第9話 命の値段
夕方になると中層の風が変わる。
運河の方から来る冷気が、屋敷の角で向きを変えて、表の通りに流れ込んでくる。今日は昼過ぎから曇っていて光の変化では時刻が読みにくかった。
屋敷の正面扉の前にヤニクが立っていた。
昨日の追加依頼から一日しか経っていない。
扉を開けると、ヤニクが石段の方へ一歩下がった。
扉を閉めた。石段を降りて表の通りに並んだ。一月の夕暮れは早い。空が白から灰に変わりかけている。
「次男のシモン・ド・グロワールが、十年前、重篤な病にかかったそうです」
ヤニクが通りに目を向けたまま言った。「子供の時分で、王都の医師に頼んで、かなりの費用を払ったって。複数の筋から確認が取れました」
「シモンは」
「助かりました」
石畳が足の下にある。
ヤニクが何か言おうとして、止まった。止まったまま、通りに目を向けた。
風が一度来た。
十年前。シモンの病。かなりの費用。
全部が一つの場所に落ちた。
そういうことか。
「他に何か」
「それだけです」
ヤニクが少しだけこちらを見た。何かを計っているような間があった。
「……これ、どうするんですか」
答えなかった。
ヤニクは「余計なことを言いました」と小さく言った。それから来たときと同じように音もなく通りの人混みへ消えていった。
扇を持っていた。
気づいたのはヤニクの背中が見えなくなってからだ。いつの間に取り出したのかわからない。骨の跡が指の部分についていた。
風が来た。運河の匂いがした。冬の運河は凍っていて、その氷の上に今日の雪が積もって、岸との境がなくなっている。
十年前、グロワール子爵はシモンの命を救うために、一族の宝石を売った。財政が傾いていた家にそれだけの治療費を捻出する余裕はなかった。売る以外の手段が見当たらなかった。
誰にも言わなかった。
エドガーにも。シモン本人にも。遺言を書くときも言わなかった。
五年前、複製を作らせた。十年前に本物を手放して、その間は何もしなかった。何かが変わったからだ。エドガーの年齢から計算すれば、五年前は二十二歳だ。社交界に出始める頃だ。財産目録を正式に確認する機会があったかもしれない。何らかの理由で宝石の「存在」が問われる場面が生じた。そのとき初めて、子爵は複製の必要を感じた。
そして長男への遺言に「宝石を譲る」と書いた。
本物ではないと知りながら。それでも何かを残したかったからだ。
愚かな選択だ。
通りを人が一人、足早に通り過ぎた。荷物を抱えていた。息が白かった。その人間にはこの話は何も関係がない。
次男の治療費のために本物を売った事実が複製の存在によって疑惑に変わった。シモンが「本物のはずだ」と確信しているのは、父の目を見て育ったからだ。父の目に嘘がなかったのは事実だ。父は自分のしたことを疚しいとは思っていなかった。あの宝石はシモンの命だった。だから本物だった。
論理として成立する。
だからこそどこにも告発できる場所がない。
魔法被害補償法の申請。シモンが申請すれば「偽物の宝石を本物として渡された」という名目で補填を得られる。しかしそのためにはミラヴェルが「偽物だ」と証言する必要がある。証言すれば父子爵の選択が「詐欺」として記録に残る。シモンの命を救った選択がシモンを傷つける記録になる。
では誰のための申請か?告発しなければシモンの主張は宙に浮いたままで、告発すれば父の記録が汚れる。
正しい結論が常に正しい結果をもたらすとは限らない。
しかし、私にはその愚かさを、断罪できない。
なぜそう思うのか?
言葉にしようとして、止まった。
風がもう一度来た。今度は正面から来て、髪が乱れた。
扇を元の位置に戻した。
屋敷に戻り使用人に一言告げた。
「明日、グロワール家のご長男にお越しいただけるよう、文をお送りください」
「承知いたしました。ご用件は何と」
「ご相談がある、とだけ」
部屋に戻った。窓の外が完全に暗くなっていた。
残っているのは一つだけで、それは明日にしか進まない。
机の椅子に座って窓の外を少しの間見ていた。中層の灯りが石造りの壁に反射して、雪の上に橙色の帯が伸びている。
机の上に扇を置いた。
指についていた骨の跡が蝋燭の光に白く見えた。




