第三十二話 ー 赤い点
南塔の廊下は、思ったより暗かった。
焼却場を出てから、まだ百歩も歩いていない。なのに空気はもう違う。焦げた匂いが薄くなった代わりに、石壁の湿った冷たさが肌へ張りついてくる。袖口を鼻に寄せると、まだ紙の焼けた匂いが残っていた。
私は歩きながら、懐の中の票束を指で押さえた。角が揃いすぎている。何枚もの紙を急いでまとめたにしては、端がきれいすぎて、そのことが歩くたび指に引っかかった。
角を曲がったところで、ライナルトが足を止めた。
「見るか」
窓のない踊り場だった。天井が低い。壁に据えられた燭台がひとつだけ揺れていて、石の壁に影が長く伸びている。火は小さい。ほとんど芯だけの灯りでした。それでも、紙を読むには足りる。
私は票束を出して、その灯りへ寄せた。
赤い点は、右上にあった。
目を凝らさないと見落とすほど小さい。印というには頼りなくて、針先で一滴だけ置いたみたいな形をしている。丸くはない。乾いたあとで少しだけ盛り上がっていて、親指の腹で触れると、かすかな段がある。
朱ではなかった。
もっと重い。なぞると、紙の表面に乗っているだけではなく、繊維のあいだへわずかに沈み込んでいる感触がある。墨がにじんだときとは違う。染みたのではなく、押し込まれている。
票を裏返した。
裏側にはほとんど抜けていない。表にだけ置かれた色。しかも、折り目のあとに点が来ている。票を折ってから、最後に打たれたものでした。
「あとから打っています」
ライナルトは票をのぞき込まなかった。私の手の動きだけを見ている。燭台の火が揺れて、彼の顔の半分が暗く沈んだ。
「何で」
「筆じゃないです。先の丸い金属。目打ちか、それに近いもの」
そこで、指を止めた。
匂いがある。
紙と灰の匂いではない。もっと甘くて、あとから舌の奥に苦味が残るような匂い。帳面の虫食いを防ぐとき、表紙の内側へ薄く塗る薬に似ていた。マルグリットの工房で嗅いだことがある。古い本の扉をめくったときに、一瞬だけ鼻の奥を掠めるあの匂い。
顔を上げた。
「写し場の匂いです」
「南塔にあるか」
「乾燥棚のある方なら」
紙に薬を使う場所は限られる。票を乾かし、虫と黴を避けるための部屋。暖気が通っていて、墨が早く乾くところ。南塔の記録まわりなら、どこかにあるはずでした。
ライナルトはそれだけで階段の方へ向きを変えた。迷いがない。この塔の中を、私よりずっと知っている歩き方でした。
南塔の記録まわりは、夜ほど人が減る。
皆、南壁の騒ぎに出ていて、奥の小部屋まで戻ってくる者はいない。私たちは塔の中心を避け、壁沿いの細い通路を上った。石段の角が長い年月で丸く削れている。荷車や箱ではなく、人の足だけが繰り返し通ってきた階段でした。一段ごとに、冷たい石の感触が靴底を通して伝わる。
上の廊下に出ると、空気が変わった。
湿り気は減って、代わりに紙の匂いがうっすり漂っている。壁に寄せた木の棚が、等間隔に並んでいた。空の札入れ。ひびの入った小箱。乾燥待ちの板。どれも古い。ただ、棚板の一部だけ新しく擦れている。何かを最近、急いで引き抜いた跡でした。
突き当たりに、半開きの戸がある。
灯りはなかった。高い位置に明かり取りの窓があって、外の青い夜気がそこから細く差し込んでいる。部屋の中に落ちる光は薄くて、机の上の物が淡い影になって浮いていた。
戸口の前で、足が止まった。
机が二つ。乾燥棚が三段。壁際に水差し。紙を押さえる石が四つ。物はそれだけ。
きれいすぎた。
使いかけの道具がひとつもない。硯がない。筆がない。紙もない。棚の上も、机の引き出しの取っ手にも、埃が均一についている。けれど机の天板だけが拭かれていた。
片づけた部屋ではない。去るために整えた部屋だ。
ライナルトが戸をさらに押し開けた。蝶番が小さく鳴る。明かり取りから差す青い光が、少しだけ広がった。
私は一番近い机へ寄った。
天板に手を置くと、少し冷たい。ずっと人がいなかった机の温度でした。けれど木目の溝にだけ、赤いものが細く残っている。針の先で触れたような、ごく小さな筋。
さっきの票と同じ色だった。
引き出しを開ける。空。二段目も空。三段目の奥にだけ、細い金属棒が一本、転がるように残っていた。
私はそれを持ち上げた。
指のあいだに収まる細さ。先端が丸い。針より鈍くて、筆より小さい。目打ちに似ているけれど、穴を開けるためのものではなさそうでした。
先のわずかな窪みに、赤い色が残っている。
これで点を打っていた。薬を含ませて、票の角へひとつだけ。裏へ抜けない。乾きも早い。
私は金属棒を灯りへ傾けた。赤い色は先端だけに残っていて、柄には何もついていない。使い方を知っている人が、丁寧に扱った道具の姿だった。
乾燥棚の方を見る。
棚板に四角い跡が並んでいた。票束を重ねて置いていた痕。右端の一列だけ、板の色が少し違う。薬がしみた変色です。その匂いが、ここまでかすかに漂っている。甘くて苦い、あの匂い。
棚の下の床に、紙片がひとつ落ちていた。
角だけで、文字はない。けれど右上に赤い点がある。拾うと、指先にごく薄く色が移った。まだ完全には乾いていない。
ここで打たれた紙だった。
水差しの脇に置かれた小皿が目に入る。皿は白い陶で、底の方にだけ赤い膜がわずかに残っている。鼻を寄せてみたら、甘さのあとに、舌の奥に届くような苦い匂いと、虫除けの薬に混ぜた樹脂の匂いが漂っている。踊り場で票から嗅いだものと、同じだった。
順番の整理をつけるだけなら、もっと乾いた墨を使えばいい。わざわざ別の皿で薬を作り、金属の棒で一つずつ置く。手間がかかりすぎている。
私は乾燥棚の一番下の段へしゃがみ込んだ。
棚板の裏側に、細く削れた跡がある。何かを繰り返し出し入れした傷です。でも今はもう何もない。板だけが暗がりの中に残っていた。
床へ膝をついて、指を差し入れる。冷たい石の床が膝に当たる。少し届かない。奥の方に何かの感触がある気がするのに、指先が数寸足りなかった。
ライナルトが何も言わずに腰を落とした。棚の脚を押さえていた石の楔を片手でずらす。棚がわずかに浮いて、奥に隙間ができた。
暗がりの中に、薄い板のようなものが挟まっている。
引き抜いたら、一冊の帳面が出てきた。
表紙も題もない。紐もかけていない。急いで押し込まれた束。頁の端がわずかに波打っていて、一度湿気を含んでから乾いた紙の手触りがある。
喉がひとつ鳴った。
私はその場で一枚めくった。
日付。票種。処理先。右端に、小さな赤い点。
次の頁も同じ。さらに次も。
赤い点がある頁だけ、処理先が違っていた。焼却。回収。差替え。移送。表の帳面にはそのまま残らない言葉ばかりが、ここに並んでいる。
めくる手が止まった。
”仮置庫四
外紙損耗扱い
焼却票先行”
その右端に、赤い点。
さらに下に、小さな字。
”確認不要
受渡済後、帳消し”
指先が冷えた。帳面を持つ手に、少しだけ力が入る。
焼却場で見た票は、あそこで終わるものではなかった。ここから始まっていた。この机で、この道具で、この薬の匂いの中で。
頁をさらにめくる。仮置庫四の記述は一度きりではなかった。数年前の日付にも、同じ書式がある。包み、外紙、仮札、回収待ち。四はずっと、何かを静かに出し入れする場所として使われてきたらしい。赤い点のついた頁だけが、その裏道をなぞっている。
途中で、頁の端に違うものが見えた。
文字ではない。紙が凹んでいる。前の頁で強く書いた下敷きの痕でした。筆圧の強い人が、何かを急いで書いたときにできる跡。
帳面を閉じて、次の白紙を明かり取りの光へ傾けた。青い夜気の中で斜めから見ると、前の頁の筆圧が浮かぶ。
南塔付き記録係――
そこから先は読みにくい。けれど名前の最後だけ、かすかに残っていた。
……シェル。
指が止まった。
息を吸おうとして、吸いきれなかった。名前がある。この帳面に。この机に座っていた人の名前が、押し傷として残っている。
そのとき、戸口の外で足音がした。
私とライナルトは同時に顔を上げた。明かり取りから差す光の筋が、戸口の隙間を横切る。
足音は手前で止まった。入ってこなかったが、気配だけが扉の向こうにある。
ライナルトが一歩前へ出る。
「入れ」
短い沈黙が訪れた。三秒後に、戸がほんの少しだけ開いた。
入ってきたのは年配の女性だった。腰に布束を提げている。手には何も持っていない。掃除係の格好でした。顔色は良くない。けれど逃げようとする人の目ではなかった。女性はまず乾燥棚を見た。楔がずれて、下の隙間が開いたままになっている。それから床の上の私を見て、最後に、私の手の中の帳面に目を落とした。
「……その帳面、見つけたんだね」
私は抱えたまま答えなかった。
女性は小さくため息をついた。吐く息の音がやけにはっきり聞こえる。
「遅かったか」
「記録係ですか」
女性は首を振った。
「違うよ。掃除してるだけさ」
そう言いながら、女性の目は私の手元を離れなかった。帳面ではない。もう片方の手に持ったままの金属棒を見ている。
「それ、机の引き出しにあったろう」
私はうなずいた。
女性は壁に背を預けるように体を傾けた。疲れた体の動きです。
「毎朝拭いてたよ、あの机」 低い声だった。 「硯は持って帰るのに、それだけはいつも引き出しに入れっぱなしでね。最初は何に使うのか分からなかった」
女性は小皿の方をちらりと見た。
「でも、赤いのが残るんだよ。机にも、棚にも、皿にも。拭いても拭いても、溝の中にだけ残る。何年もそうだった」
その視線の動き方で、長い時間をかけてこの部屋を見てきた人だと分かった。好奇心ではない。毎日同じ場所を拭いていれば、嫌でも目に入るものがある。
「あの赤い点がついた票は、表へ回らない。毎月何枚か、棚から抜いて下へ回す。掃除してりゃ、それくらいは目につくよ」
私は手の中の金属棒を見た。先端の赤が、明かり取りの光を受けて鈍く光っている。
「名前は」
ライナルトが聞いた。声は低いが、急かしてはいない。
女性は戸口の外をちらりと見た。廊下の暗がりに誰もいないことを確かめるような一瞥でした。それから小さく息を吐いて言う。
「ミシェル。南塔付きの控え書きだよ。自分では表に出ない人だ。書いた票はいつも誰かに回させる」
……シェル。
下敷きの痕に残っていた名前の末尾が、声になって返ってきた。
「まだ塔にいますか」
女性は首を振った。
「もういない。鐘が二つ鳴る前に、帳箱ひとつ持って出た」
「どこへ」
「知らないよ」
女性は乾燥棚の下を見た。さっき帳面を引き抜いた場所。暗い隙間がまだ口を開けたままになっている。
「でも、帳面だけは置いていくと思った。あの人、いつもそうだ。消したいくせに、全部は捨てられない」
私は帳面の背を親指で押さえた。
消したいのに、捨てられない。その半端さが、この部屋中に残っている。机の溝の赤い筋。棚板の薬じみ。小皿の底の膜。拭いたのに拭ききれなかったもの。去ったのに消しきれなかった跡。
「持っていきます」
私が言うと、女性はうなずいた。
「その方がいい」
女性は戸口を開けたまま、廊下の暗がりを見た。明かり取りの光はもう届かない。青い影が、石壁の先で濃くなっている。
「次にここへ来るのは、掃除のためじゃないだろうからね」
ライナルトが先に出た。足音は静かだった。私は帳面を抱え直して立ち上がる。膝が少し痺れていた。ずっとしゃがんでいたせいです。
戸口を出る前に、乾燥棚の脇の小皿がもう一度目に入った。白い陶の底に残った赤い膜。明かり取りの青い光の下で、それだけがかすかに温かい色をしている。
あの色を、ただの目印だと思っていた時間が、もうずいぶん遠かった。
廊下へ出る。
空気が冷たい。壁に手を触れると、石の表面に薄く水気が浮いていた。夜が深くなっている。けれど指先にだけ、まだあのざらつきが残っていた。赤い点を拾ったときの、紙と薬のあいだの感触。
「ライナルト」
前を行く背が、わずかに止まった。振り向きはしない。燭台の火が遠くなって、彼の輪郭は暗がりの中でほとんど影になっている。
「追えます」
「誰を」
私は帳面の角を親指で押さえた。頁の中に並んでいるのは、焼却、回収、差替え、移送。赤い点のついた票だけが、表へ出ずに裏を通っている。
「記録係を、じゃありません。この点が通った順番をです」
ライナルトは振り向かなかった。 ただ、歩幅が半歩ゆるんだ。
私はその背に追いついた。
戸口の向こうで、年配の女性が静かに扉を閉める音がする。乾いた木の音が廊下の石壁に反射して、奥へ細く伸びていった。
階段の手前で、ライナルトが言った。
「行くぞ」
私は返事の代わりに、一段目に足をかけた。
石段は冷たかった。一段上がるごとに、腕の中の帳面がわずかに揺れる。落とさないように抱え直したとき、紙の角が手のひらに当たった。
小さな痛みだった。 でも手は離さなかった。




