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才能なしと追い出されましたが、辺境で魔導書工房を始めます。──なぜか王国最高位の魔術師が、うちの工房に来るのですが?  作者: 森凛


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第三十一話 ー 焼却票


 偽の包みを抱えていった二人の足音は、まだ廊下の先に残っていた。


 私は計量室を出たところで立ち止まり、息をひそめた。片方は踵の重い靴、もう片方は底の薄い靴。急いではいるのに、走ってはいない。階段を下りるときの響きでもなかった。石床をまっすぐ渡っていく、乾いた足音です。


「……下じゃありません」


 言うと、ライナルトが私を見る。


「分かるのか」


「音が跳ねません。平らなところです」


 彼はそれだけで進む向きを変えた。


 塔の中はまだ落ち着かない。鐘の余韻、呼び声、灰袋を引きずる音。いくつもの音が重なっているのに、その二人の足だけは不思議と追いやすかった。急いでいる人の足音には、ためらいがない。命じられた場所へ運ぶだけの人は、だいたい同じ歩き方をする。


 角をひとつ曲がったところで、床に白いものが点々と落ちているのが見えた。


 灰です。


 しゃがんで指先を近づける。南壁の継ぎ目まわりで見た灰より白い。乾いて、細かい。塔の上の保管まわりで服につく灰でした。


「こっちです」


「包みか」


「前掛けです」  


 私は立ち上がった。


「年若い方の腰紐、ゆるんでいました。歩くたび落ちます」


 前を見ると、廊下の先に人影が二つだけ見えた。片方が包みを脇に抱えている。もう片方が先に立って低く何か言った。二人はそこで右へ折れた。


 私は足を止めかけた。


 そっちは仮置庫へ戻る道ではない。階段でもない。人の流れの外れた、古い作業区画の方でした。


 その先から空気が変わっている。熱い。乾いていて、鼻の奥にざらつく匂いが残る。灰架口で吸い込んだ匂いとは違う。あちらは湿った灰でした。こっちはもっと荒い。焦げた布や古紙を、まとめて焚いたあとのような匂い。


 喉の奥がひやりとした。


 前方の壁に、低い黒扉が見えた。人がしゃがんで入るほどの高さしかない。脇には灰捨ての樋がついていて、樋の縁だけが白く固まっている。


 使っていないように見えて、扉の前の石だけがやけに滑らかでした。


 私たちは、手前の木箱の陰へ寄った。


 二人が扉を叩く。


 内側で錠の外れる音がした。


 出てきたのは、小柄な男性でした。灰番ではありません。前掛けをしていない。袖口だけが妙にきれいで、指先にも灰の筋がない。


「遅い」  


 小柄な男性が言った。


「もう鐘が二つ鳴ったぞ」


「確認が入ったんだ」  


 包みを持っている方が答える。


「これでいいんだな」


「中は見るなと言われただろう」


 その一言で、私は木箱の陰で息を止めた。


 包みを受け取る側も、中身を知らない。


 小柄な男性は包みの重さを確かめもせず、すぐ中へ引こうとした。


 私はもう待てなかった。


「それ、どこへ持っていくんですか」


 三人がいっせいに振り向いた。


 年若い方は目を見開いた。年長の方は顔をしかめる。小柄な男性だけが、表情を引っ込めるのが早かった。


「何だ、おまえは」


 私は答えず、包みの方を見た。扉の向こうにも目が行く。狭い石室。炉がひとつ。石台がひとつ。まだ火は残っている。赤い口が暗がりの中で鈍く光っていた。


 石台の上には、木札と帳面、その横に票の束。


 その票が目に入った瞬間、背筋がすっと冷えた。


 一番上の紙に、見覚えのある字がある。


 "――仮置庫四

 ――外紙損耗

 ――焼却済"


 包みはまだ腕の中にも炉の中にも入っていないのに、票だけがもう終わっている。


「ライナルト」


 私が呼ぶより先に、彼は前へ出ていた。


「置け」


 小柄な男性は止まらない。扉を閉めようと腕を引く。ライナルトがその扉を片手で押さえた。鈍い音がして、蝶番が軋む。回収役の二人が息をのむ。


「命令だぞ!」  


年若い方が言った。


「誰の」


 ライナルトの声は低かった。


 その一言で、空気が止まる。


 二人は答えられない。知っているのは運ぶことだけで、命じた相手の顔までは知らない。


 私はその隙に扉の内側へ踏み込んだ。


 炉の熱が頬に当たる。石台に積まれた票の束は、上の数枚だけ墨が新しい。端も白い。古い損耗票なら、こんなに紙色が揃うはずがない。机の上に並ぶ順番だけが、どこか無理に整いすぎていました。


 小柄な男性が、そこでようやく包みを炉の方へ投げようとした。


 私は駆けた。


 軽い。


 放られた包みは思ったより高く浮かず、私は両手で受け止められた。衝撃で肘が痺れる。それでも落とさない。


 同時にライナルトが扉を押し広げ、小柄な男性の手首をつかんだ。相手は声もなく壁へ押しつけられる。袖口だけきれいだった手に、ようやく灰がついた。


 年長の回収役が、先に口を開いた。


「おれたちは運べって言われただけだ」 顔色が悪い。


「焼くなんて聞いてない」


 私は抱えた包みを石台に置いた。まだ温かくもない。火の前へ来ただけの軽い包み。そのそばで、票の方だけが先に“焼却済”になっている。


 喉の奥がざらついた。


 消したいのは、この包みの中身じゃない。


 ここを通った、という筋の方だ。


「誰に渡されたんですか」  


 私は票から目を離さずに聞いた。


「帳付だよ」 年長の回収役が答える。


「南塔付きの記録係だ。四の包みを損耗扱いで回せって」


「顔は」


「知らない。いつも票だけだ」


 小柄な男性が壁際で手首をさすりながら、吐き捨てるように言った。


「古い損耗品は、焼却票を先に回すこともある」


 私はその票を一枚手に取った。


 紙が新しい。日付の墨も乾ききっていない。しかも束の中ほどまで、筆圧がほとんど同じでした。まとめて書かれた字です。積み重ねた時間の字ではない。


「あるかもしれません」 私は言った。


「でも、これは今まとめて書いています」


 小柄な男性は黙る。


 私は票を裏返した。紙の縁にごく小さな赤い点が打ってある。鐘室の札。継ぎ目の処理紙。あちこちで見たものとよく似た印でした。


「またこれ……」


 呟いたとき、石台の下に視線が引かれた。


 引き出しが、ほんの少し開いている。


 しゃがんで引くと、折り畳まれた票が一枚出てきた。


 ”南塔記録付より

 仮置庫四損耗品は焼却票先行

 現物確認不要”


 署名はない。印もない。ただ右上に赤い点だけがある。


 私は紙を持ったまま動けなかった。


 現物確認不要。


 その四文字だけで、この部屋の役目が一度に見えた気がした。


 包みの中身なんて、最初からどうでもよかったのだ。ここまで来て、票に焼却済の筋道さえ通れば、それで終わる。中が空だろうが違おうが、もう誰も追えなくなる。


「これ、持っていきます」


 声が少し硬かった。


「ああ」  ライナルトが言う。


 年若い回収役が、おそるおそる包みを見た。


「じゃあ……おれたち、空のものを運ばされたのか」


 私は返事の代わりに包みを持ち上げた。軽い。さっき受け止めたときと同じ頼りない重さが、腕に残っている。


 年長の方が舌打ちした。


「ふざけやがって」


 小柄な男性は視線を逸らした。彼もまた、どこまで知っているか怪しい顔でした。票を書く。焼却済を揃える。そこまでが仕事。


 ライナルトがその男性に聞く。


「この印をどこで受けた」


「帳付からだよ」  男性は低く答えた。


「朝、箱で来た。中を見るなと言われた」


「帳付はどこだ」


「知らない。票だけ置いていった」


 嘘ではない、と私は思った。知らないことを隠すより、面倒ごとに関わりたくない可能性が高いからだ。


 私は票の束をまとめて抱えた。重くはない。でも紙の枚数が増えるだけ、誰かが何度も同じことをしてきたのだと分かる。


 扉の外から風が入る。炉の火が少しだけ揺れた。赤い口が、まだ何かを待っているみたいに見える。


 けれど今夜、そこへ入るはずだったものはもうこちらの手にある。


「終わりましたね」


 私が言うと、ライナルトがこちらを見た。


「何がだ」


 私は腕の中の偽の包みと、票の束を見下ろした。


 包みは燃えていない。票もまだ灰になっていない。ここへ来るまでの道筋も、まだ紙の上に残っている。


「行き先です」  私は言った。


「この包みが消える場所は、ここでした」


「ああ」


 偽の包みを持っていった回収役を逆に追い、たどり着いたのは焼却場だった。

 炉の火より先に、焼却済の票が待っていた。

 燃やされるはずだったのは、中身より先に、そこへ至る記録の方だった。


 私は票束と命令票を懐へ入れた。紙が重なる感触が、少しだけ現実味を戻してくれる。


 年長の回収役が、気まずそうに一歩下がる。


「おれたちは、もう運ばない」


「そうしてください」 私は言った。


「次は中身を見てから持っていってください」


 彼は何度もうなずいた。


 小柄な男性は石台の横で黙っている。まだ炉は消えていない。でも、その火へ投げ込まれるはずだった順番は、もう崩れた。


「戻るぞ」  


 ライナルトが言う。


「はい」


 焼却場を出る前に、私はもう一度だけ炉を見た。


 石台の上には、票を持ち去ったあとの薄い跡が残っている。  

 さっきまで、そこに“終わったこと”にする紙が積まれていた。


 それが今はない。


 それだけで、胸の奥に張っていたものが少し緩んだ。


 偽の包みは燃えなかった。  

 代わりに、灰になるはずだった筋書きの方を、先に取り上げたのだから。


 廊下へ出ると、さっきより空気が冷たく感じた。塔の奥で鐘がひとつ鳴る。もうあの音だけでは足を止めない。どの音が人を動かし、どの紙がそのあとを消すのか、少しだけ見えた気がしていた。


 私は前を行く背に向かって、小さく言った。


「ライナルト」


「何だ」


「まだ四は消えていません」


 彼は振り向かないまま答えた。


「……ああ」


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