第十一話 ー ヴェルナーの名
西書庫を出たとき、王都の空はまだ明るかったのに、通りの灯だけが先に夜の支度を始めていた。
荷馬車は止まらず、人の流れも緩まない。村では夕方になると音がひとつずつ引いていくけれど、ここでは逆に、見えないところから別の音が足されていく。
ライナルトは足を止めなかった。
私はその横顔を見上げて、ようやく聞いた。
「どこへ行くんですか」
「名を追う」
「ヴェルナーを、ですか」
「ああ」
それだけ言って、彼は人通りの多い道を外れた。
石壁の古い区画へ入ると、店の灯りが減り、その代わり窓の奥に机の明かりが残る建物が増えた。暮らしのための通りではなく、書きつけと保管のための通りだった。
やがて、背の高い煉瓦の建物の前でライナルトが止まった。
扉の上に小さく、王都記録審査局と彫ってある。昼間なら人の出入りもあるのだろうが、今は表の窓も半分しか明かりがついていない。
「ここに、知ってる奴がいる」
「書庫の人ですか」
「記録を見るほうだ」
言い方が少しだけ違った。
ただの案内ではなく、その人の役目を先に言うあたりに、ライナルトのわずかな信頼があるように聞こえた。
扉を叩くと、しばらくして内側から鍵が鳴った。
出てきたのは、三十代半ばくらいの男だった。細い銀縁の眼鏡を掛け、袖を折ったまま、まだ机の前から離れていない顔をしている。
男はライナルトを見るなり、眉を上げた。
「珍しいな。おまえが正面から来るとは」
「開けろ」
「挨拶が先だろう、普通は」
そう言いながらも、男は扉を広く開けた。
私に気づくと、その目が一度だけ止まる。
「連れがいるのは、もっと珍しい」
「記録を見たい」
「だから、順番があると言ってる」
口ぶりは軽いのに、相手を追い返す気配はなかった。
ライナルトも慣れているらしく、もう中へ入っている。
「オスカー。急ぎだ」
名前を聞いて、男――オスカーは、わずかに肩をすくめた。
「その呼び方をするなら、相当急ぎらしいな」
局内は静かだった。
紙と蝋と、古い木棚の匂いがする。西書庫の乾いた静けさとは違って、ここにはまだ人の手の温度が残っていた。机の上には開いた台帳が二冊、封を待つ書類が三つ。夜になっても終わらない仕事の途中なのだと、見ただけでわかる。
オスカーは私を見た。
「紹介は」
ライナルトが短く言う。
「製本師だ」
「それは見ればわかる。名前を聞いてる」
私は少しだけ息を整えてから答えた。
「イリス・ヴェルナーです」
その瞬間、オスカーの表情が止まった。
驚いた、というほど大きくはなかった。
でも、いままで机の上の紙でも見るように落ち着いていた目が、初めて私そのものを見る目に変わった。
「……ヴェルナー?」
「はい」
オスカーは返事をしなかった。
代わりにライナルトを見る。
「先に言え。先に言え。ヴェルナー姓だと」
「今言った」
「そういう意味じゃない。来る前に言え」
その短いやり取りだけで、二人が昔からこういう話し方をしてきたのだとわかった。
気安いわけではない。けれど、遠くもない。長く同じ種類の面倒を見てきた人たちの声だった。
オスカーは机の端を指で叩いた。
「何が見たい」
「白紙本」
それを聞いた途端、今度ははっきりと空気が変わった。
オスカーは机の上の台帳を閉じ、局の奥を振り返る。
「上じゃ駄目だ。下へ来い」
案内されたのは、閲覧室ではなく、奥の保管庫だった。
天井は低く、壁一面に引き出しがある。戸籍簿、滞在記録、学院出入、保護移送、書庫立会。札の文字だけ見ても、この都では人ひとりの名前が、何枚もの紙に分かれて残るのだとわかる。
オスカーが灯りをひとつ寄せる。
「ヴェルナー姓は多くない。だが、いないわけでもない。問題は、どの記録に引っかかるかだ」
「西書庫の灰架室に、立会指定でV. Wernerの名がありました」
私が言うと、オスカーがすぐにこちらを見た。
「どの種別だ」
「未記述本の保管注意書きです。受領ではなく、立会指定でした」
「……なるほど」
彼は少し考え、それから一番奥の引き出しを開けた。
中から出てきたのは、姓別の索引簿だった。厚い本ではない。その代わり、一冊ごとに参照先が細かく書き込まれている。
「ヴェルナー。ここ十数年で王都に正式登録があるのは七件。そのうち学院関係は二件。書庫と重なるのは一件だけだ」
頁を開いたまま、オスカーが読み上げる。
「ヴェラ・ヴェルナー。学院保存室付、立会権限あり。西書庫灰架室への出入り許可、一時付与」
私はその名を聞いて、喉の奥がかすかに鳴るのを感じた。
知らない名前だった。なのに、知らないまま聞き流せる名前ではなかった。
「その人は、今どこに」
「そこが抜けてる」
「抜けてる?」
オスカーは別の簿冊を机に置いた。
出入記録の束だ。紙の色がところどころ違う。私は見るより先に、綴じの乱れに気づいた。
「この束、後から触られています」
オスカーが眉を動かす。
「わかるのか」
「はい。ここだけ糸の返しが違います。抜いたあと、急いで綴じ直しています」
私は指先で折り目を追った。
頁を切ったのではなく、一折まるごと差し替えている。帳面に慣れた人のやり方だった。見つからないようにではなく、見つけにくい程度に隠す綴じ方だ。
「開けます」
ライナルトがうなずく。
「確認してくれ」
私は骨べらを差し込み、背を少しだけゆるめた。
一折を浮かせると、そこに薄い挟み紙が入っていた。帳票ではなく、参照札だったらしい。
抜き出してみると、記録は二行しか残っていない。
ヴェラ・ヴェルナー 立会申請
同伴一名 記録外
私はその二行を何度も見た。
「同伴一名……」
オスカーが低く言う。
「普通は書く。名前を伏せても、年齢か身分くらいは残す」
「意図的に隠したな」
ライナルトの声は短かった。
「はい」
私は参照札を灯りに傾けた。
下の端が、ほんの少しだけ焦げている。火で消したのではない。封蝋か薬剤をはがしたときの熱だ。
「これ、後から抹消したんじゃなくて、最初から隠すつもりで別札にしてます」
オスカーが腕を組む。
「正式簿から外し、参照だけを残した。そういうことか」
「見つかることも、少しだけ考えていたのかもしれません」
私が言うと、ライナルトが一度だけこちらを見た。
村の記録帳に入っていた紙片も、北庫の控えも、ただ消したいなら残らなかったはずだ。誰かはずっと、消し切らずに綴じ目だけを残している。
オスカーは今度は戸籍索引へ手を伸ばした。
そこにはヴェラ・ヴェルナーの居所も記されていたが、現住欄は斜線で消されている。代わりに小さく、別の文字が添えられていた。
「東寮旧館……学院の古い宿舎だ」
「まだ残ってるんですか」
「建物だけな。今は使われてない」
その名を聞いたとき、私の背中を何かがかすめた。
覚えている、とは言えない。けれど、石段を上がる足音みたいなものが、記憶の奥で一瞬だけ響いた。
私は無意識に机の端を握っていた。
「どうした」
ライナルトの声で、我に返る。
「……いえ。少しだけ、聞いたことがある気がして」
それが本当なのか、思い込みなのか、自分でもわからなかった。
ただ、東寮旧館という言葉だけが、ほかの地名とは違う重さで残った。
オスカーは引き出しを閉めずに、しばらく黙っていた。
やがて、ため息に近い息を吐く。
「ライナルト。まだあの件を追ってるのか」
「追ってる」
「八年前に終わらなかったから?」
「...そうだ」
返事は短かった。
でも、その短さの中に、切り捨てられない時間が入っていた。
オスカーは眼鏡を外し、机に置いた。
「おまえは昔から、記録より先に現場へ行く。だから抜かれた頁のあとばかり見る」
「悪いか」
「悪くない。だが、消えたものを追うだけじゃ足りない。残された帳面にも手がかりはある」
そう言って、彼は参照札を裏返した。
裏には、ごく薄く鉛筆の跡が残っていた。
表に書かれた二行の下に、消しきれなかった走り書きがある。
旧館三階・北端
私は息をのんだ。
東寮旧館の中でも、場所が絞られている。
「書いたのは、ヴェラ本人かもしれない」
オスカーが言う。
「あるいは、彼女を庇った記録官だ」
「この字、誰のものかわかりますか」
「今は無理だ。だが、走り書きを帳面に残す癖のある人間なら、局にも学院にも何人かいた」
彼はそこで少しだけ言葉を切り、私を見た。
「イリス。ひとつ聞く」
「はい」
「君は、自分の姓がどこから来たか知ってるか」
その問いは、静かだったのに、まっすぐだった。
逃げ場をなくすような厳しさではなく、曖昧にしておくには遅いと告げる声だった。
私は首を振った。
「……知りません。育ててくれた人からも、詳しくは聞いていません」
モーナでも村長でもない。
私を村へ置いていった人の顔すら、私はもうはっきり思い出せない。名前だけが残って、ほかは霧の奥へ引いている。
オスカーはうなずいた。
「なら、東寮旧館へ行け。たぶんそこに、君の名が白紙本の記録に残った理由がある」
ライナルトが参照札を受け取る。
「世話になる」
「礼はいい。その代わり、今度は何も言わずに消えるな」
「消えてない」
「そういう言い方をするからだ」
さっきから似たやり取りを何度もしているのに、そこにだけ妙な重さがあった。
この人はきっと、昔一度、ライナルトが誰の前からも姿を消した時期を知っているのだと思った。
保管庫を出る前に、オスカーが私を呼び止めた。
「イリス」
「はい」
「東寮旧館は放置されて長い。帳面より人を信じろとは言わないが、床と階段は信じるな」
私は少しだけ笑ってしまった。
「はい」
「それと」
オスカーは一瞬だけ迷うようにしてから、言った。
「ライナルトは不親切だが、筋の通らないことはしないから、安心していい」
「余計なお世話だ」
すぐ横から、短い声が飛ぶ。
「余計じゃない。君がまた一人で無茶をすると困る」
ライナルトはそれ以上返さなかった。その黙り方だけで、その先には踏み込ませたくないのだとわかった。
◇
局を出たら、外はもう夜に入っていた。
通りの灯が石畳に細く伸び、昼間より人影が少ないぶん、王都の広さだけがはっきり見える。
「東寮旧館へ行くんですね」
「ああ」
「オスカー様は、昔の知り合いなんですか」
「昔記録を追ってたとき、組んだ仲間だ」
◇
私たちは学院のある区画へ向かった。
石段を上がる道は静かで、夜気が少しだけ冷たい。東寮旧館という名を胸の内で繰り返すたび、知らない場所へ向かっているはずなのに、どこかで先に待たれているような気がした。
ヴェラ・ヴェルナー。
同伴一名。
旧館三階、北端。
名前だけだった線が、ようやく部屋の形を持ちはじめていた。
その部屋に何が残っているのか、まだわからない。
けれど今夜の道は、これまでみたいに消えたものを追うだけの道ではなかった。
誰かが最後まで消しきれなかった場所へ、まっすぐ向かう道だった。




