第十二話 ー 東寮旧館
学院区へ上がる石段は、夜になると人の気配が急に薄くなった。
昼の王都は道が人を押していくけれど、このあたりは違う。建物のほうが先に黙り、歩く者の足音だけを残していた。
私の外套の内側で、小さな鍵が触れ合って鳴った。
記録審査局を出るとき、オスカーが何も言わずに渡してきた古い真鍮の鍵だ。くすんだ金色をしていて、先の歯だけが長く使われたぶん少し丸い。掌にのせると見た目より重く、その冷たさがなかなか指から離れなかった。私は歩きながら何度かその重みを確かめた。
東寮旧館は、学院本棟の裏手に寄せるように建っていた。
使われなくなって長いはずなのに、完全に捨てられた建物には見えなかった。蔦は二階まで上がっているのに、通用口のまわりだけは荒れ方が浅い。窓を塞ぐ板にも、古い釘の横へ新しい釘を打ち直した跡があった。誰も住んではいないが、誰かが崩れきらないようにはしてきたのだとわかった。
「三階、北端でしたね」
「ああ」
ライナルトは短く答え、脇の通用口へ回った。
表の扉は封鎖されていたが、こちらの鍵穴は生きている。私が鍵を差し込むと、重い手応えのあとで、内側の錠がひとつ外れた。
扉を押すと、中の冷えた空気が顔に触れた。
廊下の隅には薄く埃が積もっているのに、壁際の一筋だけは擦れて色が違っていた。通用口から階段まで、同じ幅で靴底の跡が続いている。手すりの先にも、古い木のくすみとは別に、新しく触れた油の光が残っていた。
「誰か、入ってます」
私が小さく言うと、ライナルトが床を見た。
「昨日か今日だな」
ライナルトが言いながら、階段のほうに歩いて行った。
階段はオスカーの言葉どおりだった。
一段ごとに軋み方が違う。腐った板を避けながら上がると、三階の廊下はさらに暗かった。北端へ進むほど窓が減り、壁の白さも古く沈んでいく。
突き当たりの扉には、部屋番号の札だけが残っていた。
三一七
ライナルトが扉脇の壁に手をつき、気配を探る。
私はそのあいだに鍵を回した。今度はすぐには開かなかった。内側で何かが引っかかっている。
「机か何かが、倒れています」
「ちょっと待って。少しずらす」
ライナルトが肩で扉を押し、隙間を作る。私はその隙間から腕を入れ、床に倒れていた椅子の脚をつかんで引いたら、やっと扉が開いた。
目の前の部屋は広くなかった。
鉄の寝台がひとつ、机がひとつ、棚がひとつ。洗面台は壁際に寄せられ、窓には厚い布が半分だけ残っている。暮らしの跡は薄いけど、まだ完全になくなっていなかった。
「探されたあとですね」
「ああ」
それは、ひと目でわかった。
引き出しは開けたまま戻され、棚の本は背表紙だけ整っている。綺麗に見えるのに、よく見ると順番が合っていない。
ライナルトは寝台の下、洗面台の裏、窓枠の隙間を順に確かめていく。
私は机の前に立った。
机の天板には、薄く円い跡が二つ残っていた。
ひとつは大人のインク壺の跡。もうひとつは、それより小さい。
椅子もひとつしかないのに、机の縁の擦れは左右で高さが違う。低いほうは、子どもが何度も手を掛けたみたいに磨かれていた。
私はその跡に指を置いた。
「ここ、二人で使っていました」
ライナルトがこちらを見る。
「わかるのか」
「はい。筆記だけなら片側しか減りません。でもこれは、向かい合っていた減り方です。しかも片方は、背が低い人です」
言ってから、胸の奥が少しだけざわついた。
知らない部屋のはずなのに、机の前に立つ高さだけが、ひどく身体に近かった。
私は引き出しを一つずつ外した。
一番下の段だけ、底板が新しい。木目も、釘の頭も、ほかと合っていない。
「ここ、確認してくれ」
ライナルトの声が近くで落ちた。
「はい」
私は細刃を差し込み、底板の継ぎ目を探った。
打ち直した釘は四本あるのに、木の沈み方は三本分しかない。一本だけ、飾りだ。そこを押すと板が少し浮いた。
底板の下に、布張りの薄い箱が入っていた。
取り出して開く。
中にあったのは、紙束ではなく、糸で綴じた小さな帳面と、折り畳まれた書付だった。帳面の表紙には題がない。けれど見返しの紙だけが、他より上等だった。
私はまず書付を開いた。
文字は急いで書かれていたが、崩れてはいない。
未記述本は、初回記述者の定着で性質を決める。
選定前の保管を継続。学院内での記述は行わない。
立会はヴェラ・ヴェルナー。
私は二行目で息を止めた。
「学院内での記述は行わない……」
「灰架室の札とつながるな」
ライナルトが低く言う。
白紙本は、まだ白紙のまま保たれていた。
それは未完成だからではなく、どこで、誰が、最初に書くかを学院の中では決められなかったからだ。
私は書付の裏を見た。
そこに、さらに短い走り書きが残っていた。
候補一名。外向きの発現なし。受容は高い。
指先が止まる。
「外向きの発現なし、って……」
声が、少し掠れた。
ライナルトはすぐには答えなかった。
私の手元の字を見て、それから短く言う。
「魔力を外へ飛ばせない型だ」
私は書付から目を上げられなかった。
それは、私のことを言い換えたみたいな文だった。
魔法を飛ばせない。
けれど、まったく魔力がないわけじゃない。
受け取るほうに偏っている。だから紙や糸や革の細かな乱れだけは、手の中でわかる。
「まだ、決めつけるな」
ライナルトの声は低かったが、押しつける感じはなかった。
「同じ型が一人だけとは限らない」
「……はい」
返事をしたものの、胸の内は静かではなかった。
私は小さな帳面のほうを開いた。
これは日誌ではなく、観察記録だった。頁の多くは切り取られている。残っている箇所も短い。
”同伴一名。記録上は空欄のまま。
筆記具への反応あり。封緘紙は反応なし。
夜間、旧東寮三階北端にて待機。”
次の頁は抜かれていた。
その次には、たった一行だけ残っている。
”村へ移すなら、手を使う仕事を”
そこだけ、筆圧が少し強かった。
私はその文を見たまま動けなくなった。
手を使う仕事。
それは偶然でも書ける言葉だ。けれど、私には偶然に見えなかった。
「まだあるか」
ライナルトの問いに、私は帳面を閉じずにうなずいた。
「この部屋にいた人は、ただ隠していただけじゃありません。先を決めようとしていました」
「村へ移す先も、か」
「はい。少なくとも、同伴していた子どもをどこで生かすかまでは考えていたはずです」
そのとき、廊下の奥で床板が鳴った。
私たちは同時に顔を上げた。
一度だけではない。重さを測るように、慎重な足取りで近づいてくる。
ライナルトが帳面を私から受け取り、灯りを絞る。
部屋の明かりが落ちると、窓の隙間から入る月明かりだけが床に細く残った。
足音は扉の前で止まった。
「……そこにいるのは、誰です」
警戒しているような、女の声が聞こえた。
ライナルトが扉の脇へ寄る。
私は答えるべきか迷ったが、その前に、向こうがもう一度言った。
「ここまでたどり着いたのなら、ヴェラの名を知っているはずです」
私は息をのんだ。
ライナルトが短く返す。
「知ってる」
外で、小さく鍵束が鳴った。
「なら、開けます。こちらも、あなたたちを見たい」
ライナルトが一瞬だけ私を見た。
私はうなずいた。
扉がゆっくり開く。
廊下の暗がりに、ランプを持った女が立っていた。灰色の外套に、学院の古い徽章だけを留めている。髪は白いのに、目だけがまっすぐこちらを見ていた。
そしてその人は、私の顔を見た瞬間、ほんのわずかに息を止めた。
「……やはり」
それだけ言って、女はランプを持ち直した。
「その目をしているなら、ヴェラが何を残したか、あなたにも見る権利があります」
部屋の空気が、そこで静かに変わった。
消えた記録を追ってきたはずなのに、今はじめて、記録を残した側から扉が開いた気がした。




