第十四話 ー 西門外の写し屋
学院の西門を出るころには、石畳の色が少しやわらいでいた。日が傾きはじめて、門の影が通りへ長く落ちている。王都の西側は、書庫や審査局の並ぶ静かな区画とは空気が違った。紙を積んだ荷車が行き交い、軒先には切り落とした紙端を集めた籠が置かれている。店の前を通るたび、乾いた繊維の匂いと、糊の甘い匂いが交じって鼻に残った。
西門の外には、書く前の紙と、書かれたあとの紙が同じ通りに積まれていた。
私は包みの上から、三一七号室で見つけた切れ端の角を指で押さえた。薄い紙なのに、さっきからずっと重さだけが消えない。
「急ぐ」
前を歩くライナルトが言った。
「はい」
返事をしながら足を速める。エルゼが最後に口にした言葉が、まだ耳に残っていた。
西門の外。古い写字房。記録に残らない夜番。
点だったものが、ようやく人の形を取りはじめている。
細い路地を一本入った先に、その店があった。低い庇の下に、色の褪せた布が垂れている。店先には断ち切った羊皮紙の束と、紐でまとめた下書き用の粗い紙が並んでいた。入口の戸は半分開いていて、その隙間から刃物の走る音が聞こえる。
中を覗くと、男が一人、作業台の前に立っていた。
肩幅は広くない。灰色の上着の袖を肘までまくって、細長い紙を揃えている。腰には鍵束が下がっていた。けれど、歩いても金具の鳴る音がしない。手元だけが静かに動いて、紙の端が同じ幅で落ちていく。定規は使っていないのに、切り口が真っ直ぐだった。
エルゼが教えてくれたイメージ通りの人だった。
ライナルトはそのまま戸口を越えて、男の手元に視線を落とす。
「東寮旧館」
短い一言で、男の指が止まった。
刃先だけが紙の上に残る。
「客なら、注文を先に言ってください」
低い声だった。かすれてはいない。長く黙ることに慣れた人の声だと思った。
「注文じゃない。確認だ」
ライナルトの答えに、男はようやくこちらを見た。私と目が合ったのは一瞬だけで、すぐに視線が包みの方へ落ちる。その目つきで、何を持ってきたのかを測っているのが分かった。
「……誰から聞いた」
「エルゼ・ハルトマン」
男の喉が、一度だけ動いた。
「そうですか」
それ以上ごまかす気はないらしい。男は紙束を脇へ寄せ、刃を布で包んだ。
「...大きな声で話せる用件ではなさそうだ。そこから離れてください、扉を閉める」
戸板が閉まると、通りの音が薄くなった。店の中は広くない。作業台が二つ、乾燥中の紙を重ねた棚が一つ、奥には帳面を入れた箱が積まれている。人ひとりが暮らすには足りるが、隠れるには狭く感じる。
男は椅子を一脚、こちらへ寄せた。
「座ってください。立ったままだと、お互い落ち着かない」
私は礼を言って腰を下ろした。ライナルトは座らず、壁際に立ったままだ。
「お名前を聞いても?」
「テオです」
男は簡単に答えた。
「昔は学院の夜の見回りをしていました。今は紙を切ったり、写したりする仕事で暮らしています」
「三一七号室の夜番に入っていた人ですね」
私が言うと、テオはすぐには答えなかった。代わりに、作業台の端を指先で一度だけ払う。紙の粉が少しずれた。
「ええ、そうです」
言い訳ではなく、すぐ認めてくれた。
「学院全体の見回りが主な業務でしたが、ある日、急に三一七号室の見張りを頼まれました。本来は使われていないはずの部屋だったけどね」
記録に残っていない理由が、そこでようやく形を持った。
私は膝の上で指先を重ねる。さっきまで曖昧だったところに、木の節みたいな固い芯がひとつ入った気がした。
「ヴェラの指示ですか」
「直接は違います」
テオは首を振った。
「ヴェラ様と、東寮側の実務を知る人が話を通しました。私は鍵を預かって、廊下に立つだけ。名は聞くな、中を覗くな、誰か来たら時間を稼げ、それだけでした」
エルゼのことだ、と私は思う。
思っただけで口にはしなかった。
「部屋の中は誰かいましたか?」
「子供がいました」
「一人で?」
テオは私を見る。そのあと、少しだけ視線を落とした。
「基本は一人です。ですが、毎晩ではない。ヴェラ様が来る日もあったし、誰かが先に入って、先に出る日もあった」
「誰か」
ライナルトが口を挟む。
「顔は見ていない。見ないようにしていた」
「足音は」
「軽い。廊下の板を鳴らさない歩き方でした」
ライナルトはそれ以上聞かなかった。必要な線だけ先に拾っている顔だった。
私は包みを開き、机の上に切れ端を置いた。
”わたしは ここで まつ。”
三一七号室の机の奥から出てきた、下の一文だけ残った紙片だ。上の一行は、まっすぐ切り取られていた。
テオは紙に触れなかった。先に切り口を見た。
「やはり残っていましたか」
「知っているんですか」
「文そのものは、聞いたことがあります」
胸の内側が少しだけ縮む。椅子の縁にかけた指先へ力が入った。
「三一七号室の中から、声が聞こえたことがあるんです。大きな声ではありません。読む練習みたいに、同じ文を何度か繰り返していた」
「子どもの声で?」
「ええ」
私は喉の奥が乾くのを感じた。そう分かっているから、息だけ整えて先を待った。
「扉越しだったので、全部は聞こえませんでしたが、最後が“ここで待つ”だったことは覚えています」
やはり、この紙片は三一七号室の中にいた子が書いたものだ。
「最初の一行は」
私の声は思ったよりも低く出た。
「それは聞き取れていません。けれど、この切り口は覚えがあります」
テオは作業台の上から、細い紙端を一本拾ってこちらへ寄せた。
「私は右手で刃を入れます。左手は紙を押さえる。だから、繊維の起き方が片側に寄る」
そう言って自分の切った紙端を見せ、次に机の上の切れ端を見る。
「ですが、これは逆です。刃が入った角度が違う。きれいに見えますが、手が別だ」
私は身を乗り出した。切り口の細い毛羽が、片側だけほんの少し立っている。普通の人なら、言われなければ気づけないほど小さな差だった。
「あなたではないんですね」
「ええ。少なくとも、私ではありません」
「切った人間に心当たりは」
ライナルトの問いに、テオは少しだけ黙った。
その沈黙は、答えを持っていない人のものではなかった。
「……一人だけいます」
テオは奥の棚へ行き、小さな木箱を持って戻ってきた。中から、薄い束紙を一枚抜く。そこにも細い切り跡が残っていた。
「西書庫の写字係だった女です。マルグリットという名でした。紙を傷めず、一行だけ抜くのがうまい。私は昔、それを見て覚えました」
「西書庫」
私が繰り返すと、テオは頷いた。
「彼女は灰架室の整理に出入りしていた時期があります」
ライナルトの目が細くなる。
「今はどこにいる」
「製本通りの奥です。青い布を下げた店に移ったと聞いています」
「灰架室を離れた理由は」
「帳面には病気と書いてあります」
「実際は」
「整理役から外されたそうです」
短いやり取りが続く。ライナルトが問うた分だけ、必要な答えが返る。余分な言葉がないぶん、かえって隠しようのない線だけが机に残っていく。
私は切れ端の上に視線を戻した。
”わたしは ここで まつ。”
この下の一文だけが残っている。なら、その前にあった最初の一行は、待つ理由や相手に関わる文だったのだろうか。
「もう一つ、聞かせてください」
テオがこちらを見る。
「ヴェラは、その子に白紙本へ書かせるつもりだったんでしょうか」
問いを口にした瞬間、指先の内側が冷えた。自分でも、どこまで答えを聞きたいのか分からない。けれど、ここを避けると次へ行けない気がした。
テオはすぐには答えなかった。代わりに引き出しを開けて、短くなった鉛筆を一本取り出す。何度も削った先が丸くなっている。
「これと同じものを、三一七号室へ何本か運びました。下書き用の粗い紙も一緒に」
「……本に直接ではなく?」
「ええ。まず別の紙で書かせていたはずです」
「なぜそうしたのですか」
「手が止まらないか。文を最後まで書けるか。書いたあとで、何か変化が出るかを確認するためでしょう」
店の中が静かになった。外で荷車の車輪が石に当たる音がして、また遠ざかる。
私は紙片から目を離せなかった。
白紙本は、最初の一行で性質が決まる。
だから、いきなり本に書かせるわけにはいかなかった。
まず別の紙に同じ文を書かせて、何が起きるかを見る。
その順番なら、今までばらばらだった記録がようやく一本に揃う。
「ヴェラは、途中で止めたんですね」
私が言うと、テオは小さく頷いた。
「そう見えました。ある夜までは同じ準備が続いていた。けれど、その次には部屋が空になっていた。机の上の紙も減っていたし、運び込んだ鉛筆も一本だけ残っていた」
「なぜ止めた」
ライナルトが聞く。
「そこまでは分かりません。ただ、最後の夜だけ、部屋へ入った人間が二人いた形跡があった」
私は顔を上げた。
「二人」
「ひとつはヴェラ様でしょう。歩き方で分かる。もうひとつは、もっと急いでいた。階段の曲がり角で、片側だけ壁を擦っていた。」
テオは事実だけを並べる。断定しない。そこが、かえって信用できた。
「そのあと、最初の一行だけが抜かれた」
「ええ」
「なぜ一行だけ」
テオは少しだけ迷ってから答えた。
「下の文は、単独では意味が弱いからでしょう」
私はもう一度机の上の紙片を見る。
”わたしは ここで まつ。”
これだけなら、誰に向けた文か分からない。命令なのか、約束なのか、願いなのかも曖昧だ。
けれど、最初の一行が上にあれば話は変わる。
誰が待つのか。
誰を待つのか。
どこで待つのか。
それが一行目で決まる。
胸の奥にあった紙みたいなざらつきが、そこではっきり輪郭を持った。
「マルグリットは、その一行を知っている可能性がある」
「なら、直接確認しに行く」
ライナルトが答える。
それだけ言って戸口へ向かう。その背中に、迷いがない。
私も立ち上がり、切れ端を包みに戻した。
「話してくださって、ありがとうございました」
テオは首を振った。
「礼はいりません。ただ――」
そこで彼の目が、私の手元に落ちた。包みを押さえる指先を見ている。
「あの子は、怯えて書いていたわけではなかった」
私は動きを止めた。
「どうしてそう思うんですか」
「読む声が急いでいなかった。あの部屋で聞いた声は、確かめるみたいに、一文字ずつ置いていました」
それは思っていたより深く胸に入った。
爪先の内側に、細い針を一本置かれたみたいだった。
怖がっていた子ではなく、自分で文を追っていた子だった。
◇
店を出ると、通りの光はさらに低くなっていた。製本通りの奥へ向かう影が長い。
白紙本の行方は、まだ見えていない。
けれど、次に探すべき相手にはだんだん近づいている。
最初の一行は、本に書かれる前に、別の紙で繰り返し試されていた。
そして、その一行だけを切り取った手は、西書庫の灰架室に出入りしていた写字係につながっている。
私は包みを抱え直し、ライナルトと一緒に製本通りの奥へ向かった。




