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106 例えばの話

「リシェル! 待って! 話を聞いてください!」


 走って逃げ出したリシェルは、廊下の途中で追いついてきたシグルトに腕をつかまれ、やむなく立ち止まった。


「さっきのはその、誤解しないでください! 決して浮気なんかではなくてですね……!」


「……キス、してたじゃないですか」


 必死になって言い訳しようとする婚約者を、リシェルはまともに顔を合わせるのを避け、上目遣いに見上げた。


 シグルトの顔には、今まで見たことがないほどの動揺と焦りがあった。


「あれは、その、仕方なくしていただけで」


「仕方なく? 仕方なくキスしなきゃいけない事情って一体何ですか?」


「それは……」


 言葉に詰まるシグルトに、ふつふつと苛立ちと怒りが湧いてくる。


「言えないんですか? 話を聞いて欲しいって言ったのは先生ですよ?」


 先程見てしまった光景……寄り添い唇を重ねる二人の姿が頭の中から離れない。ロゼンダの発言からして、二人は以前から関係があったようだ。彼女のリシェルに対する、妙に含んだ物言いや態度は、多分そのせいだったのだろう。


 いつだったか、ロゼンダがシグルトの体のあざについて言ってきたことがあった。つまりは……そういうことなのだ。あの時何も気づかなかった自分の鈍感さに腹が立つ。


「……ロゼンダ導師とああいうこと、前からしてたんですか? 何回も?」


「その、それは私が導師になる前までの話で……立場上仕方なく付き合っていたというか……さっきのだって不本意なもので……私は、彼女のことは本当にその……何とも思っていませんから」


 しどろもどろになるシグルトを、リシェルは険のある眼差しでじっとりと見た。


「……何とも思っていない人と、先生はああいうこと出来るんですね」


 初めて弟子から注がれる、その軽蔑混じりの視線に、シグルトはひるんだように一瞬息をむが、すがるように言い募った。


「リシェル。信じてください。本当に私には君だけで――」


「放してください」


 リシェルが冷たく言い放つと、腕を捕らえるシグルトの手の力が弱まった。その隙にさっとその手を振り払う。


「お願いだから……一人にしてください」


 顔を背け、言い残すと、振り返ることもせずにその場を走って後にする。去り際、視界の端でとらえたシグルトの表情は、見捨てられた子犬のような、ひどく情けないものだった。






 

 

 リシェルは、法院の外れにある、めったに人のこない林の中へと逃げ込んだ。小さな池の前でしゃがみ込むと、自然と目から涙があふれてくる。


 ローブのポケットの中から、心配そうに小さな黒い魔物が顔を出すが、リシェルはそっと手で中へ押し戻した。


「ごめん、グリム。見られたくない」


 シグルトはもうしないと約束したが、やろうと思えばグリムと視覚を共有できるのだ。いなくなったリシェルの様子を知るため、グリムの目を使おうとするかもしれない。泣いているところなど、見られたくなかった。


 小さな魔物は意をんでくれたのか、大人しくポケットに戻り、もう顔を出すことはしなかった。


 涙がぽろぽろと頬を伝う。次々溢れて止まらない。


 シグルトは仕方なく……と言っていたが、彼は黙ってロゼンダを受け入れていた。あんなにも濃厚な口づけを。


 本当に嫌なら拒めばいいのに。彼は導師だし、ロゼンダより強いのだから。


「もしかしたら……本当はロゼンダ導師のこと……」


 男なら誰もが振り返る妖艶な美女。その彼女と口づけしておいて、何とも思わないなど、あるだろうか。考えて、ぶわりと涙が盛り上がり、視界がにじんだ。


「愛してるって……言ったくせに……」


 どういう事情があるにせよ、婚約者が、リシェルがいるのに、他の女と口づけするなど許せるわけがない。


 さっき横っ面を引っ叩いてやればよかったとさえ思う。こんな憎しみに近い感情をシグルトに対して抱いたのは初めてだ。


 悲しみと怒りが涙とともに湧き上がり――ふと気づく。


(あの時の先生も……同じだったのかな?)


 リシェルとエリックの口づけを見てしまった時のシグルトの気持ち。それは今まさに自分が感じているものと同じだったのではないか。


 信じていたのに、裏切られたという怒りと悲しみ。

 自分のことなどどうでもよいのかという不安。

 自分がいるべき場所にいる相手への激しい嫉妬。 

  

 もしそうなら―― 


「大丈夫かい?」


 突然背後でした声に、リシェルはびくりと身を震わせ、驚いて振り返った。

 

 そこに立っていたのは、長い金髪の、濃紺のローブをまとった美青年。彼のすらりとした長身が日の光をさえぎって、リシェルに影を落としていた。眉を下げ、心配そうにこちらを見下ろす、彼の赤い瞳を見た瞬間、ぞくりと背筋を冷たいものが走る。

 

「かわいそうに。こんなに泣きはらして」


 ヴァイスは身を少しかがめ、リシェルのれたほおへと手を伸ばしてくる。触れられる前に、リシェルはその手から逃れるように立ち上がった。涙をぬぐいながら、慌てて頭を下げる。


 心臓がばくばくと鳴っていた。なぜだろう。彼の声も表情も柔らかく、とても好意的なのに、彼を怖いと思ってしまうのは。初めて会ったときからそうだ。彼には何か他の人間と違う、違和感があった。


「何があったんだい?」


「い、いえ、別に……」

 

 問われて、リシェルはごまかそうとしたが、ヴァイスは気遣うように言った。


「……まあ、予想はつくよ。さっきロゼンダ導師が月の塔から出ていくのが見えたからね。大方、彼女がシグルト導師にちょっかいをかけている所でも見てしまったんだろう?」


 思いがけず言い当てられ、リシェルは目を見開いて、目の前の最年少の導師を見つめた。ヴァイスは微笑む。


「ロゼンダ導師のことなら気にしなくていい。彼女は昔から、強い魔道士の男とは誰かれ構わず関係を持とうとするから。まあ、今は僕とが一番多いけれど」


 くすっと笑いをらしながら、何でもないことのようにさらりと告げられ、その意味にリシェルは顔を赤くした。

 

「シグルト導師が導師になる前までは、彼が一番のお気に入りだったようだけど……安心していい。彼女にシグルト導師に恋愛感情なんてない。もちろん、シグルト導師にもね。ロゼンダ導師が自らの術の行使のために、一方的に関係を迫っているだけだ。彼女もなかなかしつこいから、彼も迷惑しているんだろうね」


 困ったものだと言いたげに、ヴァイスは肩をすくめた。


「でも、彼は導師になってから……君を弟子にしてからは、彼女の誘いはすべて断っているよ。君は間違いなく一番大切にされている。心配はいらない」


「あ、ありがとう、ございます……」


 なんと答えてよいかわからなかったが、ただ彼が自分を慰めようとしてくれていることはわかったので、とりあえず礼を言う。同時に、他人の弟子を気遣ってくれるいい人なのに、怖いなどと思ってしまったことを申し訳なく思った。


「こんなに泣いて……」


 赤い目がじっと、意味ありげにリシェルを見下ろす。


「君は本当に、シグルト導師のことが大好きなんだね」


「え?」


 思いがけぬことを言われ、きょとんとして、リシェルはヴァイスを見上げた。

 彼は秘密を口にしているかのように、声を落としてささやく。

 

「彼に他の誰にも触れてほしくない。彼に自分だけを見ていて欲しい。彼の一番でいたい。彼を独占したい。彼に……愛されたい。そうだろう?」


「そんな……」


 違う。そんなはずはない。なぜならその感情はエリックに対して持ってしまったものだ。


 ……だが、それならなぜ、自分はこんなにも動揺し、怒り、不安にかられ、ロゼンダに嫉妬しているのだろう。

 

 どうして、涙が溢れて止まらないのだろう。


 黙り込むリシェルの反応をどう受け取ったのか、ヴァイスはくすりと笑う。


「恥ずかしがることはないよ。愛しい人に持つ感情が、全て綺麗なものとは限らないからね」


「愛しい、人……?」 

  

「おや、妙な反応をするね? 結婚するんだ。彼を愛しているんだろう?」


 ヴァイスは不思議そうに首を傾げた。


「私、は……」


 その問いに、リシェルは答えられなかった。シグルトに求婚された、あの日から、ずっと。


「自覚がないのかな? 君は彼といる時が一番、可愛らしく、幸せそうに笑っているよ。思わずシグルト導師に嫉妬するほどにね」


 他人から見た、シグルトといる時の自分は、そういうふうに見えているのか。


 ――お前は、あいつのそばにいる方がいいと思った。それがお前にとって幸せなんだと。


 エリックもヴァイスと同じように感じたからこそ、一度はリシェルから離れようとしたのだろう。


 そうだとしても。


「よく……わかりません……」


 先程の問いへの答えは出せなかった。


「そう? なら――」


 不意に――ヴァイスが動いた。リシェルへ一歩近づき、身をかがめ、顔を近づけてくる。その美しい顔面が目前に迫り、ぼやけ、唇同士が触れそうになったところで、ようやく彼の意図を察したリシェルは慌てて、後ろに飛び退いた。


「な、何するんですか!?」


「はは、やっぱり駄目か。残念」


 ヴァイスはさして残念そうでもなく、声を上げておかしそうに笑う。


「僕とは嫌?」


「あ、当たり前です!」


 リシェルは彼に対する警戒を一時解いてしまったことを後悔しながら、彼と距離を取るべく、じりじりと後退した。


 そんな少女を、若い導師は愉快そうに見下ろす。


「じゃあ、誰ならいいのかな?」


「誰って――」


 ヴァイスの唇の両端が吊り上がった。


「……ねぇ、今、誰の顔が浮かんだ?」

 

「……!」


 問われてリシェルはびくりと肩を震わせた。

 

 今、心に浮かんだのは――


 その動揺する心を見透かすように、赤い目がすっと細まり、見つめてくる。


「一つ聞いていいかな? もしも、その彼の命を救うために、僕と口づけしなければならないとしたら……君はどうする?」


「な、何の話ですか?」


「例えば、の話だよ」


 ヴァイスはどこか夢見るかのような、うっとりとした表情と口調で続けた。 


「君は、きっと彼のためなら何でもするのだろうね。愚かなまでに。自分を差し出すこともいとわず。……君にそんなにも愛されている彼が本当にうらやましいよ」


 その酔いしれているかのような赤い瞳の中に、仄暗い闇――以前ルーバスやシグルトが見せたのと同じ狂気じみたものを見て、リシェルの背筋が冷えた。

 

 わからない。この若い導師のことが。彼は一体何の話をしているのだろう。どうしようもなく不気味だ。一度忘れていた彼への得体のしれない恐怖心が蘇り、リシェルは早足で彼の横を通り抜けた。


「し、失礼します」


 長い黒髪をなびかせ、逃げるように足早に去る少女の背を、残された男の視線が追いかける。


「……そう、君は彼のためなら何でもする。アーシェがそうだったように」


 つぶやきは確信に満ちており、その赤い瞳はうるみ輝き、頬はわずかに紅潮こうちょうしていた。


「だから、僕はただ、舞台を整えるだけでいいんだ」


 恍惚こうこつとした表情で男は言い、くつくつと喉の奥で笑い声を立てた。


 鼻歌を歌い、上機嫌な様子で、ヴァイスは自身も林から出た。そこで、すぐ前をひるがえっていく濃紺のローブを認めて、さらに機嫌をよくした。彼がこの人気のない林を時折遊び場にして、“実験”をしているのは知っていたが、ここで会えるとは運がいい。

 

「ルゼル導師」


 目の前を歩く、年上の少年の名を呼び止める。


「……なんだ、ヴァイスか。何か用か?」


 振り返ったルゼルは、最近常にそうだが、虫の居所が悪いらしく、眉を寄せ、険のある表情で青年を見上げた。


「お忙しいところ申し訳ありません。少しお時間よろしいですか?」


 ヴァイスは見下ろす相手への敬意を忘れていないことを、丁寧な口調で示しながら言った。


「実は、先日の剣術大会で優勝した、あの黒髪の騎士のことなのですが――」


 喉の奥から湧き上がる笑いを、必死で噛み殺しながら。

 

お読みいただきありがとうございます。

今回が2023年最後の投稿となります。

まだこの章の終わりまでまとめて書いて投稿するか決めかねているところなのですが、来年なるべく早く更新できるよう頑張ります。

皆様、よいお年をお迎えください!

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