第62話 その目を、正しく使いなさい
記録院の個室は、窓がない。
石の壁。低い天井。アンセルムが蝋燭を一本灯した。それだけが光源だった。外の十月の空気も、霜市場の音も、ここには届かない。扉を閉めると、三人の息の音だけが残った。扉が閉まる音が、廊下の音を切った。切れた後に、個室の静けさが来た。
サンクレールは入口の近くに立ったままだった。壁を見た。天井を見た。蝋燭の炎を見た。ゆっくりと視線が動いた。時間をかけて、この部屋を確かめていた。
ミラヴェルは待った。サンクレールが落ち着くまで、待った。
アンセルムがサンクレールの方を一度見た。二人の間に何かがあった。ミラヴェルにはわからない何かだ。わからないまま、先に進んだ。
机の上に、手帳を置いた。
置いた瞬間に、気がついた。
受け取った手の感触が、後から確認できない。霜市場の住処で両手に受け取ったとき、表紙の傷と紙の乾いた匂いは届いた。しかし、手のひらに何かが触れた感触そのものが、今、出てこない。何かが、あの瞬間に止まっていた。何が止まったかは、まだわからない。手帳は今、机の上にある。しかしその前の瞬間が、記憶の中でまだ定まっていない。定まらないまま、先に進んだ。
表紙に、母の名前はなかった。
名前を書かない習慣だったのか、書く時間がなかったのか。どちらかは今日の手帳では判断できない。ただ、これが母の手跡であることは、見た瞬間にわかった。なぜわかったかを、言葉にしようとして、やめた。ただ、言葉にしなかった。
手帳を、開いた。
補償基金の流用経路。王室財宝の偽造の手順。関与した人物の名前と役職。
ページをめくるたびに、見覚えのある名前と、見覚えのない数字が交互に出てきた。断片として掴んできたものが、ここでは繋がっている。改竄記録の断片。アンセルムが参照した文書の番号。カトリーヌが口にしかけて止めた人物の名前。それらが、ここに全部ある。断片として持っていたとき、それぞれは意味を持ちきれていなかった。ここで繋がって、初めて意味が完成した。
補償基金の流用先は三系統に分かれていた。うち一つはムーラン子爵を経由している。王室財宝の偽造には、宮廷の鑑定士が二人関与していた。名前が書いてある。役職が書いてある。日付が書いてある。
一つの日付に、ミラヴェルは目を止めた。母が死んだ年の、三ヶ月前だ。その日付の前後に、記録が集中していた。ページをめくった。読んだ。また止まった。
証拠として使えるものの形を、母は知っていた。知った上で書いていた。これは記録ではなく、設計だ。誰かに渡すために書かれた、引き継ぎの文書だ。
アンセルムが隣で無言のままページを見ていた。内容を知っている人間が、改めて読んでいる。サンクレールは壁際に立っていた。手帳の方に視線を向けなかった。目を閉じていた。閉じた目のまま、動かなかった。
最後のページを開いた。
筆跡が変わっていた。急いで書かれた字だ。整えようとした痕跡がなく、線が走っている。インクの濃さが一定ではない。途中で書き直した箇所がない。一気に書いた。時間がなかった。それだけのことが、筆跡に残っていた。七年間、この筆跡は残っていた。
ミラヴェルはその筆跡を見た。見ながら、読む前に一秒だけ止まった。止まったことに、気づいた。気づいたまま、読んだ。
「エティエンヌには言えない。フェリクスには絶対に言えない。ミラヴェルへ。その目を正しく使いなさい。あなたが大人になる頃には、誰かがこれを届けてくれると信じて」
一度読んだ。もう一度読んだ。二度目の途中で手が止まった。
止まった場所は「その目を」という部分だった。その目を、と書いた人間は、この目を知っていた。どういう目かを知っていた。正しく使いなさい、と書いた。母は知っていた。この目が何のためにあるかを。七年前に。
母は知っていた。父に言えば、政治的な判断で握り潰される可能性があることを。兄に言えば、兄が危険に飛び込むことを。だから誰にも言わずに、一人で動いた。そして、消された。
母は情で動いたのではない。守るべき人間を守るために、論理的に選択して、動いた。
私は今まで、何を信じていたのか。
母が一人で動いた、ということを、今まで考えたことがなかった。一人で調べていた。一人で記録していた。一人で手帳を作った。七年間、サンクレールの棚の裏に置かれていた手帳が、今ミラヴェルの震えている手の中にある。母がこの手帳を書いたとき、ミラヴェルはまだ子どもだった。「大人になる頃には」と書いた。大人になった。手帳は届いた。母の言葉通りになった。
使いなさい、という言葉は命令の形をしている。命令を残して、母は消えた。命令は七年後に届いた。届いた今、何をするかは、まだこれからだ。
手帳を、閉じた。
閉じる手が、震えていた。
隠さない。
アンセルムが正面を向いたまま何も言わなかった。サンクレールが壁際で目を閉じた。目を閉じたまま、動かなかった。
三人分の沈黙があった。どのくらい続いたか、測らなかった。手が震えていることを、ミラヴェルは把握していた。把握した上で、止めなかった。震えたまま、手帳を持っていた。蝋燭の光が、三人の影を壁に作っていた。三つの影が、それぞれの場所にあった。
震えていることを、アンセルムが見ていたかもしれない。サンクレールが見ていたかもしれない。どちらでもいい。隠さない、と決めた。
アンセルムが小さく息を吸った。吐かなかった。またしばらく三人が動かなかった。蝋燭の芯が小さく音を立てた。炎が細くなりかけて、戻った。
サンクレールが目を開けた。アンセルムが机の縁に手を置いた。三人がそれぞれの場所にいた。同じ部屋の中で、それぞれの場所にいた。ミラヴェルはそれを見た。次に何をするかは、この沈黙が終わってから決める。今は、ここにいる。
蝋燭の火が、一度だけ揺れた。




