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才能なしと追い出されましたが、辺境で魔導書工房を始めます。──なぜか王国最高位の魔術師が、うちの工房に来るのですが?  作者: 森凛


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第三十話 ー 隠し場所


 計量室の扉の前を、また足音が通り過ぎた。


 今度は二人分でした。片方は踵の重い靴、もう片方は底の薄い靴。どちらも急いでいるのに、走ってはいない。命じられたとおりに探している人の歩き方です。廊下の角でいったん止まり、短く何か言葉を交わしてから、また遠ざかっていく。


 私は息を止めたまま、机の上の三枚を見ていた。


 薄い。

 軽い。  

 それなのに、紙三枚とは思えない気配がありました。


 並べて置いているだけで、机の上の空気がわずかに張る。紙の端が、ごく薄く熱を持っているのが分かる。触れば火傷をするほどではない。でも、指先が「これはただの紙じゃない」と先に知る。


「……寄せると反応します」


 向かいに立つライナルトが、わずかに眉を動かした。


「分かるのか」


「はい」


 私は三枚の間隔を少し広げた。ほんの指一本ぶん。すると、張っていた感じが弱くなる。さっきまで机の上で干渉し合っていたものが、少しだけ静まる。


「一緒にしておくと危ないです」


「魔力で見つかるか」


「それもありますが、それだけじゃないと思います」


 私は核片から目を離さずに言った。


「手順を知ってる人なら、探し方も知ってるはずです。束になっている形を探されます。包みのままでも、本の形でも、たぶん駄目です」


「……ああ」


 それで話は決まりでした。


 三枚は別にする。 別々の場所に置く。ただし、保管したと分かる置き方をしてはいけない。


 私は計量室の中を見回した。


 秤。分銅。封蝋の欠片。補修用の糸巻き。背の割れた帳面。窓の隙間に詰められた古紙。布を被った空箱。どれも目立たない。だからこそ、隠すならそういうものの中でした。


「隠すなら、隠した形にしない方がいいです」


「どうする」


「使われているものの中に入れます。置かれている理由が最初からあるものに」


 ライナルトは何も言わない。続きを促すときの沈黙でした。


 私はまず、懐から灰色の針入れを出した。南外荷宿で受け取った、あの小さな革の針入れです。手に乗せると軽い。けれど、その軽さの中に、これまで辿ってきたものがまとまって入っている気がした。


 私は留め紐の返し縫いを指でなぞった。


「一枚は、これに入れます」


「見つからないか」


「そのままでは入れません」


 針入れを開き、内側の縫い目を目で追う。底は薄い。脇も浅い。けれど返しのひとつだけ、糸の返りが不自然に厚い場所がありました。前に補った痕です。縫い直した人の癖が残っている。


「ここです」 私は言った。

「この返しだけ、一度手が入っています。底をもう一層つくれる」


「入るか」


「たぶん」


 たぶん、と口にしたけれど、指はもう確信していました。これは偶然の厚みではありません。もともと何か薄いものを噛ませられるつくりになっている。ヴェラがこの針入れを残したのが、本当にただの記念だったとは思えませんでした。


 私は細針を抜き、返し縫いをひと目だけ解いた。革が少し浮く。その隙間へ核片を差し入れる。幅はぴたりでした。やはりここでした。


「合いました」


 小さく言って、すぐに糸を通す。返し縫いを一つ、二つ、三つ。表から見れば以前と変わらない。むしろ、前より少し丁寧に整ったくらいです。


 縫い止めてから針入れを軽く押すと、革の内側に薄い張りが増えていた。知らない人が触れば、ただ古い革が少し固いだけに思うはずです。


「終わりました」


 ライナルトが受け取るように手を出しかけ、やめた。


「回収するときは」


「私が解きます」


「……ああ」


 それで一枚目。


 私は針入れを懐へ戻した。革越しに、紙の冷たさがうっすら伝わってくる。


 問題は残り二枚でした。


 ひとつはライナルトに持たせてもいい。けれど彼は目立つ。探されるなら先に探される側です。私が二枚持てば意味がない。どこかに置くなら、今夜中に見つからない場所でなければ困る。


 視線が止まったのは、壁際の古い帳面でした。


 背が割れかけ、表紙の角も潰れている。けれど捨てられてはいない。仕事場に置かれたまま、使われたり使われなかったりしていた本でした。


 私はそれを手に取った。


「これです」


「帳面か」


「帳面そのものじゃなくて、背です」


 表紙を開く。綴じ糸は緩み、背布がほつれている。ちょうど補修の途中に見せられる状態でした。ここなら一枚入る。しかも見つけるには、“本を開く”のではなく“背を剥がす”必要がある。急いで探す人は、そこまでしません。


「一枚はここへ入れます」  私は言った。


「補修しただけの本に見せます。探す人は中を見ても、背までは疑わない」


「時間は」


 私は帳面と糊壺を見比べた。


「三分」


 ライナルトが扉へ目をやる。


「二分だ」


「なら二分でやります」


 言いながら、私は糊壺の蓋を開けた。乾きかけた糊に指先で水を足す。刷毛はいりません。こういうときは指の方が早い。背布を慎重に浮かせ、紙芯と表紙のあいだへ核片を差し込む。


 入った瞬間、少しだけ帳面の背が伸びる。


 でも不自然ではありません。古い本は、補修を入れるとだいたいこんなふうに呼吸が変わる。私は布を戻し、糸で二か所だけ留めた。糊だけでは乾く前に浮くからです。最後に背を撫でると、補修したばかりの本の鈍い感触になった。


「終わりました」


 ライナルトが帳面を受け取り、閉じたり開いたりして確かめる。


「見えないな」


「見えるようなら失敗です」


 そう言ったところで、扉の外に気配が止まりました。


 二人とも動きを止める。


 取っ手が鳴る。


「開けろ」


 知らない男性の声でした。若くはない。命令を口に慣れた声です。


 ライナルトが私を見る。


 私は机の上の最後の一枚へ手を伸ばした。


 まだ隠していない。


「時間を稼いでください」  


 小声で言うと、彼はうなずいた。


「何をしている」  


 外からまた声がする。


 ライナルトは閂へ手をかけたが、開けない。


「点検だ」


「今、塔内の搬出物を確認している。中を見せろ」


 私は最後の一枚を持ったまま、室内を見回した。


 机の裏は浅い。  


 秤の下も駄目。  


 分銅箱は真っ先に開けられる。


 そのとき、小窓が目に入った。


 細く、外開きで、ほとんど使われていない窓です。石枠の隙間に、細く折った古紙が何枚も詰められている。風よけ。よくある仕事場の手抜きです。だからこそ、誰も気にしない。


 私は迷わずそこへ向かった。


 紙を一本だけ抜く。代わりに核片をそのまま差し込むのは危険でした。湿気を吸うし、紙質が違いすぎる。私は机の端の古紙を一枚取り、細長く折って包む。外見だけ、隙間風よけの紙に寄せる。それから石枠の奥へ差し込み、手前に元の古紙を戻した。


 見た目は変わらない。


 手前から見ると、ただの詰め紙でした。


 ちょうどそのとき、扉が大きく押された。


「開けろと言っている」


 ライナルトの声が低くなる。


「俺に二度言わせるな」


 一瞬、外が静かになった。  


 引くかと思ったが、今日はそうはいかなかった。


「確認命令だ。従え」


 まずい、と思ったとき、私は机の端に置いたままの偽の包みを見た。外側だけは元通りの、あれ。


 私はそれを抱え、わざと秤の脇へ落とした。薄板が乾いた音を立てる。


「すみません」  


 私は少し大きい声で言った。


「補修の途中で落としました」


 外の気配が変わる。


 “中で何かを扱っている”と思わせればいい。  そしてその“何か”が目につく場所にあれば、そちらへ目が向く。


 ライナルトはそこで初めて扉を開けた。


 入ってきたのは灰番らしい男性が二人でした。どちらも前掛けの裾に白い灰をつけている。けれど南壁側の灰ではありません。もっと乾いた白です。上の階の保管まわりを歩いていた人の灰でした。


 つまり、この二人は現場を知っている人間ではない。


「何だ、それは」  


 年若い方が床の包みを指す。


「継ぎ用の外紙だ」  


 ライナルトが答える。


「破れていたから、ここで留め直させた」


 男性はしゃがみ込み、包みを持ち上げた。軽さに違和感を持つかと思ったが、そこで手は止まらない。相手は中身を知りません。形だけ合っていれば通る。


「仮置庫へ戻す」


「勝手に触るな」 ライナルトが言う。


「命令だ」


 年長の方が室内を見回す。私はそこで、あえて机の上の帳面へ手を置いた。


「背が開いていたので、ついでに留めています」  


 言いながら、帳面を少し持ち上げて見せる。


「この部屋、湿気が入るので」


 男性は一瞥しただけで興味を失った。古い帳面の背など、急ぎの回収に関係ない。小窓も同じです。風よけの紙にまで意識を向ける人間はいません。


「ほかにはないな」


 私は肩をすくめた。 「計量室ですから」


 その言い方が効いたのか、二人はそれ以上探さなかった。


「行くぞ」


 偽の包みを持って出ていく。扉が閉まり、足音が遠ざかるまで、私たちは動かなかった。


 やがて気配が消える。


 私は息を吐いた。


「助かりました」


「まだだ」 ライナルトが言う。


「確認する」


 彼は部屋を一つずつ見た。  


 私の懐の針入れ。  

 机の上の帳面。  

 小窓の石枠。


 最後に私を見る。


「三つか」


「はい」


「言え」


 私は順に説明した。


「一枚目は針入れの返し縫いの中です。解く場所を知らないと取れません。

 二枚目は計量帳の背。補修しただけに見えます。

 三枚目は小窓の風よけの中。紙があること自体は不自然じゃありません」


 ライナルトは少し黙ってから言った。


「悪くない」


 それが彼なりの最大限なのは、もう分かっていました。


 でも、私はそこで終わらせなかった。


「ただ」 私は小窓を見た。


「三枚目だけは、ここに長く置きたくありません」


「なぜだ」


「風よけは、替える人がいるからです」


 彼は黙る。


「帳面は放っておかれます。針入れは私が持つ。でも窓の紙は、掃除のついでに抜かれるかもしれない。今夜はたぶん大丈夫です。けど、明日には危ない」


「なら移すか」


「はい、できれば夜明け前に移動させたいです」私は言った。


 ライナルトが顎を引く。


「どこへ」


 私は計量室の秤を見た。鉄の皿、支柱、目盛。長く使われていないせいで、支柱の根元に布が巻かれています。揺れ止めのための古い布でした。


「次はあれです」


「秤か」


「根元の布の中なら、見た目が変わりません」 私は答えた。


「今すぐやると、さっきの二人が戻ってきたときに位置の変化を見られるかもしれない。だから夜明け前です」


 少し考えてから、ライナルトが言う。


「最初からそこに入れろ」


「いま思いついたんです」


 そう言うと、彼はほんのわずかに口元を緩めた気がした。


「最初からそう言え」


「いま決めたことを、どうやって最初から言うんですか」


 今夜のうちに三枚を集めることは、たぶんできない。誰かが仮置庫四の中身を探しても、見つかるのは外側だけです。


 私は針入れを懐へ戻した。革越しに、ごく薄い冷たさが伝わる。


「行きましょうか」


「ああ」


 ライナルトが扉を開ける。


 出る前に、私は一度だけ部屋を振り返った。背を直しただけの古い帳面。窓の隙間の古紙。何の変哲もない秤。どれも、ただそこにあるだけに見える。


 廊下へ出ると、塔の奥でまた鐘が鳴った。さっきより遠い音です。回収役たちは、たぶん偽の包みを運んでいる。中身がないと気づくのは、もう少し先でしょう。


 その少し先まで持てば十分でした。


 私は前を行く背に、声を落として言った。


「ライナルト」


「何だ」


「今夜は、もう揃えさせません」


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