第二十八話 ー 南塔仮置庫・四
南塔は、外から見るより騒がしかった。
鐘室を出て回廊を抜けるあいだにも、何人もの作業員とすれ違った。皆、灰のついた前掛けを腰に巻き、急ぎ足で塔へ向かっている。顔つきに余裕がない。誰かが命じて動いているというより、決まった手順に従っている動きでした。
階段下の踊り場で、二人の男が大きな鉄箱を運んでいた。箱の側面には赤い札が下がっている。
――仮置庫 四
見た瞬間、私は足を止めた。
「違います」
ライナルトがこちらを見た。
「何がだ」
「あれは見せ札です」
自分でも、声が早かったと思う。
でも手がそう言っていた。
私は鉄箱の脇へ寄った。運んでいる男たちが嫌そうな顔をする。けれど構わず札を見る。木札は新しい。穴の縁に擦れがない。紐だけ古いものを使っている。急いで付け替えた札です。
「保管されていた札じゃありません。字も乾き切っていないですし、箱は深すぎます」
私は箱の形を見た。
「平たいものを寝かせる箱じゃない。重さも変です」
男たちの一人が舌打ちした。
「どけ。緊急搬出だ」
その言い方で、確信した。
緊急搬出。つまり、南壁の異音に合わせて仮置庫四の中身を動かす手順が、本当にある。
そして今運ばれているこれは、その手順を利用した目くらましです。
私は振り返った。
「本命は別です」
ライナルトは一度だけうなずいた。
「どこだ」
私は周囲を見た。鉄箱。階段。人の流れ。開いたままの戸口。壁際に積まれた灰袋。そこまでは普通でした。
ただ、ひとつだけ合わないものがある。
塔の内側、荷上げ用の縦穴の前に、細い巻上げ機が据えられていました。作業員が一人、背を向けて綱を送っている。足元には灰をかぶった布包みがひとつ。箱ではなく、包み。しかも平たい。
「ライナルト」
私は小さく呼んだ。
「あっちです」
彼はもう動いていた。
縦穴の前へ踏み込むと、綱を扱っていた男がこちらを振り返る。その左手だけが黒手袋でした。
右手の男性です。
男は驚かなかった。
むしろ、来るのが少し早かったという顔をした。
「離せ」 ライナルトが言う。
男は答えず、綱を一気に放した。
包みが縦穴へ落ちる。
考えるより先に、私は走っていた。巻上げ機の歯車へ手を伸ばす。素手では無理です。熱いし、指が巻き込まれる。腰の革袋に触れて、そこでようやく思い出した。
針入れ。
南外荷宿で受け取った、あの灰色の革の針入れでした。
紐を引き抜き、細い留め針を一本つかむ。ためらっている暇はありません。歯車と留め具のあいだへ、斜めに差し込んだ。
ぎ、と鈍い音がした。
巻上げ機が半ばで止まる。
落ちかけた包みが、縦穴の途中で引っかかった。
その瞬間、右手の男性が私の方へ腕を伸ばした。針を抜かれる、と思った。けれどその前に、ライナルトが男の手首を払う。乾いた音が響く。男は一歩下がり、その隙に私は綱を抱え込んだ。
重い。
でも、落とせなかった。
「上げます!」 私が言うと、ライナルトはすぐ反対側の綱を取った。
二人で引く。包みが少しずつ戻ってくる。縦穴の下から、どこかで誰かが叫ぶ声がした。もう少しで届く。そう思ったとき、男が足元の灰袋を蹴り倒した。
灰が舞う。
視界が白くなる。
咳き込みそうになるのをこらえた一瞬で、男の姿は消えていました。逃げたのだと分かったけれど、追えない。今は包みの方が先です。
綱が重みを失い、私は床へ引き上げられた布包みを抱えた。
薄い。けれど中身はしっかりしている。板ではない。何枚も重なったものが、ずれないよう固く巻かれている。
ライナルトが灰の向こうを一度だけ見やり、それから言った。
「先に開ける」
私はうなずいた。
仮置庫四の戸口は半開きになっていた。中へ入ると、棚は思ったより空いている。箱も袋も少ない。もともと大きな倉ではなく、出し入れのための控え場所だったのでしょう。
石台の上へ包みを置き、結び目を解く。
外側は油布、その下に灰布、さらに中から薄板が出た。保護の板です。それを外すと、ようやく中身が見えた。
紙でした。
ただの紙ではありません。薄く処理した層紙が、順番を守って重ねられている。端ごとに細い印が振ってある。製本の折丁に少し似ていました。けれどこれは読むための並びではない。差し込む順番を示すための並びです。
私は一番上の紙をめくった。
端に、墨で記号がある。
”外縁第二節”
私は息を止めた。
「南壁じゃない……」
思わず声が漏れる。
さっきまでの騒ぎは南壁でした。鐘室の札も、南壁異音三打となっていた。だから仮置庫四から出るのは、南壁第三継の予備片だと思っていた。
でも違う。
ここに入っていたのは、外縁第二節。
別の箇所のための予備片です。
「誘導されたんですね」 私は言った。
「南壁を鳴らして、別の片を動かそうとした」
「……ああ」
ライナルトは包みの底を見ていた。
そこに、もう一枚だけ薄い札が挟まっている。
私が取り上げる。
札には二列だけ、短く書いてありました。
”異音三打時
第二節予備片を先行移送”
下の欄に、古い墨で署名がある。
”L.K.
V.W.”
私はそれを見たまま、動けなかった。
ライナルト・クロイツ。
ヴェラ・ヴェルナー。
同じ札に、二人の頭文字が並んでいる。
十年前、この手順を作った側に、二人ともいたということです。
「……最初から一緒だったんですか」
聞いた声は、自分でも驚くほど静かでした。
ライナルトはすぐには答えなかった。
代わりに、仮置庫の空いた棚を一段ずつ見ていく。確認しているのは中身ではなく、抜かれた跡でした。
「協力した」 やがて彼は言った。 「その一度だけだ」
短い返事でした。
でも、その一言で十分だった。
私は札を持ったまま、棚を見た。
空いている段が三つある。包みは私たちが取り返したひとつだけ。つまり、動かそうとしたものはこれだけではない。
「もう来てたんですね」 「ああ」
「今夜の狙いは、南壁じゃない」 「違う」
ではどこか。
私は手元の層紙をもう一枚めくった。二枚目の端には、赤い点が打ってある。三枚目には、灰色の線。区別のための印です。順番ではなく、配置先の違いを示しているらしい。
四枚目を引いたとき、下から薄い帳面が滑り落ちた。
小さな保管帳でした。 頁はわずかしかない。けれど最後の頁だけ、新しい墨で一行だけ書き足されている。
”――第四保管、空。以後、鐘手順を用いず。”
私はその意味を考えた。
用いず。つまり今回限りだ。
緊急手順で仮置庫四を空にし、その後は同じ方法を使わない。痕跡を残さないために。
「終わらせるつもりです」
私が言うと、ライナルトがこちらを見た。
「何を」
「移送です。今夜で」
そのとき、塔の外で鐘が鳴った。
壁の異音を知らせる細い鈴ではありません。もっと大きい、塔の鐘です。搬出完了か、あるいは経路変更の合図。どちらにしても、次の手がもう動いている。
けれど、この話の結末は決まっていました。
少なくとも仮置庫四から持ち出されるはずだった一つは、ここにある。
私は包みを抱え直した。
「これは渡せません」
ライナルトが、ごくわずかに顎を引く。
「ああ」
その返事の直後、彼は仮置庫の扉を閉めた。内側の閂を落とす。追手が来ても、少しは持つ。
「運ぶぞ」
「どこへ」
「ここより知られていない場所だ」
私は札と保管帳を懐へ入れ、包みを持ち上げた。
重さは本一冊ぶんより軽い。でも中身の価値は、それよりずっと重い気がした。
仮置庫四の中身を奪われる。
その“事件”は、いまここで終わりました。
奪われるはずだったものは、こちらの手にある。
ただし同時に、別のこともはっきりした。
南壁の異音も、鐘室の札も、全部が囮だったのではない。
十年前にライナルトとヴェラが作った手順を、今の誰かが正確になぞって使っている。
つまり敵は、外から入り込んだだけの相手ではありません。
この仕組みを知っている側にいる。
私は包みを抱えたまま、ライナルトを見た。
「十年前の続きを知っている人が、まだいるんですね」
彼は少しだけ目を細めた。
「いる」
そして続ける。 「だから、今夜ここまで来た」
それは説明ではなく、確認の声でした。
外で二度目の鐘が鳴る。
私はもう迷わなかった。
包みを抱え、ライナルトのあとを追って、仮置庫四の裏口へ向かった。




