ハルカの地
寒くなってきたな。
胞子の混ざった風が、道着の袖口と袴️の裾を煽り、冷たい空気が素肌を刺した。
口元を覆う黒い布の隙間から白い吐息が、灰色の視界に立ち上った。
片手で布を鼻先までずらして、皮膜で風を切り上空から急降下する。
眼下に枯れた森と、湖のような大きな泥川が飛び込んできた。
腰に差した刀の柄に手を遣り、皮膜をはためかせて空に立つ。
胞子に紛れて白い雪が視界を過ぎり、雪が流れてきた方に視線を向けた。
「あそこは……神木の地か?」
泥川の向こう岸。
枯れた森の奥に、純白の雪景色が広がっていた。
一本の巨樹が雪景色の中央に根を張り、その樹冠が雪の地を覆うように、枝葉を伸ばして白く輝いていた。
「本当に……あった、な」
この目で見るまでは、半信半疑だった。
リュウ様の他にも、神木があるなどとは。話では聞いていたし、故郷に迷い込んでくる行商人もいたから、故郷の他にも人が生きている地があるのは知っていた。それでも、見るのと聞くのでは、感じる衝撃が違う。
あそこに人は住んでいるんだろうか。
皮膜をはためかせて神木の地に向かいながら、目を細めた。
住んでいるとして、あの行商人が言っていたことは、本当だろうか。本当に、他の地では神木守が──。
泥川の上を飛び、孤島の森に差し掛かったとき、斜め下の前方から細長い腐怪がこちらを目掛けて、跳んだ。
額に青筋が浮かぶ。
抜刀しながら刀身に夜光の浄化を纏わせ、腐怪の胴に体ごと突っ込む。
勢いで口元の布が首までずれ落ちる。
構わず、胴を抉るように一閃。
赤灰色の血が己の二本の角と頬を汚す。
刀を持った手の甲で頬の汚れを拭う。
口端に滴る腐怪の血をぺろりと舐め、眉を顰めた。
「くっそ、不味いッ」
考え事の邪魔しやがって。ふざけんなよ、くそが。何考えてたか、忘れただろーが……。
真っ二つになって消えていく腐怪を尻目に、刀身に纏わせていた力を解く。
黒光りする靄がなくなり、刃こぼれ一つない、深蒼く透明な刀身が姿を現した。
リュウ様の幹から採れる、神石の一種。
昔から、なぜか良くしてくれた鍛冶師の業物だ。
故郷を出る時、何となく悟った。恨めしいけど、恨みきれない。
刀身を雪が濡らし、鍛冶師の姿が脳裏から遠ざかった。
修練の癖で、汚れていないのに血ぶりをして、納刀した。
腰に視線を落とした拍子に、後ろで緩く一括りにしていた硬質な黒髪が、ひと房顔に垂れる。
肩口で切り揃えて貰った髪。鍛冶師の妻が、新しい門出にと、ぎこちない表情を浮かべながら、切ってくれた。
しばし、空中で立ったままぼんやりとして、神木の地に向かおうとしていたことを思い出す。
首にずれ落ちていた布を持ち上げ、じっと見詰める。
胞子避けにと師匠から渡された布。師匠は今日も、家の壁……殴ってるんだろうか。
俺には殴るなと言っておいて、師匠の方が壊れそうなほど殴ってるのは、どうかと思う。
『あたしがいつ、壁を殴ったって? 腐怪を殴ることはあってもね、壁を殴ることはないよ!』
幻聴が聞こえ、冷や汗がこめかみを伝い落ちる。
持ち上げていた布で、鼻先までをさっと覆い、師匠の姿を脳裏から霧散させて、一直線に神木の地へ向かう。
枯れた森が途切れ、腐敗の地と神木の地の境目で、雪が積もった地面に降り立ち、半獣化を解いた。
境界の内側には、透明な氷壁が行く手を阻むように、縦へ横へと伸びていた。
「これは……神木守の力か?」
ここまで大きな氷壁を創るには、相当な力が必要だろう。……俺とどっちが強いんだ?
仁王立ちになり、胸の前で拳を構える。
構えた拳に夜光を纏わせ深呼吸。
カッと目を見開き、拳を壁に叩き込んだ。
破砕音が辺りに響き、拳と壁の間に白い火花が散った。
土煙ならぬ氷煙が上がり、視界が晴れるまで壁に拳を押し付けていた。
壁が崩れる気配はなく、夜光を解きながら拳を胸元に引き寄せ、壁を見つめたまま拳を開閉させた。
氷壁に薄らとひび割れが走っているのが見えた。
「俺が、負けるとは……。感服した。後日また、対峙させて頂きたい」
胸元で拳を組み、礼をしていると、壁の内側から人々の騒めきが聞こえ、この氷壁を創った神木守かと顔を上げた。
氷壁の上に一人の強張った表情の男が顔を覗かせてきた。
「ど、どこからきた神木守だ? 普通に声を掛けてください……。裁定の再審を求めにでもきたんですか……?」
裁定の再審。なんの事だか分からないが、確かめたいことがある。
「あんたは、この地の神木守なのか?」
「……そうに決まってます。貴方は、ここがハルカ様の地だと知らない? 来るのは初めてですか?」
ここは、ハルカの地なのか。まあ、神木守が境界近くにいるのは当たり前だよな。
「今知った。なあ、ここでは神木守はどんな扱いを受けてるんだ?」
「……はあ? どこから来たのか知りませんけど、ハルカ様のお膝元では、神木守以外暮らせま──って、氷壁にヒビがぁぁ!?」
こちらに向かってロープを伝って降りてきていた男が、氷壁の一点を見つめて、空中でロープを離しそうになった。
「神木守以外暮らせない? どういう意味だ……?」
「玉の方様がお創りになられた氷壁なのに!?」
よたよたと地面に降り立った男が、沈黙の末にこちらを上目遣いで見てきた。
「……お強い方に失礼いたしました。貴方には裁定の必要もないようです。葉の身分として、この地で暮らして頂くことができます」
いや、別にここで暮らしたい訳ではない。玉の方、葉の身分? 分かる言葉で話してくれ。
「……葉の身分ではご不満ですか? 貴方の強さであれば華の身分が妥当ではありますが、他所の方ですしこればかりは、枝の私ではどうすることもできないのです。葉の浄化層で暮らすのは、私の夢ではありますが……ひとまず、あちらの方に門があるので、ご案内いたします」
男が近付いてくる。
言葉は分かるのに、意味が分からず無言になった。




