第二十一話 ー もう一人の子
ライナルトが裏口の閂を外した。
戸が開く。
夜気の向こうに、一人立っていた。背の高くない若い女性だった。濃い外套の裾は短く、靴の先だけが濡れている。走って来たのに息は乱れていない。
ライナルトが先に言う。
「動くな」
「仮札は」
女性はそれしか聞かなかった。
私は抱えていた白紙本の包みを少しきつく持ち直す。
ライナルトは答えず、右手を上げたまま相手を見る。
「名を言え」
「レネです」
「何しに来た」
「上の部屋へ札を取りに来ました」
そこで、私はライナルトの手元の木札を思い出した。
薄い木片。墨で書かれた二文字。迎役。
女性――レネの目が、そこへ止まる。
「それです」
「おまえのか」
「今夜は」
短い返事だった。
今夜は、という言い方が妙に残る。
「迎え役なんですか」
私が聞くと、レネは初めて私を見た。
「そう呼ばれてきました」
言いながら、彼女はフードを外した。短い髪。額の右に、白く薄い傷が一本ある。
「あなたが書く側なら、私は向かいに座る側です」
ライナルトの声が低くなる。
「何の話だ」
「白紙本を書くときです」
私は一歩だけ戸口から出た。
包みの重さが腕の内でずれた。
「……三一七号室ですか」
レネのまぶたがわずかに動く。
「机の左下、欠けていましたか」
喉がつまる。
東寮旧館の三一七号室。
机の縁には、左右で高さの違う擦れが残っていた。低い位置は、子どもの手が何度もかかったみたいに白くなっていた。
「どうしてそれを」
「私がそこに手をかけていたからです」
私はレネの顔を見る。
見覚えはない。けれど、部屋の中に残っていた“もう一人”の形だけは、急にはっきりする。
「あなたが……もう一人の子」
レネはうなずいた。
「ずっと同じ部屋にいたわけではありません。普段は南側の控えにいました。試し書きの日だけ、三一七号室へ呼ばれました」
ライナルトが聞く。
「何のために」
「向かいに誰を置くかで、文の向きが変わるからです」
その答えは早かった。
私は思わず聞き返す。
「文の向き、ですか」
「ええ」
レネは私から目をそらさない。
「あなたが同じ文を書いても、向かいに学院側の迎えが座れば学院へ向いた文になる。外廷側の迎えが座れば、外廷へ向いた文になる」
私は抱えた包みを見下ろした。
白紙本の中から出た覚え書きが、そのまま立ち上がる。
初回立会は一名
迎えを同席させないこと
「だから、迎え役を遠ざけた」
私が言うと、レネは小さくうなずいた。
「ヴェラが最後に止めたのは、そこです」
「最後?」
ライナルトが聞く。
「上の一行を通す前です」
レネの声は静かだったが、言いよどまなかった。
「二度目までは、私は向かいに座りました。下の一文だけを書かせる日は、まだ席が残っていた。でも、三度目は違った。ヴェラは私を戸の外に立たせた」
私はすぐにその文を思い出す。
”わたしは ここで まつ”
下に残っていた一文。
上は切り取られ、読ませないようにされていた。
「上の一行には、あなたがいたんですか」
私が聞くと、レネは首を横に振る。
「私の名前ではありません」
「では」
「どちらの迎えがそこに座っているかが、分かる形でした」
それで足りた。
だから切った。
だから隠した。
だから“上は読ませないこと”という紙が残った。
ライナルトが木札を少し上げる。
「今夜、これを受け取るはずだった」
「はい」
「渡すのは誰だ」
「右手の親指だけ、手袋が減った男です」
私は思わず言う。
「療養舎にいた人ですね」
レネがうなずく。
「顔は毎回違います。でも、札を運ぶ人はだいたい同じところを擦り減らす」
「Rは」
ライナルトが続ける。
レネは一瞬だけ間を置いた。
「名前ではありません」
「何だ」
「帳面の記号です。仮札がまだ人に渡っていないとき、受け渡し欄をそう残します」
私は息をつく。
それで、顔が違ってもRだったのだ。
「じゃあ、Rを追っても特定の人物にはつながらないんですね」
「ええ、役目ですので」
レネがそう言ったところで、階上から鈍い音がした。
さっきの男が動いたのか、別の誰かが入ったのかは分からない。
ライナルトは視線だけ上へやったあと、すぐにレネへ戻す。
「今夜ここへ来た理由はなんだ」
「本が南塔から消えたと聞いたからです」
「取り返しに来たのか」
「違います」
レネの否定は早かった。
「本が動いたら、次は人を置く。そう思って来ました」
「迎えとして」
「ええ」
彼女は答える。
「本だけ隠しても足りません。向かいの席が空いているかぎり、またやり直せる」
私は白紙本の包みを抱え直した。
”迎えは南に置いたままにするな”
あれは場所の話ではなかったのだ。
この人を南詰に残したままにするな、という意味だった。
「あなたがあそこに残れば、また札が回る」
私が言うと、レネはうなずいた。
「はい」
「それで来たんですね」
「呼ばれる前に動きたかった」
そこで初めて、彼女の声に少しだけ硬さが出た。
待たされる側の言い方ではなかった。
ライナルトが木札を懐へ入れる。
「今夜、おまえは迎え役の席に着かない」
レネはそれにすぐ答えなかった。
代わりに私の腕の中の包みを見た。
「その本、開きましたか」
「少しだけ」
「反応は」
私は一瞬迷ったが、隠す意味はないと思ったから、彼女に本当のことを伝えた。
「『むかえ』と、三文字だけ出ました」
レネの指先がぴくりと動く。
「やっぱり」
「知ってるんですか」
「全部は知りません」
彼女は首を振る。
「でも、迎え役が近いと、その言葉だけ先に浮くことがあると聞かされていました」
「誰に」
「最初は外廷の記録係に。後からは、別の人たちに」
曖昧な言い方だった。
けれど、いま重要なのはそこではない。
ライナルトが一歩寄る。
「今、おまえを追ってるのは何人だ」
「二人は来ています」
「どこにいる」
「通りの裏。鈴を二度鳴らしたあと、返事がなければ裏口へ回る決まりです」
その答えと同時に、外で乾いた音がした。
鈴だった。
一度。
間を置かず、もう一度。
廊下の灯りのそばにいた年配の女性が、小さく肩を揺らす。
「来ました」
ライナルトはすぐに言った。
「表は使わない。裏の路地へ出る」
私はうなずいた。
レネももう迷わない。
「私も行きます」
「残れば」
ライナルトが言う。
「次の札が回る」
「分かっています」
レネの返事は短い。
それで決まった。
私は懐の帳面が折れていないかだけ確かめる。
右手の手袋。追記帳面。白紙本。迎役の仮札。
持つものが増えるたびに、戻れない気が強くなる。
ライナルトが先に裏の路地へ出る。
私とレネがそのあとへ続いた。
足音の少ない人だった。
三一七号室の廊下にいたら、たしかに気づきにくかっただろうと思う。
「レネさん」
走り出す前に、私は一度だけ呼んだ。
彼女がこちらを見る。
「あなたは、ずっと待つ側だったんですね」
レネは答えず、代わりに前を向いた。
「今夜は違います」
それだけ言って、先に暗い路地へ入っていく。
鈴の音がもう一度鳴った。
今度は近い。
ライナルトが短く言う。
「走るぞ」
私たちは南詰の裏口を離れた。
迎え役の正体は、役目だけを持たされたもう一人の子だった。
けれど、それが分かっただけではまだ足りない。
その席を誰が今も必要としているのかを追わなければ、白紙本はまた同じところへ戻されてしまうのだ。




