第二十五話 ー 北回り第一継ぎ場
北回り第一継ぎ場に着く前から、声がしていた。
馬のいななきに混じって、短い言い争いが何度も返る。川沿いの道を折れたところで、私は足を止めかけた。柵の向こうでは荷車が一台、半分だけ積まれたまま止まっている。藁束を抱えた若い男性が荷台の脇で動けず、別の男性は車輪のそばでしゃがんだままだった。
「札がないなら載せられない」
「さっき見たって言っただろ」
「見たじゃ済まないんだよ」
ライナルトさんは、その声のほうを一度見ただけで言った。
「今だ」
「入るんですか」
「ああ」
柵の切れ目から中へ入る。誰かに止められる前に、荷台の陰へ回った。そこで私はしゃがみ込んだ。泥の上に、細い革紐が落ちていた。端に木片のささくれが残っている。拾うと、穴が三つ並んでいた。南外荷宿でもらった木片と同じ並びだった。
「ライナルトさん」
呼んだとき、荷台の向こうで木がぶつかる音がした。続けて、短い舌打ち。
回り込むと、荷台と柵のあいだの狭いところに一人の男性がいた。左手には黒い手袋、右手はむき出し。こちらに気づくなり立ち上がる。その拍子に、足元から木札が一枚はねた。
ライナルトさんが肩をつかむ。
男性は体をひねって逃れ、車輪を蹴って横へ抜けた。
「待て」
「待つかよ」
低い声を残し、男性は柵を越えた。追うには一歩遅い。けれど、そのとき踏み割られた木札の半分がこちら側へ落ちた。
私はそれを拾った。
”南戻し
灰――”
そこから先は割れて消えていた。
「持ってろ」
ライナルトさんが言った。
「はい」
懐へしまったところで、背後から鋭い声が飛んだ。
「勝手に荷の裏へ入るんじゃないよ」
振り向くと、荷台の脇で革帯を締めていた荷方の女性がこちらを見ていた。袖をまくった腕に、煤と荷脂が筋になっている。さっき表で止まっていたのは、この人たちの手だった。
「すみません」
私は言った。
「ただ、これが落ちていました」
折れた木札を出すと、女性の目が変わった。
「……それかい」
「ご存じなんですか」
「朝から荷が止まってるのは、それを探されたせいさ」
私は木札を見た。
女性は荷台のほうを振り返り、低い声で続けた。
「夜明け前に、今の男が来たんだよ。南へ回した分の控えがないって騒いでね。こっちが帳面を見てるあいだに、勝手に裏へ潜ったせいで、積み替えが止まったわ」
ようやく、さっきからの騒ぎの形が見えた。
あの男性は最初から、この札を探しに来ていたのだ。
「その札を見ると、あの朝を思い出すね」
女性はそう言って、荷台の側板に手を置いた。目は今の荷台ではなく、別の朝を見ているようだった。
「昔の話さ」
女性は言った。
「北便が出る前、この荷台に小さい子が一人だけ座った」
私は息を止めた。
「一人だけ、ですか」
「そうさ。藁は最初から一つ分だ。二人乗せるつもりなら、敷き方が違うからね」
「もう一人いたんですね」
女性は車寄せの端を顎で示した。
「いたよ。杭のそばで待ってた。頭から布をかぶって、背丈は乗った子とそう変わらない。一緒に来てた年上の女が、最初にはっきり言ったんだ。『その子は入れないでください』って」
ライナルトさんが短く言った。
「分けたか」
「そうだよ」
女性はうなずいた。
「並べちまえば、その場で受け渡しが済んだ形になる。誰がどちらを引き受けたかまで、あとで好きに言われる。あの女は、その状況を作りたくなかったんだろう」
ヴェラだった。
私は懐の木札を押さえた。
北へ出した子と、南へ戻した荷。
あの朝に分けられた二つの痕が、いま手の中にある。
そのとき、荷方の女性の視線が、そこで初めて私のもう片方の手へ移った。
私はまだ針入れを握ったままだった。
「……それ、あの朝に座った子が持ってた針入れだよ」
私は思わず手元を見た。
「ご存じなんですか」
「忘れるもんかね」
荷方の女性は言った。
「渡したとき、あの子は泣きも騒ぎもしなかった。けど、革でも飾りでもなく、留め紐の返し縫いに先に目を止めた。あんなところを気にする子は、そういないよ」
私は針入れを握り直した。
札が先にあって、その札が朝の記憶を呼び、記憶の中にこの針入れがある。
ようやく順番がつながった。
「……それで、話してくださったのですね」
女性は私を見た。
「札だけ追ってる手合いには話さないよ」
そう言ってから、少しだけ声を落とした。
「あの年上の女に言われてたんだ。もし戻ってくる子がいたら、それはその子に返せって。ほかの人間には見せるなともね」
私は顔を上げた。
「戻ってくる子」
「来ないと思ってたよ」
荷方の女性は少しだけ苦く笑った。
「でもね、あんたがその子と同じ目をしてたから、話してもいいかと思った。ただの勘だけどさ」
女性は荷台の内側の継ぎ目に指を入れ、薄い板切れを引き抜いた。仮止めの控え札らしく、墨が半分流れている。
残っていた字は二つだけだった。
”灰架口
返送”
私はその文字を見たまま、声が出なかった。
「これも、あの朝のあとさ」
女性は言った。
「子どもを北へ出したあと、あの年上の女は、人は乗せずに平たい包みを一つだけ持ってきた。それを南へ戻す車に載せたんだ」
「乗らなかったのか」
ライナルトさんが言う。
「乗らなかったよ」
女性は答えた。
「包みを載せて、車輪が回るのを見届けただけだ。そのあとで、杭のそばにいたもう一人の子を、一度だけ見た」
継ぎ場の入口のほうで、急に怒鳴り声が上がった。
「いたぞ!」
追ってくる側の声だった。
さっき逃げた右手の男性が、別の口から回り込んできたのかもしれない。
ライナルトさんの目が細くなる。
「来る」
荷方の女性はすぐに川のほうを指した。
「荷洗いの樋の下を抜けな。馬じゃ入れないよ」
「助かります」
「礼はいらないよ」
女性は荷帯を引いて締め直した。
「あたしは、預かったものを返しただけさ」
私は針入れを懐へ戻した。
折れた札。灰架口。返送。
北へ出した朝に、南へ戻したものがある。
「イリス」
ライナルトさんが言った。
「はい」
「南へ戻る」
「はい」
もう迷わなかった。
私が出された道と、白紙本が戻された道は、ここで分かれている。
なら、次に追うのは戻されたほうだ。
私たちは荷洗いの樋の下へ身をかがめ、そのまま川端の細道へ抜けた。




