下の騒ぎが嘘みたいでした。人の気配がない。廊下の燭台も半分は火が落ちていて、残った灯りが石壁を弱く照らしている。空気は乾いて、冷たい。息を吸うと、喉の奥で紙の匂いが薄くかわいた。
ライナルトは廊下の突き当たりにある小部屋へ入った。保管庫ではない。連絡用の待機室らしく、壁際に長椅子がひとつ、窓の下に机がひとつ。机の上には蝋燭の台座だけがあって、火はなかった。
ライナルトが懐から火種を出して灯す。小さな炎が揺れて、壁の石目が浮かんだ。
私は帳面を机の上に置いた。
薄い束です。けれど開くと、頁のあちこちに赤い点が散っている。灯りの下で見ると、点の色がどれも同じではないことに気づいた。古い頁の点はくすんでいて、新しい頁の点はまだ少し艶がある。同じ薬を使っていても、時間が経てば色は沈む。
私は最初の頁から順にめくった。
赤い点のある頁だけを、ゆっくり抜き出す。ほかの頁は伏せたままにする。該当する頁は全部で十一枚。机の上に、日付の古い順から並べた。
蝋燭の火が揺れるたびに、紙の上の影が動く。
「何を見てる」
ライナルトが長椅子に腰を下ろしたまま聞いた。
「順番です」
私は一枚目に指を置いた。
日付は八年前。処理先は「南塔仮置庫 四」。票種は「移送」。赤い点。
二枚目。七年前。処理先は「西書庫 灰架室」。票種は「差替え」。赤い点。
三枚目。同じ年。処理先は「東門旧療養舎」。票種は「回収」。赤い点。
四枚目。六年前。処理先は再び「南塔仮置庫 四」。票種は「返送」。赤い点。
そこまで並べたところで、私は指を止めた。
四と灰架室と東門旧療養舎。
知っている場所でした。
ここ数日で、私たちが歩いた場所です。
「……同じです」
声が小さくなった。自分でも驚くほど。
「何がだ」
「私たちが追ってきた場所と、赤い点が通った場所が同じです」
ライナルトは長椅子から立ち上がらなかった。けれど目だけがこちらへ向く。蝋燭の火が瞳の端に映っている。
私は五枚目以降を続けてめくった。
五年前。「南壁第三継」。差替え。赤い点。 四年前。「西書庫 灰架室」。回収。赤い点。 三年前。「南塔仮置庫 四」。焼却票先行。赤い点。
同じ場所が、繰り返し現れる。
四、灰架室、東門、南壁第三継。この四つだけが、何年にもわたって赤い点をつけられている。ほかの保管場所の名前は一度も出てこない。
私は紙を指で押さえたまま、全体を見た。
並びには規則がある。
四から始まる。灰架室へ行く。東門を経由する。南壁へ着く。そしてまた四に戻る。
回っている。
同じ四つの場所を、同じ順番で、何年もかけて回っている。
蝋燭の蝋が一滴、台座に落ちた。小さな音がして、火が一瞬だけ大きく揺れる。
「巡回路です」
私は言った。
「何の」
「分かりません。でも、赤い点がついた票は全部この四か所を回っています。順番も決まっている」
机の上に並んだ十一枚の紙が、蝋燭の光の中で薄い影を落としている。私は八枚目から先を見た。
二年前。「西書庫 灰架室」。差替え。赤い点。 一年前。「東門旧療養舎」。移送。赤い点。 今年。「南壁第三継」。差替え。赤い点。
そして十一枚目が、今夜の票でした。
「南塔仮置庫 四」。焼却票先行。赤い点。
回っている。 そして今夜、順番が四に戻ってきた。
私は指先で十一枚の並びをもう一度なぞった。四、灰架室、東門、南壁、四、灰架室、東門、南壁、灰架室、東門、南壁。そして四。
規則的なようで、途中から間隔が詰まっている。最初は一年に一回だったものが、ここ数年は同じ年に二回入っている頁もある。
回転が速くなっている。
何かが近づいているみたいに。
「ライナルト」
彼は長椅子に座ったまま、私の手元を見ていた。
「次が読めます」
「言え」
「四は今夜です。私たちが止めた。次は――」
私は順番を指でたどった。四の次は、灰架室。
「西書庫の灰架室です」
言いながら、指先が冷たくなっていくのが分かった。
灰架室。第二十六話で見た場所です。壁の内側で紙を灰糊に抱かせ、継ぎ目を留めていたあの作業場。あの場所にもまだ、処理紙が残っているはずでした。
「いつ」
ライナルトが聞いた。
私は帳面の間隔を見た。最近の回転は速い。四から灰架室への間隔は、過去三回とも一月以内。今夜四が動いたなら、灰架室は――
「すぐです。一月もかからない」
部屋の中が急に狭く感じた。壁の石目が蝋燭の揺れで微かに動いている。窓の外からは何も聞こえない。塔の上層は静かすぎて、自分の心臓の音が耳に届きそうでした。
ライナルトが立ち上がった。長椅子の脚が石の床を擦る音がする。
「読めたのは順番だけか」
「いえ」
私は帳面を閉じずに、もう一つ気づいたことを指で示した。
票種です。
四への票は、いつも「焼却」か「返送」。つまり消す方向。 灰架室への票は、いつも「差替え」。入れ替える方向。 東門への票は、「回収」か「移送」。動かす方向。 南壁への票は、「差替え」。やはり入れ替える方向。
四で消して、灰架室で入れ替えて、東門で動かして、南壁で入れ替える。
消す、替える、動かす、替える。
私は机の上の紙を見つめた。蝋燭の蝋がまた一滴落ちる。
「壁の中身を入れ替えてるんです」
声が少し震えていた。
「何年もかけて、少しずつ」
ライナルトは答えなかった。
代わりに、窓の方へ歩いた。明かり取りの小窓から外を見る。夜の空気が細く入り込んで、蝋燭の火がまた揺れた。
「灰架室の差替えを止めれば、回転が止まる」
私が言うと、彼は窓から目を離さないまま答えた。
「止まるだけだ」
その声は低かった。
止まるだけ。つまり、止めても元には戻らない。すでに入れ替えられた分は、もう壁の中にある。
私は帳面を閉じた。表紙のない束が、手の中で小さくたわむ。
「でも、次がどこか分かりました」
ライナルトがようやくこちらを振り向いた。蝋燭の光が顔の半分にだけ当たっている。もう半分は影の中でした。
「灰架室へ行く前に、一つ確かめることがある」
「何ですか」
「差替えの中身だ」
私は首を傾げかけて、やめた。
差替え。入れ替えるなら、出すものと入れるものがある。出すものは予備片だった。では、入れるものは何か。
壁の中に、何を入れているのか。
その問いが浮かんだ瞬間、部屋の温度が一段下がった気がした。窓から入る夜気のせいだけではない。
ライナルトが机の蝋燭を手で囲い、火を小さくした。部屋が暗くなる。
「今夜はここまでだ」
「でも――」
「灰架室は昼の方がいい」 彼は短く言った。 「夜は、あの場所を別の連中が使う」
その言い方に、知っている人の重さがあった。八年前に入った場所。十年前に閉じた場所。彼はあの壁の内側を、私よりずっと長く見てきている。
私は帳面を懐へ入れた。紙の角が肋骨の下に当たる。
「明日ですか」
「明日だ」
蝋燭を吹き消す。
暗闇の中で、蝋の匂いだけが残った。甘くて、少し苦い。乾燥棚の部屋で嗅いだ薬の匂いに、どこか似ていた。
窓の外で、遠くの鐘が一つ鳴る。南壁の異音ではない。時刻を知らせる鐘でした。夜がどこまで来たかを、石壁の向こうから教えている。
私は暗がりの中で立ち上がった。
机の上にはもう何もない。十一枚の紙は帳面に戻し、帳面は懐に入った。けれど頭の中には、まだ四つの場所が回っている。
四、灰架室、東門、南壁。
消す、替える、動かす、替える。
何年もかけて壁の中身を入れ替えている人がいる。少しずつ、赤い点を一つずつ打ちながら。そして今夜、その回転の一つを私たちが止めた。
次は灰架室。
でもその前に、入れ替えられたものの正体を確かめなければ、止めても意味がない。
ライナルトが扉を開けた。廊下の空気が流れ込む。さっきより冷たい。夜が深くなっている証拠でした。
私は暗い廊下へ足を踏み出した。石の床が靴底に冷たく当たる。
「ライナルト」
前を行く影が、半歩だけ遅くなる。
「分かったことが、もう一つあります」
「何だ」
「回転が速くなっています」
彼は振り向かなかった。
「最初は年に一度だったのに、最近は何か月かで一周してる。急いでいるんです。誰かが」
廊下の先で、燭台の火が一つ、音もなく消えた。風のせいかもしれない。けれどそのあとの暗がりが、少しだけ深くなった気がした。
ライナルトの足音が、石の廊下に静かに響く。
「急いでいるなら」
彼は歩きながら言った。
「こっちも急ぐ」
私は帳面を懐の中で押さえ直した。紙の角が肋骨に当たるたび、四つの場所が順番に浮かぶ。
四、灰架室、東門、南壁。
明日は灰架室。
蝋燭のない廊下を歩きながら、私は自分の足音を聞いていた。石に当たる革底の音。その隙間に、もう一つの足音が重なっている。
二人ぶんの足音が、暗い廊下の奥へ伸びていく。
外で鐘がもう一つ鳴った。時刻の鐘。夜はまだ明けない。




