第十九話 ー 白い表紙
ライナルトが私を連れて入ったのは、城下の南端にある石造りの建物だった。
表には看板がない。昼なら倉庫に見えるだろうが、夜に見ると窓の少なさが先に気になる。彼は通り側の戸を使わず、脇の細い入口を開けた。
「ここは」
「借りてるとこだ」
短い返事だけで、先に中へ入る。
あとに続くと、戸口のそばに濡れた外套掛けが立っていた。机の端には紙を押さえる真鍮の重りが二つ、奥の壁際には浅い鍋と細口の瓶。火を使った跡は机ではなく、床の石に残っている。私はそこを一度見てから、抱えていた包みを胸の前で持ち直した。
ライナルトが戸を閉める。
次に、壁際へ指を滑らせ、低く一言だけ落とした。
通りを行く車輪の音が、一段遠くなる。
「……聞かれませんか」
「怒鳴らなければな」
それで十分だった。私は小さくうなずく。
ライナルトが椅子を引いた。
「座れ」
「はい」
私は机の前に腰を下ろした。懐には、東門旧療養舎で抜いた紙束から切り離した追記帳面と、逃げた男が落とした右手の手袋が入っている。走っている間じゅう落とさなかったそれらが、今になって急に重く感じられた。
けれど、机の中央へ置かれた灰布の包みを見た瞬間、その重さは別のものに変わる。
白紙本だった。
「開ける前に確認する」
ライナルトの声は低い。
「触るのは最小限だ。書くな。こするな。綴じが浮いていても直すな」
「はい」
「魔力も流すな」
そこで私は顔を上げた。
「それは……難しいかもしれません」
彼の目が止まる。
「南塔でも、布の上から少し触れただけで、吸われる感じがありました。止めるつもりでも、完全にはできないと思います」
ライナルトはすぐには答えなかった。
否定しないのは、同じことを考えているからだろう。
「なら、俺が先に開く」
彼が包みへ手をかける。
私は小さく息を吸ってから言った。
「待ってください。机に紙を一枚、敷かせてください」
「必要か」
「角を傷めたくありません」
彼は何も言わず、机の端を空けてくれた。私は棚から厚手の紙を一枚抜き、繊維の立ちが少ないほうを上にして敷く。白紙本をその上へ移してもらい、表紙の角が直接石の冷たさを拾わないよう位置を整えた。
「……職人だな」
「こういうところだけです」
「いや」
短すぎて、その先は分からない。
けれど、そのままでも変ではなかった。
ライナルトが布をほどく。
白い表紙があらわれた。
題字はない。飾りもない。金具もない。
白い、というより、まだ何も決めていない色に見えた。
「開くぞ」
前表紙がゆっくり持ち上がる。
最初の頁。二枚目。三枚目。どれも白い。
未記述だと分かっていたのに、実際に見ると喉が乾く。
ここまで追ってきた記録も、人も、移送先も、全部この白さのまわりに積み上がっていたのだ。
「……やはり、何も」
「待て」
ライナルトの声で私は口を止めた。
彼が見ていたのは頁ではなく、表紙の内側だった。見返しの端、そのごく細いところだけ、糊がわずかに浮いている。
「一度、開けて戻してる」
私は椅子を寄せた。
たしかに、そこだけ紙の繊維が逆立っている。整えて剥がした跡ではない。急いで差し込み、あとから押さえた粗さだ。
「道具、借ります」
調整台の脇にあった細い骨べらを手に取る。紙を傷めない角度を探し、見返しの端へそっと差し込んだ。少し押して、止める。もう一度だけ押す。
ライナルトは黙って見ていた。
その黙り方がありがたかった。
やがて、表紙の裏側に薄い隙間ができる。
入っていたのは、細長い紙片だった。
帳票の切れ端ではない。罫線も印もない、覚え書き用の薄紙。私はそれをつまみ、破らないよう引き抜いた。
字は二行だけだった。
"初回立会は一名
迎えを同席させないこと"
私はそのまま止まった。
移送先でも、仕事の話でもない。
白紙本の前に、誰を置くかの決まりだ。
「裏か」
ライナルトが言う。
私はうなずき、紙片を少し持ち上げた。
「ええ。初回の立会は一人だけ。迎えは同席させるな、と」
ライナルトの目がわずかに細くなる。
「なるほどな」
「迎え、というのは……人ですか」
「少なくとも、場所じゃなさそうだな」
短い返事だった。けれど、それで十分だった。
三一七号室で切り落とされた上の一行は、どこへ向かうかを決める文ではなく、誰がその場に立つかを決める文だったのかもしれない。
「だから、上だけを落とした」
私が言うと、ライナルトが紙片を受け取った。
「ああ。子どもが何を書くかより先に、誰を近づけるかが決まる」
その言い方に、私は顔を上げる。
「……白紙本は、書かれた一文だけで決まるわけじゃないんですか」
「最初の場にいた人間も含まれる可能性がある」
喉の奥がひりついた。
もしそうなら、あの二行はただの試し文ではない。
子どもを学院側に残すか、宮廷側へ出すか。その判定だけではなく、その場で誰が本と結びつくかまで含んでいたことになる。
「ヴェラは、それを避けたかった」
「ああ」
ライナルトは紙片を机に置き、今度は私の懐を顎で示した。
「帳面」
私は南塔から抜いてきた追記帳面を取り出した。最後の頁を開く。
”記述者判定 留保のまま移送停止
立会指定 V. Werner”
白紙本の中から出てきた覚え書きと並べると、線が変わる。
今までは「どこへ渡すか」を止めたのだと思っていた。けれど、違う。ヴェラは、誰を同席させるかが決まる前に、判定そのものを止めたのかもしれない。
「八年前、南塔で俺が見たのは空の棚だ」
ライナルトが言った。
私は帳面から目を上げる。
「そのときには、もう」
「遅かった」
たった三文字だった。
その短さで、続きを聞けなくなる。
彼は白紙本の白い頁を見たまま続けた。
「帳面は残ってた。だが、本はなかった。誰が持ち出したかも、その場で何を決めたかも、全部切れてた」
私は机の端を指で押さえる。
今、そこへ新しく二行が加わった。
初回立会は一名。迎えを同席させないこと。
切れていたはずの規則が、ようやく紙の形で出てきたのだ。
そのときだった。
白紙本の最初の頁が、かすかに鳴った。
紙が擦れるような、ごく小さな音。
風はない。誰も触っていない。
「ライナルトさん」
彼も見ていた。
白い頁の中央に、見えない針でなぞったような圧の跡が浮かんでくる。
一画ずつ、薄く。
私は膝の上で手を握った。
触れない。そう決める。
出たのは三文字だけだった。
む か え
そこで止まる。
続きは出ない。
けれど、その三文字だけで十分だった。
迎えは、ただの役割名ではない。
白紙本は、その言葉にだけ反応した。
ライナルトがすぐに本を閉じる。
「これ以上は出すな」
「私が触ったからでしょうか」
「南塔で、もう始まってる」
責める言い方ではなかった。
事実だけを伝える声だった。
私はうなずく。
白紙本が私の魔力を拾ったのか、それとも、私がその場にいることで反応したのか。まだ分からない。けれど、迎えという言葉がこの本にとって無関係ではないことだけは、今はっきりしていた。
そのとき、外で靴音がした。
ひとつではない。二つ、三つ。
通りを横切るのではなく、この建物の前でいったん速度を落とす。
ライナルトが灯りを落とした。
部屋が急に狭くなる。
「追ってきましたか」
「まだ分からん」
彼は戸の脇へ立ち、気配を聞く。私は白紙本を灰布で包み直し、帳面と覚え書きをまとめて懐へ差し入れた。さっきまでより、手の動きが速い。
靴音は止まらなかった。
だが、完全に遠ざかる前に、戸の下へ細い影が差した。
何かが差し込まれる。
折られた紙だった。
ライナルトが戸を開けるより早く、私はそれを拾っていた。外に人影はない。通りの先に、夜番の灯りが揺れているだけだった。
紙を開く。
中には、一行だけ書かれていた。
”迎えは南に置いたままにするな”
署名はない。
私は紙を持ったまま、顔を上げる。
ライナルトの視線は、その一行の先を読んでいるように鋭かった。
「……南塔を見ていた人が、ほかにもいる」
私が言うと、彼はうなずいた。
「ああ」
「味方でしょうか」
「まだ分からん」
白紙本の中には、迎えを同席させるなという覚え書き。
戸の下には、迎えを南に置いたままにするなという匿名の警告。
言葉は違うのに、向いている先は同じだった。
私は白紙本の包みを抱え直す。
「動きますか」
「ああ」
「今すぐに?」
「置くなと言われた」
その言い方だけで、少しだけ息が軽くなる。
急いでいるときのライナルトは、余計な説明をしない。その代わり、進む方向だけは迷わない。
私は椅子を引き、立ち上がった。
白紙本はまだ誰にも書かれていない。
けれど、誰を近づけるかで、その場の意味は変わる。
そのことを知ってしまった以上、もう南塔から持ち出しただけでは足りなかった。
ライナルトが戸へ手をかける。
私も包みを抱え、あとに続いた。
次に探すべきなのは、書かれていない一行の続きではない。
迎えと呼ばれた誰かが、どこで待っているのかだった。




