第十八話 ー 南塔仮置庫
南塔は、夜の城壁から少しだけ突き出して見えた。
正面の回廊には灯りが二つある。どちらも消えてはいない。遠くからでも、見張りが立っているのが分かった。私は外套の襟を押さえながら、ライナルトの背を追う。
「正面は無理ですね」
「ああ」
彼は足を止めず、塔の南側へ回った。石垣に沿って細い通路がある。雨を逃がす溝の脇を抜け、荷上げ用の滑車が下ろされた壁際まで行くと、そこでようやく立ち止まった。
人ひとりがやっと通れるくらいの鉄扉がある。鍵穴は古いが、まわりの金具だけ新しい。
「使われています」
「仮置庫の荷だけ、こっちを通す」
ライナルトはそう言って、扉の脇へ手を伸ばした。指先が石の継ぎ目を押すと、内側で短く金具が鳴る。私は思わず彼を見る。
「八年前も、ここからですか」
「……そうだ」
それだけだった。
扉が少し開く。中は狭い下り階段だった。湿った石の匂いが上がってくる。私は包みを抱え直し、懐に入れた手袋の硬さを確かめてから、あとに続いた。
階段を下りると、すぐに横へ折れる廊下があった。荷車の通らない幅で、壁の下半分に木が張ってある。ぶつけた箱の角で削れた跡が、暗がりにも白く見えた。
ライナルトが手を上げる。
足音。
上のほうから二人分、ゆっくり下りてくる。
私は壁際へ寄った。ライナルトは廊下の角で身を伏せ、相手が通るのを待つ。灯りが近づき、男たちの声が聞こえた。
「四は空のはずだろ」
「札だけ替わってたって話だ」
「だったら尚更、朝まで閉めとけよ」
声はそのまま上へ遠ざかった。
私は止めていた息を細く吐く。
「札だけ替わってた」
「療養舎から来たやつだ」
つまり、あの男だけではない。南塔の中でも、仮置庫四に動きがあったと知られている。ライナルトはもう先へ進んでいた。
廊下の突き当たりに、扉が並んでいた。どれも高さは同じで、板札だけが違う。
一。二。三。
そして、四。
今ついている札は新しい。紐の結び目も、まだ硬かった。
ライナルトが療養舎から持ち出した板札を懐から出し、今の札と見比べる。文字の癖は同じだが、墨の乾き方が違っていた。
「替えられてる」
「中身も、でしょうか」
「開ける」
鍵はかかっていた。けれど彼は扉の下端を一度だけ押し、蝶番の浮きを確かめると、細い金具を差し込んだ。二度目の音で、錠が落ちる。
中は思っていたより小さかった。
棚が三列。木箱が六つ。壁際に細長い包みが二つ。帳面もあるが、表に書かれているのは番号だけで、題目はない。誰かが急いで探ったらしく、手前の棚だけ紙が斜めに崩れていた。
私は灯りを低く持つ。
床に、青黒い蝋がひと欠片落ちていた。
「ここにも」
ライナルトが拾い上げる。
「外廷保護封だ」
それなら、ここに運ばれたものは一度は外廷側の手を通っている。
私は棚へ目をやった。帳面、箱、包み。どれも同じように見えるのに、ひとつだけ、そこだけ空気が張っているように感じた。
私はそちらへ近づく。
「イリス」
「少しだけ、触ります」
返事を待たず、箱の縁へ指を置いた。
違う。これはただの木だ。
隣の帳面にも触れる。こっちも違う。紙に残るのは古い手脂と乾いた魔力のかすだけだ。
いちばん奥の棚に、灰色の布で包まれた薄い束があった。札も何もついていない。私は布の上からそっと指を乗せる。
その瞬間、指先が冷えた。
吸い込まれる。
押し返してこない。ただ、静かに受けてしまう。
私は思わず手を引いた。
「……これです」
ライナルトがすぐ横へ来る。
「確かか」
「はい。ほかと違います。空っぽなのに、空っぽじゃない感じがします」
言い終わる前に、彼は灰布の包みを持ち上げていた。軽い。けれど、軽すぎるわけではない。本の重さだった。
布の結び目を外すと、中から白い表紙が見えた。
飾りはない。題字もない。
それなのに、見た瞬間、それだと思った。
白紙本だった。
喉がひどく乾く。
今まで名前と記録だけを追ってきた一冊が、こんなふうに、棚の奥から出てくるとは思っていなかった。
「開けるな」
ライナルトが低く言う。
「今は持ち出す」
そのとき、廊下の向こうで扉が鳴った。
誰かが来る。
ライナルトは布を巻き直し、白い本を外套の内側へ入れる。私はあわてて棚へ手を伸ばした。手前に崩れていた帳面の一冊が気になったからだ。さっき触れたとき、箱とは違うざらつきがあった。
抜き出して開く。番号だけの控えだと思ったのに、最後の頁に一行だけ、追記があった。
”記述者判定 留保のまま移送停止
立会指定 V. Werner”
その下は空白だった。
署名も、移送先の続きもない。
私は帳面を閉じ、懐へ差し入れる。
「行けるか」
「はい」
もう廊下の足音は近い。二人分ではない。今度は一人だ。速い。迷いはない。ここを目指している足音だった。
ライナルトが先に出る。私は灯りを吹き消し、そのあとへ滑り出た。部屋の外へ出た瞬間、向こうの角に影が見えた。
黒い外套。
右手だけ、手袋がない。
「止まれ」
ライナルトの声が飛ぶ。
男は止まらなかった。代わりに細い刃を投げてきた。壁に当たり、火花のように音が散る。私は反射的に身を引く。ライナルトは一歩だけ前へ出て、短く呟いた。見えない何かに打たれたように、男の肩が壁へぶつかる。
けれど、倒れきる前に男は身をひるがえし、別の廊下へ逃げた。
「追いますか」
「いや」
ライナルトは即答した。
「本を先に出す」
それが正しかった。追えば離れてしまう。今は白紙本を手放せない。
私たちは来た道を戻る。階段の手前で、上から灯りが差した。見張りが気づいたのだ。ライナルトが私の手首をつかみ、途中の脇道へ引く。荷を一時的に置くための小部屋だった。割れた樽と縄の束しかない。
見張りの足音が通り過ぎる。
私は息を潜めたまま、外套の内側に収まった白い本の角を見ていた。
音が遠ざかると、ライナルトが手を放す。
「今だ」
鉄扉の外へ出るころには、夜気がいっそう冷たくなっていた。けれど、腕の内側だけが熱い。私は走りながら、自分の懐に入れた帳面の角を押さえる。
「ライナルトさん」
「なんだ」
「帳面に、ヴェラの名前がありました。移送停止、と」
彼は走る速さを落とさなかった。
「あとで見る」
「はい」
短いやり取りだけで十分だった。
今はまだ、止まるほうが危ない。
南塔の影を離れ、城壁沿いの暗がりまで来て、ようやくライナルトが一度だけ振り返った。追っ手は見えない。それでも彼は白い包みを抱え直し、低く言う。
「工房へは戻らない」
「では」
「先に、開けてもいい場所を探す」
私はうなずいた。
白紙本は、まだ誰にも書かれていない。
それでも包み越しに触れるだけで、あの本は静かにこちらの魔力を受けていた。
私はその感触を確かめながら、ライナルトと一緒に夜の城下を抜けた。




