第二十話 ー 迎え役
戸の下から差し込まれた紙を、ライナルトはもう一度だけ読み返した。
迎えは南に置いたままにするな
短い一行だった。けれど、彼はすぐに紙を畳まなかった。
「南塔ではないんですか」
「違う」
返事が早い。
「置く、という言い方をするなら、人だ」
私は白紙本の包みを抱え直した。
さっきまで机の上で見ていた二行が、そのまま次の行き先へつながる。
初回立会は一名
迎えを同席させないこと
迎えは場所ではない。
白紙本のそばへ来る、人だ。
「南って」
「南詰の控え舎だ」
ライナルトは灯りを落とし、もう戸へ向かっていた。
「外廷の使いが夜をまたぐとき、表に出せない客を置く」
「そんな場所があるんですか」
「ある。八年前にも使われた」
それ以上は聞けなかった。
彼の歩く速さが、続きを拒んでいたからだ。
私は帳面と覚え書きを懐へ押し込み、白紙本の包みだけを腕の内へ抱えた。右手の手袋もまだ持っている。落とせないものばかりが増えていく。
外へ出ると、夜気が一段深くなっていた。南側の通りは昼より狭く見える。酒場の灯りはもう低く、裏口から流れた水が石畳の端で細く光っていた。
ライナルトは迷わず、表通りから一本外れた路地へ入る。
壁沿いに樽が積まれ、そのあいだから干した縄の匂いがする。通り抜けた先に、背の低い木戸があった。宿にも倉にも見えない、名のついていない建物だった。
ライナルトが二度だけ叩く。
返事はない。
三度目の前に、内側で閂の上がる音がした。
出てきたのは年のいった女性だった。髪はきれいにまとめてあるのに、前掛けの片端だけが急いで結び直したみたいに曲がっている。
「もう閉めましたよ」
「今夜、誰を待たせてる」
ライナルトが言う。
女性の手が止まった。けれど顔色は変わらない。
「宿じゃありません」
「知ってる」
短い返しだった。
女性はすぐには引かなかった。私は戸口の脇へ目をやる。壁に小さな木札掛けがあり、三つ並ぶはずのところに一枚だけ欠けていた。下の受け皿には、まだ湿った泥が落ちている。
「中に、外から来た人がいますね」
私が言うと、女性の目が私へ向いた。
「どうしてそう思うんです」
「札が一枚抜けています。泥も乾いていません」
それだけ言うと、女性は小さく息をついた。
「……余計な目をしてますね」
「通してもらう」
ライナルトの声が低く落ちる。
女性はしばらく迷ったあと、体を半歩だけ引いた。
「騒がないでください。階段の先、右です」
私たちは中へ入った。
廊下は暗く、床板だけが新しい。客を泊める場所というより、足を止めさせるための場所に見えた。階段を上がる途中で、かすかに金具の触れ合う音がする。
ライナルトが振り返らずに言う。
「白紙本は離すな」
「はい」
右手の部屋の戸が、少しだけ開いていた。
中に灯りがある。
ライナルトが一歩で間合いを詰め、戸を押し開けた。
部屋にいた男が、こちらを見て舌打ちする。
東門旧療養舎で逃げた男だった。
右手だけ手袋がない。卓の上には革の鞄が開き、その中から薄い札束がのぞいている。
「またおまえか」
男が言うより早く、ライナルトが前へ出る。
男は椅子を蹴って距離を取ろうとしたが、半歩遅れた。肩を押さえ込まれ、背中から壁へぶつかる。机が鳴り、鞄の中身が床へ散った。
私はとっさに白紙本を庇い、戸口の脇へ寄る。
紙片と木札がばらばらに転がった。その一枚に、目が止まった。
薄い木の札。
表に墨で二文字。
迎役
私はしゃがみ込み、それを拾い上げた。
「ライナルトさん、これ」
彼は男の腕を押さえたまま、私の手元を見た。
札の裏には、さらに小さな字があった。
南詰 仮札
「仮札か」
ライナルトが言う。
男は顔をしかめた。
「返せ」
「おまえの札じゃないな」
「……うるさい」
「誰のだ」
返事の代わりに、男は身体をひねって逃れようとした。けれど今度は無理だった。ライナルトが手首を返すと、男の顔から一気に血の気が引く。
「言え」
「俺は運ぶだけだ!」
声が割れた。
「迎えじゃない。札を渡すだけだ」
私は木札を持ったまま、顔を上げる。
「迎え役、という役目が本当にあるんですね」
男は黙る。
ライナルトが代わりに言った。
「ああ。記述の場に同席して、あの子と本をどちらが引き受けるかを、その場で決める席だ」
私は白紙本の包みを抱く腕に力を入れた。
白紙本の中の覚え書きと、目の前の仮札がつながる。
迎えを同席させないこと
それは比喩でも念押しでもなく、実際の役職名を避けるための文だったのだ。
「誰に渡すつもりだったんですか」
私が問うと、男は初めてこちらをまっすぐ見た。
「知らない」
「嘘です」
「顔は知らない。名前も聞いてない」
そこだけは本当らしかった。
代わりに、男の視線が一度だけ、床に散った紙のほうへ落ちる。
私はそちらを拾う。
宿帳ではない。控え紙だった。日付も署名もなく、ただ短く書いてある。
”三刻後、南裏口より移す
仮札は先に渡すこと”
「移す……何をです」
「それも知らない」
男の返事は早かった。
けれど、その早さが逆にひっかかる。
「じゃあ、何を取りに療養舎へ行ったんですか」
私が続けると、男の口が一度閉じた。
「……札だ」
「南塔仮置庫の」
「そうだ」
「白紙本じゃなく」
「本は持ち出したあとだと聞いてた」
ライナルトの手がわずかに止まる。
「誰から聞いた」
「Rだ」
部屋の空気が一瞬だけ固くなる。
私はその一文字を聞いたまま、男の顔を見た。
「Rって、誰ですか」
「知らない。俺はそう呼ばれただけだ。顔も毎回違った」
「毎回?」
男はしまったという顔をした。
ライナルトが逃がさない。
「何回運んだ」
「三回」
「どこからどこへ」
「東の療養舎。南塔。あと一度……南詰」
それで足りた。
東門旧療養舎、南塔仮置庫、そしてこの南詰控え舎。
白紙本そのものか、あるいはそれに付随する札と役が、この三点を回っていたことになる。
私は握ったままの木札を見た。
小さい。けれど、これがあれば「迎え役」として記述の場に入れるのだ。
「ライナルトさん」
「分かってる」
彼の返事は短い。
「迎えは、まだここへ来ていない」
「なぜそう思うんですか」
私は問う。
「仮札が残ってる。本人に渡ったなら、この部屋には置かない」
たしかにそうだった。
男は受け渡しの途中で捕まった。つまり、「迎え役」はまだ決まっていないか、少なくとも、この夜のうちには席に着いていない。
そのとき、階下で鈴が鳴った。
小さく、二度。
男の肩がぴくりと動く。
「誰です」
私は聞く。
男は口を閉ざした。
ライナルトが手を離す代わりに、男の胸元を壁へ押し戻した。
「合図か」
答えない。けれど、それで十分だった。
ライナルトが私を見る。
「下だ」
「この人は」
「女性に見張らせる」
戸口にいたあの年配の女性を指しているのだと分かった。彼は男の腕を離し、代わりに短く何かを唱えた。空気がきしむように鳴り、男の足元に淡い線が走る。
「そこから出るな」
男は青ざめた顔で黙り込む。
私たちは階段を下りた。
さっきの女性は、もう廊下の灯りのそばで待っていた。
「合図が鳴りました」
彼女が先に言う。
「裏口です。今夜の客が来るとき、あれを鳴らす決まりで」
「誰が来る」
ライナルトが問う。
女性は首を振る。
「名は聞かされません。ただ、いつも“迎えの人”とだけ」
私は白紙本を抱えたまま、彼女を見る。
「あなたはその言い方を、前から知っていたんですね」
「ええ」
女性は目をそらさなかった。
「荷の名前は変わるのに、人の呼び方だけは変わりませんでしたから」
裏口へ向かう途中、私は懐の帳面が脇腹へ当たるのを感じていた。
白紙本の中の覚え書き。
仮札。
Rの一文字。
そして「迎え役」という実際の席。
正体そのものはまだ見えていない。
けれど、輪郭はもう人の形を取りはじめている。
ライナルトが裏口の閂へ手をかける。
「開ける」
私はうなずき、包みを抱え直した。
迎えは、南に残してはいけない。
その意味はもう抽象ではなかった。
この扉の向こうに、白紙本のそばへ立つはずだった誰かがいる。




