第67話 もう一冊
十一月になった。
ヴォワール家の庭に、雪はまだない。
しかし朝の空気は、もう冬の成分で出来ていた。
一月の冬と、十一月の冬は、同じ冬でも質が違う。
一月はただ寒い。
十一月は、まだ何かが残っている。
その「まだ」が何なのかは、今朝も特定できていない。
窓から見える庭は、秋に紫の花が数本咲いていた場所だ。今は枯れている。茎だけが細く残って、風にも揺れていない。今朝は七本。先週より一本減っていた。折れたのか、誰かが持ち去ったのか。どちらでも構わない、と思いながら、七という数字だけを頭の隅に置いた。
着替えを済ませた。扇は引き出しに置いてきた。今朝はまだ、必要だという判断をしていなかった。
廊下に出た。扉を閉めると、私室の中の温度が切り離された。廊下の空気は冷たく、石の壁から来る冷気が足元に溜まっている。
石造りの廊下は、朝になっても完全には明るくならない。壁に等間隔で並ぶ蝋燭台が、使用人によって点されている。一本ずつ、左から右へ。毎朝の順番は変わらない。
廊下の突き当たりに、母の部屋の扉がある。
毎朝この廊下を歩いてきた。扉の前を通り過ぎるとき、視線を向けることもあれば、向けないこともある。今朝はどちらにしようかなどとは考えない。体が先に動く。先日の夜に開けるまで、七年間そうしてきた。動かしたのは自分の意志だった。しかし今朝誰かがここを開けたのなら、それは別の誰かの意志だ。
今朝も通り過ぎようとした。
足が止まった。
考えるより先に、だった。理由を特定しようとして、最初は何も出てこなかった。ただ体が止まった、という事実だけがある。
そのまま立ったまま、廊下を見た。
一点ずつ確認する。
絨毯。長さは廊下の端から端まで、伸び切っている。毛足は緑がかった灰色で、踏まれる方向によって光の反射が変わる。毎朝私が歩く方向は北から南。母の部屋に向かう向きだ。使用人が通るのは朝早く、南から北に向かって。昨夜からこの朝までの間に誰かが歩いたとすれば、毛足の向きにそれが残る。
扉の前の絨毯を、近づいて見た。
向きが、違う。
南から北ではない。扉に向かう方向に、短い範囲だけ、毛が踏まれていた。二歩分か三歩分。踏まれた深さから、急いでいたわけではない。しかし迷った様子もない。目的地が分かっていた人間の歩き方だ。
次に蝋燭台。左から三本目。他の台と比べて、ほんの少し壁寄りに位置している。毎朝点す使用人は右手に燭台を持つため、台には触れない。人間がこの廊下を暗い中で通ったとき、肘か腕が当たる高さだ。元の位置に戻し切れなかった。夜か早朝に、この廊下を急いだ人間がいる。
扇を取りに戻ることを、一度考えた。
考えたが、戻らなかった。今ここに必要な情報は、扇がなくても確認できる。
扉に手をかけた。開いた。
秋の夜にここに立ったとき、蝋燭が一本だった。三人分の影が壁に落ちていた。手帳を閉じた音が、思いのほか大きく聞こえた。
今朝は違う。静かだ。光だけがある。窓から差し込む十一月の光は、床に届く前に色を失う。母の机が正面にある。扉から見て右手に扇掛け。埃が、水平な面にはどこも均等に積もっている。
荒らされていない。
それだけは、すぐに分かった。引き出しも棚も、表面上は何も変わっていない。探したのではなく、知っていた場所に行った。そういう入り方だ。
机の前まで歩いた。
引き出しを開ける。
中には何もない。
そうではなく、底の埃を見た。積もった埃には、下に置かれていたものの輪郭が残る。物の縁に沿って、わずかに高くなる部分がある。その縁の形が、長方形を示していた。縦十二センチ、横七センチ程度。
手帳のサイズだ。
「ない」
声には出なかった。
そこに何があったかは、今朝まで知らなかった。母の机の引き出しの中身を、確認したことは一度もなかった。しかし埃の形が、ここに何かがあった事実を示している。そしてその何かが、今朝ここにない。
引き出しを閉めた。
部屋を見回した。もう一度だけ。棚の上、床の隅、窓の桟。変えられたのは、引き出しの中だけだ。
母の扇掛けに、扇が三本かかっていた。埃をかぶったが、形は保っている。持ち去ったのは手帳だけだった。
部屋を出た。扉を閉める音が、廊下に短く響いた。
階段を降りながら、整理した。
三つの問いが立ち上がった。
一つ目。誰が入ったか。
二つ目。何が書かれていたか。
三つ目。なぜ今か。
三番目が最も重要だ。先日の夜、私は母の手帳を記録院に登録した。その直後に、もう一冊が消えた。登録という事実が、どこかへ伝わった。伝わる経路があった。そこを辿れば、誰が入ったかに繋がる。
この順番は、偶然ではない。
階段の最後の段を踏んだ。一階の廊下に、朝食の時間の気配がある。食器の音と、暖炉の熱。父の椅子が引かれる音がした。続いて、フェリクスの靴音。
二人はこの異変を知っているか、知っていないか。
知っていれば、何を見せるか。知っていなければ、何を返すか。どちらの場合でも、聞く価値がある。父は政治的な匂いを嗅ぐ。兄は現場の情報を持ち帰る。どちらも、自分では繋げない。それで構わない。繋げるのは私の仕事だ。
今日は、まず二人に聞く。




