第十六話 ー 別帳の欄
マルグリットの店を出ると、もう通りの灯りは少なくなっていた。
製本通りの端では、昼のあいだ表に出ていた紙束が布で覆われ、木枠の看板も半分ほど下ろされている。夜気は乾いていたが、指先にはまだ、あの店で触れた紙片の薄い張りが残っていた。
包みの中には、三一七号室から出た切れ端がある。
その上の一行を落としたのが、ヴェラ・ヴェルナーの指示だったこと。
そして、その控えが「外引継・灰架関連控え」として、書庫の外へ渡されたこと。
私が包みを抱え直すと、ライナルトが歩調を緩めずに言った。
「王城手前の引継ぎ棟だ」
「まだ開いているでしょうか」
「表は閉まっている」
それだけ言って、彼は通りを曲がった。
西門外のにぎわいを抜けると、道は石の硬さを強く返すようになった。荷車の通った跡が白く残り、城側へ近づくほど、壁の影が長くなる。私はライナルトの半歩後ろを歩きながら、マルグリットの声を思い返していた。
――顔は見ていない。見ていたのは、封と箱の番号。
あの人は、見たものだけを残す話し方をする。だからこそ、「東門旧療養舎」という行き先が別帳に残っているなら、それは曖昧な噂ではなく、実際に付いた記録なのだと思えた。
やがて、引継ぎ棟の正面が見えた。窓の板戸は下ろされ、受付口にも灯りはない。けれどライナルトは立ち止まらず、そのまま建物の脇へ回る。
「裏ですか」
「ああ。夜の荷はこっちだ」
裏手には、低い軒のついた荷受け場があった。空の木箱が壁際に積まれ、縄の匂いと、濡れた木の匂いが混ざっている。吊り灯りが一つだけ下がっていて、その下で年配の男が板札を束ねていた。
男は私たちを見ると、手を止めた。
「もう営業終了だ」
「外引継の控えを追っている。灰架関連だ」
ライナルトは短く返した。
「だからなんだ」
男は鼻で息をつき、また板札へ手を戻しかける。
そのとき、私は積まれた木箱の脇に、濃い青の蝋が薄くこびりついているのを見つけた。
黒に近い、あの色だった。
「その蝋……」
思わず声に出すと、男の手が止まる。
「外廷の保護封ですよね」
男は私を見た。さっきよりも、少しだけまっすぐに。
「知っているのか」
「今日、同じ色の欠片を見ました。写し屋の店で」
ライナルトが私の言葉を継ぐ。
「番号だけでいい。確認したいものがある」
男はしばらく黙っていたが、やがて板札の束を脇へ寄せ、足元の箱から薄い帳面を一冊取り出した。表の正式な帳簿ではない。表紙の角がすり減り、指の跡で端だけが黒くなっている。
「表の帳面は閉じた。だが、夜の荷は、こっちへ先に控える」
灯りの下で頁が開かれる。紙は荒く、罫もまっすぐではない。けれど、書かれている字は崩れていなかった。
男の指が、一つの行で止まる。
「……あった。外引継・灰架関連控え 一箱」
喉の奥が少しだけ乾いた。
「封種は」
「外廷保護封」
マルグリットの見せた蝋片とつながる。私は包みを抱く腕に、無意識に力を入れていた。
男はそのまま横の欄を追った。
「同行一名。別帳あり」
「荷だけじゃないんですね」
私が言うと、男はうなずいた。
「荷だけなら同行欄は立たない。複数がいるときだけだ」
ライナルトが問う。
「別帳は」
「表には出してないから、待ってくれ」
男は帳面を閉じ、今度は壁際の棚へ向かった。鍵ではなく、紐でまとめた紙束をほどき、その中から細長い一枚を抜き出して戻ってくる。受け渡しの覚え書きらしく、帳面よりさらに薄い紙だった。
「こっちだ。字は少ない」
灯りの下で、私もその紙をのぞき込む。
氏名――空欄
立会――V. Werner
判定――保留
一時移送先――東門旧療養舎
そこまで読んだところで、紙の端が指先に少し引っかかった。
判定、保留。
「……まだ、どちらへ渡すか決まっていなかったんだね」
声にすると、ようやく文字の意味が身体に落ちてくる。
学院側に残すのか。宮廷側へ出すのか。
ヴェラが三一七号室で見ていたのは、その判定に関わるものだったのだ。
ライナルトは別の箇所を見ていた。
「鍵は」
「療養舎のか」
「ああ」
男は覚え書きを裏返し、裏面の端に添えられた小さな追記を指で示した。
「同夜、東門旧療養舎の鍵、一式貸出。返却は三刻ほどあと」
「署名は」
「R」
たった一文字だった。
エルゼでも、テオでも、ヴェラでもない。マルグリットが言っていた、箱を持ち去った男の顔は見えなかった。だが、ここにも同じように、人の名前を最後まで書かない手つきが残っている。
「その夜、子どもが移されたと思いますか」
私が聞くと、男は少しだけ考えてから答えた。
「そこまでは書かない。だが、荷だけの出し入れなら、療養舎の鍵までは借りないだろうな」
断定してないけど、わずかな可能性の感じる言葉だった。
ライナルトが紙から目を上げる。
「この控え、朝には正式帳簿へ移るのか」
「移る前に止まることもある」
「これは止まった」
「そうだろうな」
男は淡々と言った。
「判定保留のまま、別帳で切れてる。続きを持ったやつが別にいたんだろう」
ヴェラが止めたのか。
あるいは、止めきれなかったのか。
そこまではまだ分からない。
けれど、一つだけはっきりしたことがある。
あの夜、誰かが東門旧療養舎の鍵を借りた。
そして短い時間で返している。
子どもがまだ白紙本へ最初の一行を書いていないのなら、その夜に移されたものは、本だけではないかもしれなかった。
ライナルトは帳面と紙を男へ返した。
「助かった」
「礼はいい。見つけたら、今度は表の帳面に残る形でやってくれ」
男はそう言って、紙束を元の紐でまとめる。
記録に残る形で終わらせろ。
それは責める言い方ではなかったが、私には少しだけ重く聞こえた。
引継ぎ棟の裏口を出ると、空気はいっそう冷えていた。城壁の向こうから夜風が回り込み、包みを抱えた腕の内側を抜けていく。
「記録は朝だ」
ライナルトが言った。
「先に療養舎へ行く」
私はうなずいた。返事をするより先に、彼はもう石段を下りている。
東門の方角は暗い。けれど、まったく見えないわけではない。夜の底に沈むようにして、使われなくなった建物の屋根だけが、遠く低く影を置いていた。
私は包みを抱え直し、ライナルトのあとを追った。
次に確かめるのは帳面の続きではない。
あの夜に、誰かが鍵が使った場所だ。




