第二十六話 ー 灰架口
川端の細道は、朝の水気で石が黒かった。
前を行く背に遅れまいとして、私は裾を持ち上げた。
荷洗いの樋を抜けてから、もう二度曲がっている。人の通る道というより、壁の裏を縫う通路でした。水の音が遠のくにつれて、代わりに乾いた匂いが強くなる。灰です。濡れた石に、焦げた粉がうすく乗っている。
「近い」
ライナルトさんが言った。
その先に、城の南壁へ口を開けた低い石門が見えました。門というより、壁の下に穿たれた仕事口でした。半円の内側だけが灰色に曇っている。上の石に、古い擦れ跡が幾筋も残っていた。
灰架口だ。
門の手前で、荷車が一台ひっくり返っていた。袋がひとつ破れて、灰が地面に薄く流れている。誰かが急いで離れた跡でした。足跡が二つ、門の中へ消えている。片方は底の広い仕事靴、もう片方は爪先の細い革靴。後者の歩幅が不自然に長い。
私は足を止めた。
「あの男性です。右手だけ、動きがはっきりしています」
ライナルトさんはうなずくだけで、中へ入った。
石門の内側はすぐに暗くなった。けれど、奥で火が揺れている。人の声もした。
「また鳴ったぞ」
「南の継ぎ目か」
「今朝で三度目だ。灰を持て、灰を」
私は思わず顔を上げた。
鳴る。継ぎ目。灰。
奥へ進むと、壁沿いの狭い作業場に出た。石台が二つ、鉄鍋が一つ。鍋の中で灰色の糊がゆっくり泡を立てている。二人の作業員が壁際でしゃがみ込み、継ぎ目へへらを差し入れていた。こちらを見ても、誰も声をかけてこない。
南壁の内側だった。
私は壁へ近づいた。石と石のあいだに、灰色の筋が一本、長く走っている。ところどころ剥がれ、その下から白いものがのぞいていた。石ではありません。布でもない。紙でした。
「紙……?」
思わず口から出る。
しゃがんでいた年配の作業員が、へらを止めた。
「触るな」
低い声でした。
「浮いてるところに手を入れると、熱を返す」
その言い方が、ただの脅しには聞こえなかった。
私は手を引き、代わりに目を寄せた。白い層は一枚ではない。薄く抄いた紙を何枚も重ね、灰を混ぜた糊で石に抱かせている。その上からさらに封をしていた。綴じに近い。壁を積むというより、裂け目を“綴じて”いました。
ライナルトさんが隣へ来る。
「見えるか」
「はい」
私は声をひそめた。
「紙の端が焼けています。あとから差し込んだ層です。石の継ぎ目じゃなくて、その内側を留めています」
年配の作業員が、そこで初めてこちらを見た。
顔半分に灰がついている。
「分かるのかい」
「製本をしています」
私は答えた。
「紙の重なり方が、本の補修と似ています」
作業員は変な顔をしたが、否定はしなかった。
その代わり、壁の端を顎でしゃくる。
「あっちを見な。さっき潜った男が、そこをいじった」
その一言で十分でした。
触られた場所だと分かって、私は走った。
継ぎ目の先、壁の陰になった狭い場所に石蓋の外れた細長い槽がある。灰を入れておく場らしい。脇の床に黒い革の擦り跡が残っていた。さらに、紙片が一枚、灰に半分埋まっている。
拾うと、熱で端が縮れていた。
墨はほとんど飛んでいたけれど、二行だけ読めた。
南壁第三継
再定――
そこから先は焼けている。
「継ぎ目の再定着、でしょうか」
私は言った。
「……だろうな」
ライナルトさんが答える。
背後で、金具の跳ねる音がした。振り返ると、通路の奥、壁沿いの階段を右手の男性が駆け上がっていくところだった。左手の黒手袋だけが、火の色を鈍く返す。
「上です」
私は走り出しかけて、足を止めた。
通路が狭い。前の背に声を届かせるだけで息が詰まりそうだった。
「ライナルトさん」
「長い」
振り向かないまま、彼が言った。
一瞬、意味が分からなかった。
けれど次の言葉は短かった。
「ライナルトでいい」
こんな場所で、と思った。
でも彼はもう階段へ足をかけている。
私は息を吸い直した。
「……ライナルト」
私たちは階段を上った。
踊り場を折れたところで、右手の男性の背が見える。壁の鉄扉に手を掛け、何かを引き抜こうとしていた。
「離せ」
ライナルトが言う。
男性は振り返った。
「もう遅い」
そう言って、男は扉の脇から細い紙束を抜いた。次の瞬間、扉の継ぎ目が赤く光る。
「下がれ!」
ライナルトが腕を伸ばした。
火ではありませんでした。
熱だけが、音もなくふくらんだ。
男はとっさに身を引いたが、紙束の端が一気に焦げる。手を放した束が床に散った。
私は一枚だけ拾った。
紙というより、処理された薄膜でした。普通の帳面には使いません。繊維の間に灰が入り、表面にごく細い線が走っている。魔力を通す紙に近い作りでした。
そこに残っていた文字は、半分だけでした。
”外縁
内側を――”
胸の奥が、ひやりとしました。
外縁。
内側。
壁の修繕記録にしては、言葉が大きすぎる。
何を内側とするか、その線引きに関わる文に見えた。
男は散った紙をもう一枚掴みかけた。そこへライナルトが踏み込み、手首を払う。紙が宙へ舞う。男は舌打ちして身を沈め、今度は扉ではなく、壁のさらに狭い隙間へ滑り込んだ。
「待て!」
私は叫んだ。
けれど追えない。人一人がようやく通る幅に、灰が崩れて落ちている。無理に入れば継ぎ目を壊してしまう。
ライナルトはすぐに追うのをやめた。
代わりに、扉の脇へ手を当てる。顔が少しだけ険しくなる。
「どうしました」
「継ぎ目が薄い。支えの層が一枚抜かれてる」
私は床に散った紙を集めた。全部で四片。つながるところは少ない。それでも、同じ手で切られたことだけは分かる。仕事で紙を切る人じゃないと、こんな切り方はできないはずだ。
そのとき、下で鈴が鳴った。
短く二度。
さっきまで壁際にいた年配の作業員が、階下から怒鳴る。
「南継ぎ目、また鳴るぞ!」
鳴る、という言葉の意味が、今度は分かりました。
石の奥で、継ぎ目どうしが擦れるみたいな震えだった。私は思わず扉の継ぎ目を見た。
赤い筋が一本、ゆっくり浮いた。
「ライナルト」
呼ぶと、彼はすぐこちらを見た。
もう“さん”はつけなかった。
「この紙、補修じゃありません。継ぎ目を埋めてるのではなく、境目そのものを留めてます」
彼の目が細くなる。
下から年配の作業員が駆け上がってきた。
へらを片手に、息を切らしながらも足は止まらない。
「離れな! そこは十年前の差し替えだよ」
私は顔を上げた。
「十年前?」
「そうさ。南壁はあの年に一度、腹を開けたんだ」
作業員は扉の継ぎ目へ灰糊を押し込みながら言った。
「詳しいことは知らないよ。けど、あれ以来だ。継ぎ目が鳴るのは決まって同じところだ」
十年前。
政権が変わった年と、ほとんど重なる。
私は手の中の紙片を見た。
外縁。内側。再定――。
どれも、壁の修理には過ぎた言葉でした。
「白紙本を、使ったんでしょうか」
口に出すつもりはなかったのに、出ていた。
作業員は私を見たが、すぐには答えなかった。
代わりに、灰にまみれた指で継ぎ目を強く押さえる。
「本の名は知らない」
そう言って、彼は低く続けた。
「でも、ただの封なら、十年も経ってから鳴きゃしないよ」
下でまた鈴が鳴る。
今度は長い。作業場全体が慌ただしく動き出した。
ライナルトが散った紙片のうち二枚を拾い、私に残りを渡した。
「行くぞ」
「どこへ」
「継ぎ目の先だ」
私は紙片を懐へ入れた。
南へ戻された平たい包みは、どこかに保管されていたのではなかった。
壁の中へ使われていた。
白紙本は、隠されていたのではない。
国の境目に、差し込まれていたのだ。
階段を下りる途中で、南壁の向こうから、風ではない低い音がひとつ届いた。
まるで、長く閉じていた綴じ目が、内側から指で押し返されたみたいでした。




