俺の思ってた異世界と違う……
森の入口は、拍子抜けするほどあっさりしていた。
柵もない。門もない。
ただ、そこだけ空気が違う。
見た目には何も変わらないのに、境目だけははっきり分かる。
ここから先は別の場所だと、理屈じゃなく肌が理解してしまう。
人界側の調査隊は、その手前で足を止めていた。
魔導具らしい器具がいくつも並べられ、淡い光を放ちながら周囲を測っている。
何かの数値を見ているのだろうが、俺には分からない。
ただ、その顔を見れば十分だった。
全員、最初からここまでのつもりだった。
奥へ進む気配が、一人もない。
「ここから先は、我々では長時間活動できません」
隊長格の男が、事務的な声で言った。
「定期観測も、この地点が限界です」
そう言われても、不思議と驚きはしなかった。
ああ、そういう場所なんだな、と妙に納得してしまったからだ。
誰も文句を言わない。
誰も無理を言い出さない。
ここでは、それが当たり前なんだろう。
俺だけが、まだ外の人間だった。
森の奥を見る。
暗いわけじゃない。
むしろ妙に見通しが悪いだけで、閉じている感じとも違う。
視線を上げる。
枝葉の間に何かがいそうで、でも何も見えない。
足元を見る。
土に見える。だが、ただの土じゃない気がする。
「……なんか、静かすぎないか?」
思わず口にすると、隊員の一人がすぐ答えた。
「魔界側の森林域は、基本的にそういう傾向があります」
「傾向っていうか、もっと別の何かだろ……」
自分で言っておいて、言葉が足りないと思った。
静か、というより音の置き方が違う。
風も葉擦れもあるはずなのに、耳に届く前に薄まっている感じがする。
その時だった。
ぞわ、と首筋に何かが走った。
「……見られてる」
小さく呟くと、何人かがすぐ周囲へ視線を走らせた。
やっぱり俺の気のせいじゃないらしい。
「ゲイザー種ですね」
「ゲイザー?」
名前だけ聞くと、何だか軽い。
けれど、説明を受ける前に気配の方が先に来る。
木々の隙間。
枝葉の重なり。
空気の薄い場所。
そこに一瞬だけ、“目”みたいなものがいた気がした。
透明で、輪郭が曖昧で、見えたと思った瞬間には消えている。
でも確かに、こっちを見ていた。
「見る為の魔物です。高魔素域に常在する観測種で、基本的に非接触です」
「観測って……」
「刺激しなければ問題はありません」
問題はない、と言われても落ち着かない。
見られてるのに、害意がないから平気だと言われると、逆に気になる。
だが隊員たちは、警戒こそしていても怯えてはいなかった。
嫌うでもなく、追い払うでもなく、ただ“そこにいるもの”として扱っている。
それが余計に、この世界の前提の違いを感じさせた。
「……変な世界だな」
誰にも拾われない独り言が、森の手前で消えた。
やがて、隊長が一歩後ろへ下がった。
その動きだけで、何となく分かってしまう。
ここから先は、俺一人だ。
「以降は、単独での行動になります」
「え?」
思わず振り返ると、調査隊の面々はすでに半歩、一歩と距離を取っていた。
まるで見えない線でもあるみたいに、誰もそこから先へ踏み出そうとしない。
「我々はここまでです」
「いや、ちょっと待てって」
さすがに声が出た。
けど返ってくるのは、申し訳なさでも励ましでもなく、ただ淡々とした説明だった。
「これ以上の継続進入は、魔素環境的に非推奨です」
「勇者であるあなたなら、進行は可能と判断されています」
判断。
その言い方が妙に引っかかった。
期待されている、でもない。
任された、でもない。
ただ、行けるから行け。そんな響きだった。
……最初から、こういう役回りだったのかもしれない。
戻る、という選択肢は口にされない。
拒否する理由も、今さら見つからない。
だったら、やることは一つだ。
――行くしかない。
そう思った瞬間、不思議と足は軽くなった。
開き直りに近いのかもしれない。
俺は一歩、森の中へ踏み込んだ。
その瞬間、世界の膜が一枚変わった気がした。
重い、わけじゃない。
苦しい、わけでもない。
ただ、薄さが違う。
音が遠くなる。
風が輪郭を失う。
目に映るもの全部が、ほんの少しだけ現実感をずらしてくる。
なのに、怖くはなかった。
怖いより先に、妙な静けさがある。
張りつめた静けさじゃない。
見守られているような、試されているような、そんな曖昧な静けさだ。
また視線を感じる。
どこからかは分からない。
でも、攻撃の気配じゃない。
見ているだけ。
それだけの存在。
「……ほんとに見てるだけなんだな」
苦笑混じりに呟くと、森は何も返さなかった。
歩きながら、自分でも少し変だと思った。
もっと恐怖すると思っていた。
異世界だ、魔界だ、未知の危険地帯だと散々聞かされてきたのに、実際に感じているのは“警戒”より“観察”に近い。
俺は今、森に入っている。
でも同時に、森の方からも見られている。
監視、というほど敵意はない。
観察。
その言葉が一番しっくりきた。
しばらく進むと、木々の向こうに違和感が見えた。
整えられた地面。
均一に切り出された木材。
自然の中にあるのに、不自然なくらい人工的な線。
さらに歩くと、それは建物の形を取った。
ログハウス。
そう呼んでいいのか一瞬迷うくらい、無骨で、機能優先で、でも妙に整っている。
森の中の仮拠点。
俺が想像していたのは、もっと雑で、もっと湿っぽくて、もっと“サバイバル感”のあるものだった。
けれど、目の前にあるそれは違う。
広い。
乾いている。
空気が軽い。
暮らすために作られたというより、最初から環境ごと制御している感じがした。
「……広いな」
思わず漏れた声に、建物の中から返事があった。
「騒がしいな」
落ち着いた声。
視線を向けると、木箱に腰掛けた赤髪の女――炎の魔将が、いかにも当然という顔でこちらを見ていた。
その“当然さ”に、まず戸惑う。
もっとこう、警戒とか威圧とか、そういう空気があると思っていたのに。
「いや、待てよ……森の中の拠点って、こんな感じになるのか?」
「なる」
即答だった。
いや、ならないだろ。
少なくとも俺の知ってる常識では。
中へ踏み入る。
床材は均一で、湿気が少ない。
木の匂いはあるのに、じめついた感じがしない。
壁も天井も仮設にしては整いすぎていて、どこか“生活の完成形”に近い。
その時、空気が動いた。
ふわ、と風が巡る。
次に熱が重なった。
吊るされていた布が、目の前で一気に乾く。
「は?」
理解が追いつく前に、ぴし、と乾いた音がした。
視線を向ければ、木材の一部に小さな亀裂が走っている。
「乾燥が甘いと木が傷むのでな」
淡々とした声がした。
振り向く。
そこにいたのは、魔王だった。
想像していた“魔王”と、目の前にいる存在が、頭の中でうまく重ならない。
もっと禍々しくて、もっと圧倒的で、もっと見るからに“王”っぽい何かを勝手に想像していた。
でも実際には、妙に落ち着いていて、そして何より――生活していた。
「いや、木も割れてるだろ……!」
思わず突っ込むと、補佐官らしき連中がそろって目を逸らした。
ああ、これ初めてじゃないんだな、と一瞬で分かる。
慣れてるんじゃない。
たぶん、もう諦めてる。
そこで、また視線を感じた。
見上げると、天井近くに“目”が浮いていた。
透明な、輪郭の曖昧な観測体。
「なんだあれ……」
「ゲイザーだ」
さっき森の入口で聞いた名前が、ここでもそのまま出てきた。
外にもいる。
中にもいる。
見ているだけの魔物が、この拠点では当たり前みたいに浮いている。
それが妙に、この場所らしい気がした。
警戒と日常が、変な形で同居している。
危険地帯のはずなのに、どこか暮らしの匂いがする。
でも安心できるかと言われると、やっぱり違う。
俺は小さく息を吐いた。
「……俺の思ってた異世界と違う……」
誰も答えない。
森は静かだった。
ログハウスの外にも、中にも、視線だけがある。
見る者として。
記録する者として。
ただそこに在るものとして。
この世界はたぶん、俺が勝手に期待していたみたいな、分かりやすい冒険の舞台じゃない。
もっと静かで、もっと妙で、そして――思っていたよりずっと、生活に近い場所だった。
…………いや、だいたいあの人のせいか。




