第二十七話 ー 鐘室
南壁の向こうから届いた低い音は、風の唸りではなかった。
あれはもっと規則的で、長く、短く、間を置いてもう一度なり続けていた。まるでどこかで、金属が順番を守って震えているみたいだった。
私は階段を下りかけた足を止めた。
「……今の」
「鈴だ」
ライナルトが言った。
作業場の方から鳴っていた警鈴とは違う。もっと奥からだった。壁の内側を伝って、音が細く伸びてくる。
年配の作業員が下から怒鳴った。
「継ぎ目から離れな! まだ鳴くよ!」
けれどライナルトは、継ぎ目ではなく反対側を見ていた。階段の脇、灰に汚れた石の壁。何もないように見える場所へ、彼はまっすぐ歩いていく。
「どこ行くんですか」
「…」
彼は壁の継ぎ目を一度だけ指でなぞった。それから、石の角を強く押す。鈍い音がして、壁の一部が数寸だけ沈んだ。
そこにあるのは扉だった。
その隙間は、人ひとりがやっと横向きに入れる幅しかない。中は暗い。けれど、さらに奥で、さっきの音が続いていました。
「知ってたんですか」
私が言うと、ライナルトは一拍置いてから答えた。
「昔の造りだ」
それだけで、先に入る。
私はその背を追った。
中は、壁の厚みそのものでした。石の間をくり抜いた細い通路。足元には灰が薄く積もり、踏むたび乾いた音がした。継ぎ目の赤い光はここまでは来ていない。代わりに、右の壁に沿って細い銅線が何本も這っていました。線というより、綴じ糸に似ています。等間隔に小さな金具で留められ、先へ先へと続いている。
私は思わず立ち止まった。
「これ……」
「音を拾う線だ」
ライナルトが言う。
「継ぎ目が鳴ると、奥で鈴が鳴る」
さっきの音の正体は、壁の異変を知らせる仕掛けだ。
通路はやがて左へ折れ、小さな部屋へ出た。部屋といっても、倉庫ほどの広さもありません。石の机がひとつ、壁際に鈴が三つ。どれも指ほどの細い銅の舌を持ち、いまも震えの余韻で小さく揺れている。
鐘室でした。
そして、誰もいない。
私は違和感を覚えた。
逃げた右手の男性は、確かにこちらへ来たはず。なのに、通路はひとつしかなかった。部屋の中に人影はない。逃げ道があるなら、目につくはずだ。
そのかわり、机の上に紙束が置かれていた。
いかにも「見つけてくれ」と言わんばかりの位置に。
ライナルトが近づきかける。私は反射的にその袖をつかんだ。
「待ってください」
自分でも驚くほど強い声が出た。
彼がこちらを見る。
「どうした」
「置き方が変です」
私は机を見たまま言った。 「壁の中の保管なら、紙束をそのまま机に出しません。灰もかぶっていないし、端もそろいすぎています」
近づいて、ようやく分った。束の上の紙だけが古く、下は新しい。古く見せるために灰を擦りつけただけだった。しかも端に熱の食い方がない。さっき継ぎ目から抜かれた紙とは別物だ。
「偽物です」
「……ああ」
ライナルトはそれ以上触れず、代わりに机の下へ目をやった。そこに、小さな引き出しが半分だけ開いている。
誰かが急いで中を抜いたあとだった
残っていたのは、一枚の薄い札だけ。
私はそれを取り上げた。
札は紙ではなく、薄く削った木に処理を施したもので、片面に墨、もう片面に赤い印がある。文字は簡潔だった。
”南壁異音 三打
予備片搬出
仮置庫四より”
私は声を失った。
壁の異音。三打。予備片搬出。
頭の中で、いくつかの点が一度に結びつきました。
南壁が鳴る。
鐘室がそれを拾う。
規定の回数に達すると、南塔仮置庫四から何かが運び出される。
「……狙いは壁じゃない」
気づけば、口に出していました。
ライナルトは札を見たまま言う。
「そうだ」
「さっきの男性は、壁を壊したかったんじゃない」
私は続けた。
「鳴らしたかったんですね。異音の回数を足して、予備片を動かさせるために」
「その可能性が高い」
部屋の空気が急に冷えた気がしました。
私たちはずっと、白紙本が壁の中にあるものとして追ってきた。それは間違いではなかったはず。けれど、壁に入っていたのは全部ではない。継ぎ目を保たせるための一部、あるいはそれに連なるもの。
では「予備片」とは何か。
南塔仮置庫四に、まだ別の片割れがあるのか。
机の奥に、もうひとつ見えるものがありました。薄い帳面です。表紙は煤けているのに、背の革だけ妙に新しい。誰かが綴じ直している。
私はそれを開いた。
記録は多くありません。異音の日時と回数、搬出の有無。その下に、十年前の頁だけ、別の手で書き込みがあった。
”――南壁第三継、開放後再定着。
――立会補佐、L.K.”
私はその二文字から目を離せなかった。
L.K.
ライナルト・クロイツ。
「……これ」
言いかけて、喉が詰まる。
ライナルトは帳面をのぞき込まなかった。
読まなくても分かっている顔でした。
「十年前」
私は言った。
「閉じる場にいた、じゃなくて」
彼は少しだけ目を伏せる。
「閉じた側ですね」
沈黙がありました。
鈴の余韻だけが、かすかに震えている。
「そうだ」
彼は言った。
私は帳面を閉じた。責めたいわけではなかった。まだ責めるだけのことを知っていない。ただ、ここで何が行われていたのかが、一段だけ深くなった。
そのとき、壁際の一番小さな鈴が、ちり、と鳴った。
さっきまでの余韻とは違う。新しい振れです。
私は反射的に振り向く。
鈴の下、銅線の根元に、小さな紙片が差し込まれていました。細く切った処理紙に、たった一行だけ書かれている。
”――四は空になる”
私はそれを抜いた。
紙はまだ温かい。つまり、あの男性が残していったものです。
「宣言ですか」
自分でも嫌になるくらい、声が固かった。
「いや」 ライナルトが言う。
「時刻表だ」
私は顔を上げた。
「もう動いてる」
彼は続ける。
「予備片の搬出が始まってる」
鐘室に偽物の紙束を置いたのは、私たちをここで足止めするため。異音の仕組みと十年前の記録に気づかせ、立ち止まらせるためだった。
追跡ではなく、誘導。
そのことに気づいた瞬間、背中が冷たくなりました。
相手は逃げているんじゃない。こちらが何を見て、どこで足を止めるかまで見込んで動いている。
ライナルトはもう部屋を出ていた。
「行くぞ」
「南塔ですか」
「ああ」
私は帳面を抱え、あとに続いた。狭い通路を戻りながら、さっきの一文だけが頭の中で何度も反響する。
四は空になる。
もし仮置庫四にあるのが白紙本の予備片なら、それを持ち出されれば、壁の継ぎ目だけの話では済まない。南壁の補修が遅れる、という程度のことではないはずです。
国の内側を決めるものが、動かされる。
それが意味することを、私はまだ正確には知らない。けれど、ひとつだけ分かることがありました。
今夜、何かが起きる。
しかもそれは、十年前の続きとして起きる。
壁の外へ出る直前、私は前を行く背に向かって言った。
「ライナルト」
彼は振り向かない。
「十年前のこと、あとで全部聞きます」
数歩ぶんの沈黙があって、ようやく返事が来た。
「……ああ」
短い声でした。
でも、その一度は、逃げるための声ではなかった。




