第十三話 ー 書かれなかった一行
低い女の声だった。
扉が開くと、ランプの明かりが先に三一七号室へ差し込んだ。
女はその明かりを高く上げず、足元と机のあたりだけを静かに照らした。部屋の見方を知っている手つきだった。灰色の外套は裾が少し擦り切れ、胸元には古い学院章がひとつだけ留められている。白髪はきちんと後ろで束ねられていた。
「その部屋を開けたなら、書付も見たのでしょう」
ライナルトが短く返す。
「見た」
女はうなずき、私に目を向けた。
顔より先に、私の手元の紙と机の上を見ている。人を見る前に、相手が何を持っているかを確かめるようだ。
「私はエルゼ・ハルトマン。昔、この東寮の管理補佐をしていました。保存室の使いも、少し」
「ヴェラを知ってるな」
「知っています。全部ではありませんが、ここを使った理由なら」
エルゼはそう言って、部屋の中へ入った。
椅子を起こし、背に手を添える。
「三一七号室は、元々空き部屋として残してありました。ヴェラはそこへ、一人の子どもを置いていました」
その言葉のあとで、私は机の縁へ目を落とした。
古い木の表面には、浅い擦れがいくつも残っている。さっき見た跡と、その言葉を並べる。
「学院の子どもですか」
「いいえ、学院の保護記録には記録されていませんから、正式には違います。名を記録に載せたら、受け先を決める話がすぐ動きます。ヴェラはそれを避けたかったのでしょう」
「白紙本のためか」
エルゼは、今度はすぐにうなずいた。
「ええ。あの本は、空白のままだから重要だったわけではありません。最初に何を書かれるかで、受け取るものの性質が変わるおそれがあった。だから学院も宮廷も、誰に最初の一行を書かせるかを決めきれなかったんです」
私は、灰架室で見た札を思い出した。
初回記述前。
あの言葉の意味が、ようやく部屋の中の空気に結びつく。
「記述者と立会人が別なのも、そのためですか」
「そうです。書く人と、それを見届ける人は分けられていた。ヴェラは立会側でした」
エルゼの声は落ち着いていた。
でも、ヴェラの名を言うときだけ、椅子の背を押さえる指先に少し力が入る。
「その子は、記述者候補だったんですか」
「候補にされた子、です」
言い直した。
その順番が気になった。
「ヴェラは、あの子をそこから外そうとしていました。外へ大きく魔力を出せないのに、器のほうへ引く力が強い子でした。紙にも、封にも、器にも反応する。学院に置いておけば、いずれ白紙本の前へ連れていかれる。ヴェラはそう見ていたんでしょう」
私は手元の書付を見た。
”外向きの発現なし。受容は高い。”
さっき読んだ文字が、胸の中で静かに重くなる。
「それで、この部屋に隠した」
「ええ。数日だけのつもりでしたけど」
エルゼは机のほうを見た。
「白紙本そのものは持ち込んでいません。この部屋には入れない。それがヴェラの決めたルールでした」
その言葉で、私は机の中央に残る四角い跡へもう一度目を止めた。
灯りを近づけると、木目のあいだに細かな灰が入り込んでいる。灰架室の棚板に残っていた粉によく似ていた。さらに机の手前には、重い箱を引いたときにできる浅い摩耗がある。
「……いえ」
私がそう言うと、エルゼがこちらを見た。
「この机に、箱が置かれていました。厚みのあるものです。しかも、一度だけではありません。手前の擦れが二段になっている。置いて、少し引き寄せて、また戻した跡です」
ライナルトが机の脇へ寄る。
「灰の粉もあるな」
「はい。細かすぎます。部屋の埃ではなく、石棚の粉に近いです」
エルゼはすぐには答えなかった。
その代わり、机の表面を見つめる目が止まった。
「……雨の夜でした」
やがて、小さく言う。
「ヴェラが、灰色の箱を抱えてここへ来たことがある。『今夜だけ』とだけ言って、私には中を見せませんでした」
「白紙本だな」
「おそらく」
証言が、机の跡に追いつく。
部屋の中のものが、またひとつ事実に変わる。
私は引き出しを外した。
一番下の裏板の継ぎ目に、薄い段差がある。釘の頭は四つ見えるのに、木の沈み方は三つ分しかない。一本だけ、後から飾りのように打たれていた。
「ここ、確認してくれ」
ライナルトの声が落ちる。
「はい」
細刃を差し込み、板を浮かせる。
中から出てきたのは、薄い紙束と、短くなった鉛筆、それから細い紐で綴じた帳面だった。
紙束の一枚目には、縦線と丸が並んでいた。
二枚目には、同じ文字を何度もなぞった跡がある。
三枚目だけ、上の一行が真っ直ぐ切り取られていた。
残っているのは、その下の一文だけだ。
”わたしは ここで まつ”
私は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
「上だけ抜かれています」
声にすると、自分の声が少し遠く聞こえた。
ライナルトが紙を受け取る。
「最初の行だけだな」
「はい。刃で切っていますので、残す行を選んでると思います」
エルゼが息をのんだ。
「そんなもの、私は知りません」
「この紙を隠した場所も知らなかったか」
「ええ」
その返事は早かった。
嘘をついているようには見えなかった。
私は切り口に指を近づけた。
紙は古い。でも、上端の繊維だけ荒れ方が浅い。ずっと前に切った紙の縁なら、もっと埃を吸って寝ているはずだった。
「これ、切ったのは当時じゃないかもしれません」
二人が同時にこちらを見る。
「机の裏に長く入っていた紙なら、切り口ももう少し痩せます。ここはまだ繊維が立っている。あとで一行だけ持ち出した人がいるかもしれません」
ライナルトが短く言った。
「最初の文を知ってる奴だ」
「はい」
部屋の中が静かになる。
白紙本の本体だけじゃない。最初に書くはずだった一行まで、誰かが後から抜いている。
エルゼが、ようやく椅子から手を離した。
「ヴェラは、書かせまいとしていました」
「その根拠は」
ライナルトの問いに、エルゼは綴じ帳のほうを指した。
私はそれを開く。
日誌ではなく、短い観察記録だった。何枚かは抜かれている。残っている頁の字は小さい。
”同伴一名。記録上は空欄のまま。
筆記具への反応あり。封緘紙には反応せず。
村へ移すなら、手を使う仕事を”
その最後の一文を読み終えたとき、胸の奥で何かが静かに引っかかった。
「村へ移すなら……」
「ええ」
エルゼが言う。
「ヴェラは、学院の外へ出すつもりだったんです。書く前に。白紙本の前へ座らせるより、別の手の使い方を覚えさせたかった」
その言葉で、ようやく一つの線がつながる。
工房。紙。糸。綴じ。
私がいま持っている手の仕事は、偶然ではないのかもしれない。
でも、まだそこへ飛びついてはいけない気がした。
私は机の反対側へ回り込み、天板のもう一つの擦れを見た。先ほどから気になっていた場所だ。
「……エルゼ様」
「何です」
「ここにいたのは、一人だけじゃないかもしれません」
エルゼの顔がわずかに変わる。
「どういう意味です」
「子どもが一人、ヴェラが一人。その二人だけなら、机の減り方が合いません」
私は椅子を少し引いて見せた。
「低い側の擦れは、たしかに小柄な人です。でも反対側にも、同じくらい近い位置に爪の当たり跡がある。大人が普通に座って書くなら、もっと奥へ手を置きます。寝台の脇の床も、片側だけ踏み込みが浅い。短い足で何度も上り下りした跡です」
「子どもが……二人?」
「断定はできません。でも、少なくとも『大人一人と子ども一人だけ』の部屋には見えません」
エルゼは答えなかった。
その沈黙は、知らないというより、考え直している沈黙だった。
「夜番の記録が一晩だけ抜けています」
やがて、低く言う。
「箱が持ち込まれた翌日です。私は長く、ヴェラが消したのだと思っていました」
私は切り取られた紙の上端を見たまま言った。
「ヴェラが全部隠すつもりなら、下の行も残しません。これは、上に何が書いてあったか知っている人の抜き方です」
ライナルトが綴じ帳を閉じる。
「記録を消した奴と、一行を持っていった奴が同じとは限らない」
「ええ」
エルゼもうなずいた。
「この件には、ヴェラ以外の手が入っています。しかも、部屋の中の作りを知っている手です」
窓の外で、夜気に押された枝が一度だけ擦れた。
三一七号室の中に残っているのは、物ではなく順番だと思った。
誰かがここへ来た。
箱を置いた。
書かせまいとした。
それで、誰かが、最初の一行だけを持っていった。
エルゼが窓辺へ歩き、古い布を少し持ち上げる。
北庭の暗がりが細くのぞいた。
「三一七号室の夜番は、実はもう一人いた。表の勤務ではありませんから、帳面を見ても名は出てきません」
私は顔を上げて、エルゼの次の言葉を待った。
「彼は、鍵束を鳴らさずに歩く人でした。足取りに無駄がない。紙も、定規を当てずにまっすぐ切る。あの切り口を作れる人です」
私は手元の紙片を見た。
上端の線は細く、迷いがない。刃を途中で止めなかった人の切り方だった。
「その人は、今どこに」
エルゼは答える前に、ほんの少しだけ間を置いた。
「西門の外に、古い写字房があります。今は記録の写しを請け負う仕事場です。そこへ移ったと聞きました」
「行ってくる」
ライナルトが扉へ向かう。
私は紙束と綴じ帳を布で包み、鞄へしまった。
三一七号室は、入ったときより狭く見えた。
物が増えたからではない。
足りない一行のせいで、残されたもの全部がその切れ目へ引かれて見える。
扉の前で、私は一度だけ机を振り返った。
ここで誰かが待つ文をなぞった。
ここで誰かが、それより前の一行だけを持ち去った。
白紙本の行方は、まだ見えていない。
けれど、次に探すべきものははっきりした。
あの本に最初に何を書かせるつもりだったのか。
それを知っていて、あとから一行だけ抜いたのは誰か。
疑問を胸に抱えたまま、私はライナルトと一緒に西門の方へ向かった。
◇
「……ヴェラ。あの夜、帳面を空けたままにした意味が、やっと形になって見えましたね」
エルゼは二人を見送ったあと、そっとつぶやいた。




