第二十四話 ー 南外荷宿
南外荷宿は、宿というより荷の影でした。
軒先に吊られた木札が、風もないのにわずかに揺れている。札の穴が三つ並んでいて、私は足を止めた。ライナルトが持っている急札の穴と、同じ並びだった。
「ここです」
私が言うと、ライナルトは頷きもせず戸を押した。
中では、帳場の女性が油皿の芯を摘んでいた。火が細くなる。こちらを見たあと、女性の視線はまっすぐ私ではなく、ライナルトの手の札へ落ちた。
「まだ残っていたのかい、それ」
「残したのはそっちだろ」
ライナルトが札を台に置いた。
女性はすぐには触らなかった。指先だけを寄せて、穴の位置を見た。それから、眉のあいだに小さな皺を寄せた。
「南仕事口を通ったね」
「話が早くて助かります」
私は言った。
「この札で受けるはずだった人の記録を見せてください」
「見せる義理はないよ」
「では、切った人の名だけでも」
「それもない」
ライナルトが台の端を指で叩いた。乾いた音がひとつ鳴っただけなのに、女性は肩をすくめた。
「……長居する客じゃないね、あんたら」
「客じゃない」
ライナルトが言った。
「追ってる」
その一言で、女性はようやく札を取った。裏返し、表に戻し、また裏返した。
「これは急ぎの一人便だ。寝床を取るための札じゃない。門を越えたあと、どの荷宿で受けるかを決める札だよ」
「受けるのは、ノラですか」
私は訊いた。
女性の目が上がった。
「その名をどこで知った」
「南仕事口の控えです」
「なら半分だけ聞いたわけだ」
女性は帳場の後ろを向き、壁の小さな引き出しを抜いた。中から薄い板切れを一枚出す。墨で、NORA とだけ書いてある。人名に見えて、どこか札の記号じみていた。
「名じゃないよ。仮印だ」
女性は板を指で弾いた。
「ほんとの名を書けない受け荷に付ける」
私は板を見たまま、息を止めた。
「子どもにも、ですか」
「子どもにこそ、だね」
ライナルトが短く言った。
「帳面」
女性は嫌そうに鼻を鳴らしたが、今度は断らなかった。帳場の下から紐綴じの薄帳を抜き、ページを繰る。途中で手が止まる。
「これだ」
彼女性が帳面を押し出した。墨が滲んだ行が一本、ほかより深く沈んでいる。
――グラウハイム便 見習い一名
――綴じ手 優先
――席 一
――同行 無
――受取仮印 NORA
私は「同行 無」のところで指を止めた。
「一人で出したんですね」
女性は私の指先を見た。
「門までは二人いたよ」
ライナルトの視線が細くなる。
「どっちだ」
「あの女性と、子どもだ」
ヴェラだ、と口に出すまでもなかった。
「でも、ここで座らせたのは一つだけだった」
女性は帳面を閉じかけて、やめた。
「そういう頼みだったからね」
「頼み?」
私が聞き返す。
女性はしばらく黙っていた。外で荷車の軋む音がした。夜明け前の音でした。
「“迎えを入れるな”ってさ」
私は顔を上げた。
女性は帳場の端を指でなぞった。長く使われた木が、その指の下だけ白く擦れている。
「普通はね、初手の受け荷には相手が付く。誰が引き受けるか、どっちへ渡すか、そこで揉めるからだよ。けどあの女性は、それを嫌った。席は一つ。見るのも一人。受けは仮印でいい、そう言った」
ライナルトが言った。
「通したのか」
「通したよ。あの顔で、金じゃなく穴を見せてきたからね」
「穴?」
私は札を見た。三つの穴。南仕事口でも、ここでも、みなそこを見ていた。
女性は私の手元を指した。
「札の穴の位置は、作り直しが利かない。書き換えはできても、穿ち直しは目立つ。だから、あたしたちは字より先にそっちを見る」
私は札を受け取って、裏から光に透かした。穴の縁だけ、ほかより毛羽立ちが少ない。最初から一人便として切られた札だった。
ヴェラは最初から、席を一つしか用意していなかった。
「その子は」
私はなるべく平らに聞いた。
「ここで、誰に渡されましたか」
女性は首を振った。
「渡してないよ。受けはここじゃない」
「違うのですか」
「ここは札を合わせるだけだ。朝便が出る前に、もう一度荷を寄せる場所がある」
ライナルトが即座に言った。
「どこだ」
女性は帳面のあいだに挟んでいた細い紙を抜き取った。端が折れて、黒い指跡が付いている。
「残ってたのはこれだけだよ。ほんとは車方へ回す控えだ」
私は紙を受け取った。たった一行だった。
”北回り第一継ぎ場”
その下に、小さく追記がある。
針入 一
「針入……」
思わず口に出る。女性が私を見た。
「あの女性が最後に置いてった」
彼女性は言った。
「受ける子が戻ったら、これも渡せってね。戻るわけないと思って、しまい込んでた」
帳場のさらに奥から、小さな包みが出てきた。灰色の布を二度だけ折ったものだった。私は受け取って、結び目をほどく。
中にあったのは、革の針入れだった。
細い、使い古しの品だった。飾りはない。ただ、留め紐の際だけ、縫い目がひとつだけ逆に返っている。私はそこに触れた。指が覚えている返しだった。うまく締まらない糸を、無理に留めたときの癖だ。
「どうした」
ライナルトが言う。
「……いえ」
そう答えた声が、少し遅れた。
女性は何も言わなかった。ただ、私の指が針入れから離れないのを見ていた。
「その子は泣かなかったよ」
不意に女性が言った。
「門からここまで、ずっと黙ってた。けど、それを渡したときだけ見た。針入れじゃなく、留め紐の縫い目を先に見る子の目だった」
私は針入れを閉じた。
「迎え役は、ここには来なかったんですね」
「来てたら、あたしは通してない」
女性はきっぱり言った。
「二人並んで座ればね、あとで“その場で受け渡しが済んだ”ってことにされるから、あの女はそれをさせなかった。席を一つに切ったから、あたしは札を合わせたんだ」
外で、戸が二度鳴った。
女性の顔が変わり、急いで帳面を閉じ、油皿の火を指で消した。
「正面の入り口から来た。さっきから同じ靴音だ」
手袋の男だ、と言わなくてもわかった。
ライナルトが札と紙を取り、私の肩を軽く押した。
「裏だ」
女性はもう一枚、小さな木片を投げてよこした。受け止めると、片面に荷宿の印、裏に矢印が焼き込まれている。
「継ぎ場の裏柵で見せな。門番が口をつぐむ」
「助かります」
「いいのよ」
女性は低く言った。
「通したのは一度だけで十分だ。今度は、取り返しに行きな」
また戸が鳴る。今度は強かった。
ライナルトが裏口の閂を外す。冷えた空気が細く差し込んだ。私は針入れを懐に入れ、細い紙を握る。
名の代わりに残っていたのは、仮印と、穴と、針入れだった。
人を隠した手つきは、品物の端に残る。
「行けるか」
ライナルトが振り向く。
「はい」
私はうなずいた。
次に追うのは、あの朝、この町を出た便の継ぎ目です。
裏口を出ると、東の空がわずかに白みかけていた。




