一般人の村
男が背中を押してこようとして、反射的に横へ避ける。
人の許可も得ずに背後を取ろうとするとは、どういう了見だ。
男を睨みつけようとした時、枯れた森の方から男女の悲鳴と、腐怪が木々を薙ぎ倒す音が響き、考える間もなく半獣化する。
「どこに行くんですか! あれは、囮人です──」
男が何か叫んでいたが、皮膜で低空飛行し男女の姿が見えてくる頃には、その声は背後に遠く消えていた。
「俺だって葉なのに! なんで囮人として使われてんの!?」
「なんでって、あんたが志願したんじゃない! アカネの代わりにって! 文句言ってないで、足を動かしなさいよッ」
「そうだアカネ! すまんセツナ、俺は逃げるっ。あとは一人で頑張って、じゃっ」
腐怪に追われてこちらに走っていた男女の男の方が、水を纏った瞬間、陽炎のように姿を消した。
「はあっ!? ちょっと待ちなさいよカケルッ。私は……一般人っなんだからぁあ!」
セツナと呼ばれていた女性が、毛先だけ赤みがかった灰色の髪を振り乱して叫んだあと、走りながら手に持った杖を腐怪の方へ向ける。
彼女とすれ違いざまに、杖の先から白光が放たれ、腐怪が怯む。
「あーっムカつくぅ! 葉の腐怪狩りなんて、クソ喰らえ! あいつらの遊びのせいで、花が一個使えなくなったじゃないっ」
低空飛行したまま抜刀し、刀身に指を走らせ夜光の浄化を纏わせた。
流れで、大きな腐怪の胴を横に一閃。
浄化の煙を上げつつ、まだ蠢く腐怪。
地面を踏み締め残心し、刀を上段に構えて、縦にもう一閃。
「え……え? 誰……つよ……」
ちらりと女性に視線を向け、軽く黙礼して、腐怪に視線を戻す。
だらりと刀を下げ持ち、浄化で縮んだ腐怪に近づく。
もう浄化できているが、念の為、地面に燻っている腐怪を上から両手で刀を突き刺し、世界に還るようリュウ様に祈りを捧げた。
一般人に難癖をつけられたら堪らない。投獄される気はない。
「ちょっと! なんで腐怪に祈り捧げてんの!? 私のこと、馬鹿にしてる? 華か葉か知らないけど、囮人のことなんてどうでもいいんでしょ!」
びくりと肩が震えた。
さっと半獣化を解き、刀を腰に納刀し、女性より頭が高くならないよう身を屈めて頭を下げる。
「……なぜ、一般人のお方が腐敗の地にいるのか、私には分かりかねますが、私は定められた掟に則って対処させて頂きました。何か至らない点でも、ありましたでしょうか」
女性の動きが止まる気配を感じた。
一般人を見捨てたら投獄。下手したら処刑。
首筋に冷や汗が垂れる。布の下で唇を噛み締めた。
「……とうとう私たちの地位が向上した? そんなまさか……」
彼女の刺々しい視線が、舐めるように己の全身を刺してくるのを感じて、はっとする。
しまった。布で顔を隠したままだ。
後ろ手に回した手のひらに嫌な汗が浮かぶ。
「……凄い薄着。もしかして、貴方……他所からきた神木守なの?」
「はい。失礼いたしました。私はリュウの地からきた神木守、クロガネと申します」
自己紹介を望まれていたのか。てっきり無礼討ちされるのかと身構えただろ……。気性の穏やかな女性で良かった。
「なんでそんなに畏まってるのか分からないけど──」
背後の森から、雪を踏んで枝葉を掻き分ける音と不快な笑い声が響いてきた。
「……げ、きた。クロガネって言ったわよね? とりあえず一緒にきて。話は村でしましょう」
地面を見詰めて眉を寄せていると、視界に擦り切れた厚手の袖口が飛び込み、その袖口から泥で汚れた手が差し出されてきた。
一般人の女性の手が。切り傷と泥で汚れているだと。俺と同じくらいの年齢だろ? 普通もっと、白くて滑らかなものではないのか!?
「……私は神木守です。無闇に一般人の貴女の手を握る訳には──」
「何ごちゃごちゃ言ってんのよ! 葉の連中がきちゃうじゃない! 早く行くわよっ」
女性にむんずと後ろ手に回した腕を掴まれ、息を呑んでいるうちに、彼女に引き摺られるように森の奥に向かって道なき道を歩かされる。
一般人女性が俺の腕を握っているんだが? 俺は神木守だぞ? 罵られることはあれど、こんな躊躇も遠慮もなく一般人が触れてくるなんて。行商人が言っていたことは本当だったのか……。他の地では、神木守は敬われる存在だと。本当だったのか。
「あ! セツナお姉ちゃんっ」
「おー、セツナ無事じゃん。な、アカネ。セツナは大丈夫だって言ったろ?」
枯れた幹と幹の間に、しめ縄が張られた広場に着き、女性と一緒にしめ縄をくぐると、幼い少女の声とあっけらかんとした青年の声が聞こえてきた。
腕を引っ張っていた女性の手が離れ、無意識に触れられていた腕を擦りながら、俺より頭一つ分背の低い黒髪の男と、その男に小さな手を握られている少女を見た。
水を纏って消えた男だな。神木守が一般人を見捨てるなど、この男、処刑を恐れていないのか? ……この地では処刑されないのか……。いや、だとしても、守れるなら守るべきだろ。それとも、守る力がないのか。
じっと男を見ながら、鼻先まで覆っている布を首にずらした。
ならば、修練あるのみ。手合わせ願おう。
男に向かって一歩を踏み出した瞬間。
「あれ? セツナ、誰連れてき──」
「毎度毎度、一人で逃げんじゃないわよッ! ほんとは腐怪、浄化できんの、知ってるん、だから!!」
女性が怒声を上げて、男に駆け寄りその腹部を片脚で蹴り上げた。
男は潰れた呻き声を発しながら、広場の奥に吹っ飛んだ。
蹴りの体勢で、満足げな吐息をついている女性。
男の隣りにいた少女が、お姉ちゃん強ーいと、両手を叩いてはしゃいでいる。
女性を見つめたまま、たらりと額から冷や汗が垂れた。
お淑やかで優雅な一般人女性が……師匠みたいな動きを?? 本当に一般人なのか? それとも何か、特殊な体術でも修めた女性だったり……?
掲げた片脚を揺らして、地面にその脚を下ろした女性が、顔だけこちらに向けてくる。
乱れた髪の隙間から、意志の強そうな赤緑色の目が覗いた。
まずい、目が合ってしまった。
さり気なく目を伏せ、刀の柄に軽く手を置き、直立不動で女性の言葉を待つ。
「……何で目逸らすのよ! 私がカケルを蹴ったから? 一般人の癖に生意気だとでも言いたいの!?」
「いえ! 決してそのような意図はありませんでした! ただ──」
慌てて幾つもの言い訳を並べ立てようとして、彼女を視界に収めると同時に、広場の奥で伸びている男をつつく少女が目に付き、考えていた言い訳が全て吹っ飛んだ。
「……貴女はお強い方ですね。一般人の方が、それも女性が、神木守を気絶させてしまえるとは。どのような体術を体得されたのか、お伺いしても?」
彼女の鋭く尖った目が、戸惑ったように揺れて、何度か口が開閉されたあと、きゅっと引き結ばれた。
広場に沈黙が落ち、天幕のような家から微かに子どもたちの騒めきが聞こえてきた。
大人がいる気配はない。そもそも、ここはしめ縄で囲まれてはいるが、腐敗の地だ。なぜ、一般人がこんな危険な場所で暮らしている? 天幕の子どもたちも、一般人か? それとも神木守か。神木守だとしても、子どもだけでこの地にいるのは危険だろう。
「……私が強いんじゃなくて、この靴が凄いの。あーもう、疲れたぁ! クロガネ強いし、しばらくここにいるよね? いるって言いなさい! カケルッご飯!」
彼女が無造作に指し示した靴を見る。
普通の編み上げられた革靴に見えるが、所々に鋼鉄の飾りのような物が見え隠れしていた。
彼女が地面に座り込む。靴の底が見えた。紛れもない鋼鉄で覆われていた。
重くないのか? 何か特殊な塗料でも塗ってあるのかも、しれないな……。誰が作った物だ? 是非教えてもらいたい。
「ちょっと! にじり寄ってこないでくれる!? 蹴り飛ばすわよ」
靴から顔を上げると、間近に女性の顔が見えて、体が固まった。
靴が気になる余り、地面に屈んで彼女に近寄っていたらしい。
「姉ちゃん……その人、誰?」
「近ーい」
「お姉ちゃんの家族になる人ですの?」
「違う! クロガネが勝手に寄ってきたの! みんなもカケルとアカネを手伝いなさい!」
天幕から出てきたらしい幼い子どもたちが、女性の幾分柔らかい怒声に、楽しそうな悲鳴を上げながら、一際大きな天幕の中に走って行った。
「あんたはあんたで、何固まってるのよ」
「……っ失礼しました」
彼女から飛び退く勢いで、屈んだまま後退る。
「……この村には、私みたいな一般人しかいないの。カケルを除いて。だから、あんたみたいに強い神木守がいてくれたら、とても助かるんだけど。居てくれるわよね?」
一般人しかいない? 近くに神木の地があるのに、なぜここにいる? なぜ、一般人を神木守は守ってないんだ。あの男……カケルに聞けば、何か分かるか?
「ちょっと聞いてる!?」
「あ、ああ。聞いている……聞いています!」
彼女の顔が物凄く渋く顰められた。
故郷では、一般人を守ることは義務だった。守ったからと、誰からも感謝されたことはない。敬われて、丁寧に接してもらえるのが、こんなに満ち足りた気分になるだなんて、知らなかったな。
腰から鞘ごと刀を抜き、正座しながら右手側の地面に置く。
姿勢を正して、彼女の目を見詰めた。
「貴女に頼まれたのに、断る訳がありません。俺にできる範囲で、この村を守らせて頂きます」
強い意志を込めて言葉を紡ぎ、すっと頭を下げた。
「……なんで私が頭下げられてんの……? 有り難いけど、畏まらないでよ! 守って貰うのはこっちなんだから。頭上げてってば!」
なんて謙虚な人なんだ。ここの一般人はみんなこの女性みたいに、優しいのだろうか。
ゆっくりと頭を上げると、困ったような赤緑の目と視線が交差した。
「何度か呼ばれたから聞いてたと思うけど、私はセツナ。よろしく。夕飯を食べたら、空いてる天幕に案内するから、好きに使うといいわ」
──セツナ。セツナ嬢。
何度か、彼女の名を脳内で転がして、無言で軽く頷いた。
故郷では感じたことの無い満足感に、目元が緩むのが分かった。




