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才能なしと追い出されましたが、辺境で魔導書工房を始めます。──なぜか王国最高位の魔術師が、うちの工房に来るのですが?  作者: 森凛


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第十七話 ー 東門旧療養舎


 東門旧療養舎は、城壁の影に半分沈んでいた。


 窓はどれも板で打たれ、庭へ回る石畳には草が細く割り込んでいる。使われなくなって長い建物のはずなのに、裏手の木戸だけがきちんと閉まりきっていなかった。


 ライナルトが手をかける。


「開く」


 押すと、戸は音もなく内側へずれた。錠の金具に、新しい擦れが一本ついている。私は包みを抱え直し、その跡を見た。


「最近、誰かが」


「ああ」


 それだけ言って、彼は先に入った。


 中は暗かったが、何も見えないほどではない。廊下の奥に、月の光が一本だけ落ちている。壁際の棚は空で、薬壺の丸い跡だけが板の上に残っていた。鼻に入るのは、古い木と乾いた布の匂い。それに、消えきらなかった薬草の苦い匂いが少し混じる。


 ライナルトは迷わず左へ曲がった。


「来たことがあるんですか」


「昔、一度」


 短い返事だった。続きを聞く前に、奥で何かが鳴った。

 木の引き出しを閉めたような、乾いた音だった。


 ライナルトが振り返る。


「下がってろ」


 言い終わるより早く、彼は廊下を抜けた。私は壁に肩を寄せて、そのあとを追う。突き当たりの部屋の戸が半分開いていて、その隙間から灯りが揺れた。


 人がいた。


 背の高い男だった。外套の裾を机の角に引っかけたまま、引き出しの中をかき回している。振り向いたとき、顔は影に入って見えなかった。


「誰だ」


 ライナルトの声が低く落ちる。


 男は答えず、手元の灯りをこちらへ蹴った。小さな油皿が床を滑り、火が揺れる。私は反射的に足を引いた。その間に男は窓のほうへ走る。


 ライナルトが追いつき、腕をつかんだ。

 けれど男は身体をひねって外套を片側だけ脱ぎ捨て、そのまま窓枠を越えた。木が軋み、冷たい夜気が一気に流れ込む。


「待って」


 思わず声が出た。私も窓際へ寄る。外は裏庭だった。崩れた柵と、背の低い物置の影。その向こうを、男の背だけが走っていく。


 ライナルトは窓枠に手をかけたが、すぐには跳ばなかった。足元に何か落ちているのを見たからだ。


 黒い手袋だった。


 拾い上げると、右の親指の革だけが薄く擦れている。


 私は息を止めた。


「……マルグリットさんが言っていた」


「ああ」


 あの人が見ていたのは、顔ではなく封と箱の番号。それでも、右手の親指だけ減った手袋は覚えていた。

 ライナルトは窓の外を一度だけ見てから、追うのをやめた。


「先に部屋だ」


 逃げた相手より、探していたもののほうを取る。そう判断したのだと分かった。私はうなずき、油皿を拾って火を起こし直した。


 部屋は狭かった。寝台が一つ、低い机が一つ、水差しが一つ。どれも古いが、荒れてはいない。机の端にだけ、ついさっき指で払ったような筋があった。


 ライナルトが寝台の脇を見ている。私は机へ寄った。


 引き出しの中はほとんど空だった。包み紙、折れた木匙、乾いた布切れ。けれど、一番下の薄い引き出しだけ、底が少し浮いている。


 爪をかけて持ち上げると、下に紙が入っていた。


「ありました」


 抜き出したのは、粗い紙を何枚か重ねた束だった。帳面ではない。練習用の、安い書きつけ紙だ。角が丸くなり、指で何度もめくられた跡がある。


 上の一枚に、子どもの字が残っていた。


 "わたしは ここで まつ"


 見覚えのある下の一文だった。

 けれど今度の紙には、その上にもう一段、字を書こうとして消した跡がある。刃で切ったのではなく、濡らしてこすったのだろう。紙の毛羽がそこだけ立っていた。


 私は二枚目をめくる。

 三枚目も。

 どの紙にも、同じ一文が残り、その上だけが消されていた。


「練習させていたんですね」


「声に出させるためだ」


 ライナルトの視線は紙ではなく、机の脇に落ちていた細い棒へ向いている。墨をつけて字をなぞるための木片だった。先が柔らかく削られていて、子どもの手でも持てる。


 四枚目をめくったとき、小さな紙片が一緒に落ちた。


 表には何もない。裏返すと、短い字が一行だけ書かれていた。


 "――上は読ませないこと"


 大人の手だった。癖のない、事務の字。

 署名はない。


 私はその紙を持ったまま、ライナルトを見る。


「ヴェラでしょうか」


「分からない」


 否定もしなかった。


 彼は寝台の下へ手を入れ、薄い木箱を引き出した。鍵は壊されている。逃げた男が開けたのだろう。中に入っていたのは本ではなく、板札が一枚と、青黒い蝋の欠片だった。


 板札には、今の帳面とは違う番号が墨で書かれている。


「それ、分かりますか」


 ライナルトが札を灯りに寄せた。


「療養舎の札じゃない」


「では」


「城内の保管庫だ」


 彼は裏返した。裏に小さく、棚番号が追記されている。


 "南塔仮置庫 四"


 喉の奥がひりついた。

 逃げた男は、この部屋を探しに来ただけではない。次の保管先につながる札を持って帰るつもりだったのだ。


 私は手袋と札を見比べる。


「同じ人が、控えを持ち去って、今も追っている……?」


「少なくとも、別の誰かに任せてはいない」


 ライナルトはそう言って、蝋の欠片も布に包んだ。

 その横顔は静かだったが、目だけが少し鋭くなっていた。


「南塔は夜でも入れる場所じゃないですよね」


「正面は無理だ」


「裏は?」


「ある」


 即答だった。


 私は思わず顔を上げる。


「本当に来たことがあるんですね」


 ライナルトはしばらく黙っていた。

 それから、窓の外へ一度だけ目をやる。


「八年前に一度だけ入った」


 その言い方には、続きを切る硬さがあった。

 私はもう聞かなかった。今ここで聞けば、答えより先に、彼の口が閉じると思ったからだ。


 代わりに、机の上の紙をきちんと重ねる。

 同じ一文。

 何度も書かせて、上だけを消す。

 読ませたい部分と、読ませたくない部分を、最初から分けていたことだけは、はっきりしていた。


 廊下の向こうで、どこかの板戸が風に鳴った。


 ライナルトが外套を拾い、窓際へ投げる。


「行くぞ」


「南塔へ?」


「ああ。取られる前に押さえる」


 彼はもう戸口へ向かっていた。私は紙束を包みに戻し、右手の手袋と板札だけを別に懐へ入れる。今度は記録を読みに行くのではない。先に来ていた相手が、次に手を伸ばす場所へ走るのだ。


 療養舎を出ると、夜気が頬に刺さった。

 ライナルトは振り返らない。石畳をまっすぐ、城の南側へ切っていく。


 私はその背を追った。

 今度こそ、棚に残った名前ではなく、まだ動いている手のほうへ届きたかった。


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