第65話 十分ではないかもしれませんが
夜明けだ。
最後の一本の蝋燭が燃え尽きる前に、ミラヴェルは目を開けた。完全に眠れたかどうかはわからない。眠った、という感覚はある。しかし何時間だったかはわからない。体は動いた。動けることを知ってから、起き上がった。書庫の石の冷気が、一晩中そこにあった。それでも眠れた。眠れたことが、今朝の体の状態を示していた。
サンクレールがまだ壁際で眠っていた。昨夜と同じ姿勢で、毛布を巻いたまま眠っていた。ヤニクは目を開けていた。いつ起きたのかはわからない。アンセルムが棚の前に立っていた。書類を出していた。朝が来たらすることを、昨夜から決めていた人間の動き方だった。
手帳は、まだ手の中にあった。
昨夜から手放していなかった。眠りながら持っていた。なぜ手放さなかったかを問わなかった。ただ、あった。
ヤニクが記録院の入口まで外を確認しに行った。戻ってきて言った。
「いません。どこかで待機してるかもしれないけど。今は見えません」
昨夜、二人の人影がここにいた。今朝は消えていた。今いない、ということが今朝の行動の前提だ。
石造りの入口から、夜明けの光が差し込んでいた。外の空気が入ってきた。冷たかった。しかし昨日の冷たさとは違った。昨日の朝の、凍る手前の冷たさではなかった。昨夜の書庫の石の冷気でもなかった。今朝の空気は清潔な冷たさだ。冷たいが、何かが含まれていない。削ぎ落とされた後の、清潔な冷たさ。
「行きましょう」
ミラヴェルが言った。手帳を持ったまま、入口に向かった。
手帳は上着の内側にある。扇も上着の内側にある。二つが並んで、胸のあたりに当たっていた。昨日の朝から、ずっとそうだった。一日と一夜を経て、今朝も同じ場所にある。
外に出ると、王都の朝の音がした。荷馬車の音。呼び売りの声。十月の朝の音だ。来た道を帰る。同じ道だが、今朝は持っているものが違った。
アンセルムが書類を用意していた。
永久保存文書の登録手続きだ。記録院で最も重い権限を使う手続きで、前例は少ないが制度としてある。アンセルムが手続きの書類を机に広げたとき、サンクレールがその書類を見た。書類が何のためのものかを、サンクレールはすぐに理解したようだった。顔が少し動いた。
ミラヴェルはサンクレールの方を向いた。
「サンクレールさん。この手帳を、記録院に永久保存文書として登録します。ただし、封印した状態で。今すぐ使うための証拠としてではなく。存在するという事実を、消えない形で残すために」
「……それで、意味があるのですか?」
サンクレールの声に、疑いの色はなかった。意味を確かめたかった問いだった。五年間、証拠を持ったまま動けなかった人間が、今その証拠がどこへ行くかを確かめようとしている問いだ。
「あります。誰かがこれを知っている。それだけで、動けなくなる人間が生まれます。今はそれで十分です。今の私には、これが最善です」
言い終えてから、一瞬だけ、自分が言った言葉の意味を確かめた。言ったことは変わらない。
アンセルムが封蝋を手に取った。炎に近づけた。蝋が溶けた。手帳の合わせ目に蝋が落ちた。記録院の印章を押した。押す音がした。乾いた、小さい音だった。その音が、部屋の中で一度だけ鳴って、消えた。
手帳が封印された。七年間母が書き続けた手帳が、今ここで封じられた。封じられたが、ある。あるということと、ないということは、まったく違う。
サンクレールが封印された手帳を一度だけ見た。それから目を逸らした。
サンクレールが帰る前に、ミラヴェルに言った。
「リリアーヌ様は。ミラヴェル様のことを、いつも話していました。『あの子は私より賢い』と」
ミラヴェルは何も言わなかった。頷いた。
言葉にできるものと、できないものがある。今この瞬間は、頷くことだけが正確だった。「あの子は私より賢い」という言葉を、母がサンクレールに言った。サンクレールがそれを覚えていた。五年間覚えていた。今朝、ここで言った。その言葉が、今ミラヴェルの中にある。受け取った。それだけだ。
サンクレールが出て行った。ヤニクが「送っていきます」と言って、後を追った。足音が遠くなった。廊下の奥で消えた。
アンセルムが書類を片付けていた。部屋の中が、少し静かになった。今朝この部屋にいた四人が、今は二人になった。部屋が広くなったわけではない。ただ、音が減った。
アンセルムが書類をそろえながら、一度ミラヴェルを見た。何も言わなかった。ミラヴェルも何も言わなかった。
ヴォワール家の応接間に、父と兄がいた。
昨夜から帰らなかった。その一晩が部屋の空気にあった。父は椅子に座っていた。兄フェリクスが立ち上がった。
「どこにいた。夜中から」
「記録院です。調べたいことがあったので」
フェリクスが、ミラヴェルの顔を見た。何か言いかけて、飲み込んだ。飲み込んだ何かを、ミラヴェルは問わなかった。フェリクスの顔が、いつもと違った。顔に出た察し方だった。
父エティエンヌが、椅子の背に手をかけたまま言った。
「……お前は、よく気がつく。女の勘というものは、侮れないな」
いつもなら、この言葉はどこかに刺さった。今朝は違った。刺さる前に、言葉が出た。自分の口から出た言葉だ、という実感が、言い終えた後に来た。
「女の勘ではありません、お父様。論理と、目と。それから少しだけ、情です」
父の顔が変わった。珍しい顔だった。何かを言いかけて、言葉が来なかった顔だ。この顔を父がしているのを、ミラヴェルは初めて見た。言葉にする前に、動いた。
「失礼します」
それだけ言って、部屋を出た。
廊下に出ると、屋敷の静けさがあった。廊下の窓から、朝の光が入っていた。外の並木が見えた。葉が半分落ちていた。朝の光の中で見ると、残った葉が少しだけ色を持っていた。
帰ってきた屋敷の廊下に、同じ朝の光があった。同じだが、今朝は重さが違った。廊下の奥に、階段が見えた。
階段を上がりながら、父の顔を、一度だけ振り返らなかった。




