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スミレ色の鑑定眼  作者: 猫じゃらし
第六章 銀の扉
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第63話 記録院に戻る

 三人で記録院を出たのは、夕方だった。


 手帳を読んでから、沈黙があった。蝋燭の火が一度揺れて、戻った。その後に、アンセルムが立ち上がった。


「今日の記録院の閉館は、もうすぐです」と言った。それだけだった。他に言葉はなかった。


 サンクレールが毛布を畳んだ。ミラヴェルは手帳を上着の内側に戻した。三人が動いた。外に出るまで、三人は何も話さなかった。話す言葉がまだ見つからなかった。それでも体は動いた。動けた。それだけのことが、今日の自分の状態を示していた。



 外に出ると、光が低かった。


 十月の夕方の光は、夏のそれとは角度が違う。真上から降りてくるのではなく、石畳の端から這い上がってくるような低さだ。石畳に影が長く伸びていた。並木の枯れかけた枝が、影を細く複雑にしていた。荷馬車が遠ざかっていく音がした。夕方の市場が締まりかけている時間だ。


 空は、まだ暗くなりきっていない。しかし明るくもない。十月の夕暮れの色は、どの季節の夕暮れとも違う。光が諦めているような、しかし完全には諦めていないような、その中間の色だ。今日がこの光の中にあった。


 ミラヴェルは手帳の重さを、上着の内側で感じながら歩いた。朝、霜市場で受け取ったときと同じ重さのはずだが、今はその重さの質が違う気がした。気がした、という言い方で今日はとどめた。



 ヤニクが隣に来たのは、記録院の正門から三十歩ほど歩いたところだった。


 声は小さかった。


「ミラヴェルさん、尾けられてます。二人。ロブ派の私服だと思う」


 ミラヴェルは歩調を変えなかった。前を向いたまま、一秒考えた。



 選択肢は三つ。


 一、逃げる。

 二、対峙する。

 三、記録院に戻る。


それが最善だ。中立機関の中では、誰も手が出せない。



「戻ります」


 サンクレールに向けて言った。ヤニクにも、アンセルムにも聞こえる声で。


 サンクレールの顔色が変わっていた。白くなった。蒼白という言葉が指すものを、ミラヴェルは絵や文字の中でしか見たことがなかった。今日初めて実物を見た。五年間隠れてきた人間の顔が、今この瞬間にしている表情だ。こういう顔をこの男は五年間の間に何度したのか。今日はそのうちの一度だ。観察した。観察として持っておいた。


 ヤニクがすぐに頷いた。サンクレールが一歩踏み出した。三人で来た道を引き返した。


 記録院の正門まで、何も言わなかった。ヤニクが一歩後ろから、後方の気配を見続けていた。足音の間隔を変えず、視線だけが動いていた。アンセルムは前を歩いていた。いつもの歩調だった。記録院の廊下を歩くのと同じ速さで、外の石畳を歩いていた。


 サンクレールの歩き方は、来たときと変わっていた。来たときより速く、しかし姿勢が低い。五年間の習慣が、今この石畳の上でも出ていた。三人それぞれの歩き方が、三人それぞれの今日を示していた。



 記録院の正門をくぐると、後ろで気配が止まった。


 アンセルムが入口から外を振り返った。石造りの柱の陰から、二人の人影が見えた。動かなかった。入ってこなかった。記録院は王室直属の中立機関だ。ここに入ることは、どの派閥の人間にも許されていない。許されていないことを彼らは知っている。だから止まった。


 石畳の上で二人が立っているのをアンセルムが見た。見て、正門の扉に近い位置から離れた。中から外が見えるということは、外からも中が見える。離れる場所を選んだ。


 アンセルムが内側に向き直った。


「……ここには入れません。ですが、安全ではあります」


「わかっています。今夜は、ここで考えます」


 アンセルムが少し頷いた。それだけだった。


 サンクレールが「申し訳ない」と言った。声が小さかった。自分のせいで、という言葉を続けかけて、言わなかった。


 ミラヴェルは答えようとして止まった。「あなたが来てくれなければ、何も始まらなかった」という言葉が、一瞬だけ口の手前まで来た。来て、止まった。


 代わりに、ミラヴェルはアンセルムを見た。


「今夜、使える部屋はありますか」



 アンセルムが第三書庫に三人を移した。


「ここが一番奥で、外からは見えません」と言いながら、迷わず進んだ。この建物の中のどこに何があるかを、全部知っている人間の歩き方だ。書庫に着くと、棚の奥から毛布を二枚出してきた。蝋燭を三本追加した。予備の蝋燭が棚のどこにあるかも知っていた。何かのときのための準備が、日常として染み込んでいる。


 サンクレールが毛布を受け取った。ヤニクが部屋を見回した。


「食べ物、取ってきます。霜市場にまだ知り合いがいる」


 ミラヴェルは一拍置いてから、言った。


「危なくないですか?」


 ヤニクが振り返った。少し笑った。


「おれは顔が売れてるんで」


 それだけ言って出ていった。笑い方が普段と少し違った。何かを持っている人間の笑い方だった。


 十分ほどで、ヤニクが戻ってきた。


 パンと温かいスープの入った器を持っていた。霜市場の屋台のものだ。十月の夜の空気の冷たさが、器の温かさをより確かなものにしていた。アンセルムが器を受け取った。サンクレールも受け取った。四人分あった。ヤニクが自分の分を最後に受け取った。


 四人で、書庫の中に並んで座った。今夜はここから出られない。出られない事実は変わらない。しかし今この瞬間、器の中のスープは温かかった。温かいものが手の中にある。それだけのことが、今夜の第三書庫にあった。


 蝋燭の光の中で、四人が食べた。言葉は少なかった。補う必要がなかった。今日のことが、言葉よりも重くここにあった。



 第三書庫の蝋燭が、四本になった。

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