第66話 いつか、開ける
自室に戻ると、窓から光が入っていた。
昼の光だ。今朝の夜明けの光とは角度が違う。真横から入ってくるのではなく、少し上から入ってくる。窓の外に並木が見えた。葉が半分落ちていた。残った葉の色が変わっていた。緑ではなく、黄色と茶色が混ざった色だ。石畳の上にも葉が散らばっていた。風が吹くたびに、また一枚落ちてくる。落ちた葉が石畳の上で少し動いて、止まる。動いて、止まる。それを繰り返している。
この窓から外を見たのは、今月に入ってから何度かある。あのときは十月の朝で、並木はまだ葉を半分残していた。今もまだ半分残っている。同じ半分だが、色が変わった。見ていなかった間に変わっていた。昨日の朝の自分と今の自分は、持っているものが違う。
部屋に入って、扉を閉めた。静かになった。
外の音がまだ届いていた。荷馬車の音。風の音。並木が揺れる音。聞こえていたが、遠かった。今朝から今まで外にいた。今は中にいる。扉を閉めた音が、その境目を作った。
上着を脱いだ。
扇が手の中にあった。
上着の内側に入っていた。脱ごうとして、気づいた。昨日の朝、霜市場で上着の内側に入れた扇が、今も手に戻っていなかった。一日と一夜を経て、今も内側にあった。持ったまま帰ってきた。今日、扇を開いた場面がなかった。霜市場のサンクレールの前でも。記録院の個室でも。父の前でも。使わない一日があった。
机の上に、扇を置いた。
置いた後、少しの間、扇を見た。この一日を通じて、扇は道具であり続けた。机の上に置かれた扇は、今は静かにそこにある。
今日、母の手帳が記録院に加わった。
記録院の積み上がりは、これまで六件だった。今日、七件目が加わった。手帳は封印されている。今は使えない。しかし、ある。
あるということと、ないということは、まったく違う。
その言葉を、今朝サンクレールに言った。言いながら、自分でも確かめていた。消えない、ということの重さを、今日初めて別の角度から感じた。以前は「ある」ことの重さを使う側として感じていた。今日は、誰かのために積む、という感覚があった。
母が積んだ。母の積んだものを、今日ミラヴェルが受け取った。今日ミラヴェルはそれを記録院に積んだ。積む、ということは続く、ということだ。その誰かが誰かは、まだわからない。わからないまま、積んだ。
今日積んだことが、いつか何かになる。しかし、積んだ事実は消えない。その事実だけを、今日は持っておくことにした。
窓から外を見た。石畳の上の葉が、今日の光の中で黄色と茶色に見えた。この色は、この季節だけの色だ。毎年来て、毎年過ぎていく。今年の十月の色を、今日は見た。
母の手帳は記録院に眠っている。まだ使えない。しかし、ある。
母が五年前に始めたことを。私は今、同じ場所に立って続けている。
怖いか、と問われれば。怖い、と答えると思う。初めてそう思う。
しかし、やめる理由を。私はまだ、見つけていない。
「怖い」という言葉を、自分に使った。
初めてだ。これまで自分の中にある何かを「怖い」という言葉で呼んだことがなかった。今日、初めて呼んだ。使った上で、やめる理由をまだ見つけていない。
記録するかどうかを、考えなかった。
考えなかった、ということを今気づいた。記録する、しない、という回路が、今日は動かなかった。動かなかった、ということが、今日の自分の状態を示していた。
気づいたまま、窓の外を見た。
並木の葉がまた一枚落ちた。石畳の上で少し動いて止まった。
夜になった。
蝋燭を一本持って、部屋を出た。廊下に出ると、昼と同じ廊下だが、昼とは違う廊下だった。光の届かない場所が増えていた。蝋燭の光だけが、足元を照らしていた。
石床の冷気が足の裏に来た。今朝から感じてきた冷たさとは、また違う。屋敷の石床の夜の冷たさだ。七年間、この廊下を歩いてきた。七年間のこの感触の中に、今夜も立っている。
母の部屋の前に、来た。
昼間も何度か、この廊下を通った。通るたびに扉の前に来た。昼間見る扉とは少し違った。夜の木の色だ。同じ扉が、夜と昼で別の顔を持っていた。七年間、昼も夜もここにあった扉だ。
今日も、開けない。
しかし今日は、扉に手を触れた。
冷たかった。木の冷たさだ。石の冷たさとは違う。今朝の清潔な冷たさとも違う。木が、七年間の夜の冷気を吸ってきた冷たさだ。冬の準備をするように、少しだけ冷たくなっていた。七年間、誰も触れなかった。今夜触れた。手のひらにその七年間の冷たさが届いた。
冷たさを感じながら、朝この扉の前に立ったことを思い出した。あのとき、なぜ開けないのかを初めて問うた。答えは出なかった。答えが出ないまま、一日が過ぎた。今夜、答えの代わりに、手が扉に触れた。
いつか、開ける。まだ今日ではないが。
手を離した。廊下を戻った。
蝋燭の光が足元を照らしながら動いた。石床に蝋燭の影が揺れた。来たときと同じ廊下を、戻った。来るときと戻るときで、同じ廊下が違う重さを持っていた。廊下の奥に、自室の扉が見えた。
蝋燭の光が石畳の上で揺れた。
揺れた光が、廊下の石の上で形を変えた。変わって、また戻った。
その「いつか」が来るのを。私はまだ、知らない。




