↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才能なしと追い出されましたが、辺境で魔導書工房を始めます。──なぜか王国最高位の魔術師が、うちの工房に来るのですが?  作者: 森凛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/40

第十三話 ー 書かれなかった一行


 低い女の声だった。


 扉が開くと、ランプの明かりが先に三一七号室へ差し込んだ。

 女はその明かりを高く上げず、足元と机のあたりだけを静かに照らした。部屋の見方を知っている手つきだった。灰色の外套は裾が少し擦り切れ、胸元には古い学院章がひとつだけ留められている。白髪はきちんと後ろで束ねられていた。


「その部屋を開けたなら、書付も見たのでしょう」


 ライナルトが短く返す。


「見た」


 女はうなずき、私に目を向けた。

 顔より先に、私の手元の紙と机の上を見ている。人を見る前に、相手が何を持っているかを確かめるようだ。


「私はエルゼ・ハルトマン。昔、この東寮の管理補佐をしていました。保存室の使いも、少し」


「ヴェラを知ってるな」


「知っています。全部ではありませんが、ここを使った理由なら」


 エルゼはそう言って、部屋の中へ入った。

 椅子を起こし、背に手を添える。


「三一七号室は、元々空き部屋として残してありました。ヴェラはそこへ、一人の子どもを置いていました」


 その言葉のあとで、私は机の縁へ目を落とした。

 古い木の表面には、浅い擦れがいくつも残っている。さっき見た跡と、その言葉を並べる。


「学院の子どもですか」


「いいえ、学院の保護記録には記録されていませんから、正式には違います。名を記録に載せたら、受け先を決める話がすぐ動きます。ヴェラはそれを避けたかったのでしょう」


「白紙本のためか」


 エルゼは、今度はすぐにうなずいた。


「ええ。あの本は、空白のままだから重要だったわけではありません。最初に何を書かれるかで、受け取るものの性質が変わるおそれがあった。だから学院も宮廷も、誰に最初の一行を書かせるかを決めきれなかったんです」


 私は、灰架室で見た札を思い出した。

 初回記述前。

 あの言葉の意味が、ようやく部屋の中の空気に結びつく。


「記述者と立会人が別なのも、そのためですか」


「そうです。書く人と、それを見届ける人は分けられていた。ヴェラは立会側でした」


 エルゼの声は落ち着いていた。

 でも、ヴェラの名を言うときだけ、椅子の背を押さえる指先に少し力が入る。


「その子は、記述者候補だったんですか」


「候補にされた子、です」


 言い直した。

 その順番が気になった。


「ヴェラは、あの子をそこから外そうとしていました。外へ大きく魔力を出せないのに、器のほうへ引く力が強い子でした。紙にも、封にも、器にも反応する。学院に置いておけば、いずれ白紙本の前へ連れていかれる。ヴェラはそう見ていたんでしょう」


 私は手元の書付を見た。

 ”外向きの発現なし。受容は高い。”

 さっき読んだ文字が、胸の中で静かに重くなる。


「それで、この部屋に隠した」


「ええ。数日だけのつもりでしたけど」


 エルゼは机のほうを見た。


「白紙本そのものは持ち込んでいません。この部屋には入れない。それがヴェラの決めたルールでした」


 その言葉で、私は机の中央に残る四角い跡へもう一度目を止めた。

 灯りを近づけると、木目のあいだに細かな灰が入り込んでいる。灰架室の棚板に残っていた粉によく似ていた。さらに机の手前には、重い箱を引いたときにできる浅い摩耗がある。


「……いえ」


 私がそう言うと、エルゼがこちらを見た。


「この机に、箱が置かれていました。厚みのあるものです。しかも、一度だけではありません。手前の擦れが二段になっている。置いて、少し引き寄せて、また戻した跡です」


 ライナルトが机の脇へ寄る。


「灰の粉もあるな」


「はい。細かすぎます。部屋の埃ではなく、石棚の粉に近いです」


 エルゼはすぐには答えなかった。

 その代わり、机の表面を見つめる目が止まった。


「……雨の夜でした」


 やがて、小さく言う。


「ヴェラが、灰色の箱を抱えてここへ来たことがある。『今夜だけ』とだけ言って、私には中を見せませんでした」


「白紙本だな」


「おそらく」


 証言が、机の跡に追いつく。

 部屋の中のものが、またひとつ事実に変わる。


 私は引き出しを外した。

 一番下の裏板の継ぎ目に、薄い段差がある。釘の頭は四つ見えるのに、木の沈み方は三つ分しかない。一本だけ、後から飾りのように打たれていた。


「ここ、確認してくれ」


 ライナルトの声が落ちる。


「はい」


 細刃を差し込み、板を浮かせる。

 中から出てきたのは、薄い紙束と、短くなった鉛筆、それから細い紐で綴じた帳面だった。


 紙束の一枚目には、縦線と丸が並んでいた。

 二枚目には、同じ文字を何度もなぞった跡がある。

 三枚目だけ、上の一行が真っ直ぐ切り取られていた。


 残っているのは、その下の一文だけだ。


 ”わたしは ここで まつ”


 私は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。


「上だけ抜かれています」


 声にすると、自分の声が少し遠く聞こえた。


 ライナルトが紙を受け取る。


「最初の行だけだな」


「はい。刃で切っていますので、残す行を選んでると思います」


 エルゼが息をのんだ。


「そんなもの、私は知りません」


「この紙を隠した場所も知らなかったか」


「ええ」


 その返事は早かった。

 嘘をついているようには見えなかった。


 私は切り口に指を近づけた。

 紙は古い。でも、上端の繊維だけ荒れ方が浅い。ずっと前に切った紙の縁なら、もっと埃を吸って寝ているはずだった。


「これ、切ったのは当時じゃないかもしれません」


 二人が同時にこちらを見る。


「机の裏に長く入っていた紙なら、切り口ももう少し痩せます。ここはまだ繊維が立っている。あとで一行だけ持ち出した人がいるかもしれません」


 ライナルトが短く言った。


「最初の文を知ってる奴だ」


「はい」


 部屋の中が静かになる。

 白紙本の本体だけじゃない。最初に書くはずだった一行まで、誰かが後から抜いている。


 エルゼが、ようやく椅子から手を離した。


「ヴェラは、書かせまいとしていました」


「その根拠は」


 ライナルトの問いに、エルゼは綴じ帳のほうを指した。


 私はそれを開く。

 日誌ではなく、短い観察記録だった。何枚かは抜かれている。残っている頁の字は小さい。


 ”同伴一名。記録上は空欄のまま。

 筆記具への反応あり。封緘紙には反応せず。

 村へ移すなら、手を使う仕事を”


 その最後の一文を読み終えたとき、胸の奥で何かが静かに引っかかった。


「村へ移すなら……」


「ええ」


 エルゼが言う。


「ヴェラは、学院の外へ出すつもりだったんです。書く前に。白紙本の前へ座らせるより、別の手の使い方を覚えさせたかった」


 その言葉で、ようやく一つの線がつながる。

 工房。紙。糸。綴じ。

 私がいま持っている手の仕事は、偶然ではないのかもしれない。


 でも、まだそこへ飛びついてはいけない気がした。

 私は机の反対側へ回り込み、天板のもう一つの擦れを見た。先ほどから気になっていた場所だ。


「……エルゼ様」


「何です」


「ここにいたのは、一人だけじゃないかもしれません」


 エルゼの顔がわずかに変わる。


「どういう意味です」


「子どもが一人、ヴェラが一人。その二人だけなら、机の減り方が合いません」


 私は椅子を少し引いて見せた。


「低い側の擦れは、たしかに小柄な人です。でも反対側にも、同じくらい近い位置に爪の当たり跡がある。大人が普通に座って書くなら、もっと奥へ手を置きます。寝台の脇の床も、片側だけ踏み込みが浅い。短い足で何度も上り下りした跡です」


「子どもが……二人?」


「断定はできません。でも、少なくとも『大人一人と子ども一人だけ』の部屋には見えません」


 エルゼは答えなかった。

 その沈黙は、知らないというより、考え直している沈黙だった。


「夜番の記録が一晩だけ抜けています」


 やがて、低く言う。


「箱が持ち込まれた翌日です。私は長く、ヴェラが消したのだと思っていました」


 私は切り取られた紙の上端を見たまま言った。


「ヴェラが全部隠すつもりなら、下の行も残しません。これは、上に何が書いてあったか知っている人の抜き方です」


 ライナルトが綴じ帳を閉じる。


「記録を消した奴と、一行を持っていった奴が同じとは限らない」


「ええ」


 エルゼもうなずいた。


「この件には、ヴェラ以外の手が入っています。しかも、部屋の中の作りを知っている手です」


 窓の外で、夜気に押された枝が一度だけ擦れた。

 三一七号室の中に残っているのは、物ではなく順番だと思った。


 誰かがここへ来た。

 箱を置いた。

 書かせまいとした。

 それで、誰かが、最初の一行だけを持っていった。


 エルゼが窓辺へ歩き、古い布を少し持ち上げる。

 北庭の暗がりが細くのぞいた。


「三一七号室の夜番は、実はもう一人いた。表の勤務ではありませんから、帳面を見ても名は出てきません」


 私は顔を上げて、エルゼの次の言葉を待った。


「彼は、鍵束を鳴らさずに歩く人でした。足取りに無駄がない。紙も、定規を当てずにまっすぐ切る。あの切り口を作れる人です」


 私は手元の紙片を見た。

 上端の線は細く、迷いがない。刃を途中で止めなかった人の切り方だった。


「その人は、今どこに」


 エルゼは答える前に、ほんの少しだけ間を置いた。


「西門の外に、古い写字房(しゃじぼう)があります。今は記録の写しを請け負う仕事場です。そこへ移ったと聞きました」


 「行ってくる」


 ライナルトが扉へ向かう。

 私は紙束と綴じ帳を布で包み、鞄へしまった。


 三一七号室は、入ったときより狭く見えた。

 物が増えたからではない。

 足りない一行のせいで、残されたもの全部がその切れ目へ引かれて見える。


 扉の前で、私は一度だけ机を振り返った。


 ここで誰かが待つ文をなぞった。

 ここで誰かが、それより前の一行だけを持ち去った。


 白紙本の行方は、まだ見えていない。

 けれど、次に探すべきものははっきりした。


 あの本に最初に何を書かせるつもりだったのか。

 それを知っていて、あとから一行だけ抜いたのは誰か。


 疑問を胸に抱えたまま、私はライナルトと一緒に西門の方へ向かった。

 

 ◇


 「……ヴェラ。あの夜、帳面を空けたままにした意味が、やっと形になって見えましたね」

 

 エルゼは二人を見送ったあと、そっとつぶやいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。