第61話 動けずにいました
「五年前、リリアーヌ様と一緒に、調べていたことがありました」
サンクレールが言った。暖炉の炎が小さく揺れた。ミラヴェルは何も言わなかった。部屋の温度が、外の十月とは切り離されたままある。その温度の中で、サンクレールの声が始まった。昨夜から、あるいはもっと前から、話す言葉を持っていた人間の声の出し方だ。ミラヴェルはその声を聞いていた。
「補償基金の流用と、王室財宝の複製差し替えです。二つの問題が、根元で繋がっていることがわかってきた頃でした。証拠が揃いかけていて、あと少しだった。リリアーヌ様と二人で、もう少し時間があれば揃えられると話していた矢先でした」
少し、間があった。サンクレールが炎の方を一度見た。それから戻した。炎を見るのは、話の続きを探しているのではなく、話す順番を整えているときの目だった。
「その頃に、リリアーヌ様が亡くなった。病気で亡くなった、と聞きました。しかし、そうではないと、私は思っています」
ミラヴェルは続きを待った。「そうではないと思っています」という言葉を、五年間抱えてきた人間の声の質があった。抑えているのではなく、もう抑えることに慣れている声だった。今朝、初めて人に言った。
「私も、すぐに気づきました。狙われていると。その日のうちにアンセルムに相談した。彼が……手伝ってくれました。死亡診断書も、記録院への届出も、葬式の手配も。全部、アンセルムがやった。私は何もしていない。ただ、消えた」
最後の一文が、他と違う重さで落ちた。「ただ、消えた」という言葉を、サンクレールは短く言った。言い切った後に、しばらく間があった。
「妻には、知らせませんでしたか」
サンクレールが少し目を細めた。
「知らせれば、妻が嘘をつかなければならなくなる。それが嫌でした」
ミラヴェルは、その一言を聞いた。聞いて、一瞬だけ考えた。「それが嫌でした」という言葉の置き方を。謝罪でも弁明でもなく、ただそれが理由だったというように言った。その置き方が、この男の輪郭の一部を作っていた。
考えた。それだけにした。
しばらく、サンクレールが黙った。
炎が卓上の端を照らしていた。本の背表紙が光の端にある。サンクレールが膝の上で手を組んだまま、少し下を向いた。
下を向く前に一度だけ、ミラヴェルの顔を見た。見て、それから下を向いた。何かを確かめた一瞥だった。
今は、続きを待つ。
それから言った。
「ずっと、証拠を持ったまま、動けずにいました。一人では何もできない。でもリリアーヌ様以外に、信頼できる人間がいなかった。アンセルムは守るために手を貸してくれた。しかし調査を続けることは、二人ではできなかった。証拠を持ったまま、五年間、動けずにいました」
繰り返した言葉があった。動けずにいました、という言葉だ。最初と最後に同じ言葉を置いた。その繰り返しに、五年間の重さがあった。
一拍、あった。
「証拠とは何ですか?」
サンクレールが顔を上げた。口元が、わずかに緩んだ。泣いているわけでも笑っているわけでもない。ただ、何かが少し解けた、という種類の顔だった。問いが来ることを、待っていた顔だ。
この顔を、ミラヴェルは見た。見て、扇を持つ手が動きかけた。動かなかった。扇は上着の内側にある。今は出さない。この顔に、鑑定眼は要らない。
「そうですね。まず、それを」
サンクレールが立ち上がった。部屋の奥の棚に向かった。棚板の裏側、板と板の隙間に指を入れた。そこから、何かを取り出した。迷わず入れた。場所を体が覚えている。棚の前に五年間立ち続けた人間の、指の動き方だった。
小さな手帳だった。
表紙が褪せていた。角が擦れている。何度も手に取られた痕跡がある形だった。
サンクレールがそれを両手で持ったまま、少しの間、動かなかった。渡す前に、一度だけ手の中で持った。その一瞬を、ミラヴェルは見ていた。見て、何も言わなかった。
サンクレールが振り返った。
「これが、リリアーヌ様の手帳です。亡くなる直前、私に預けてくれました。『もしものときは、これを正しい人間に渡してほしい』と」
ミラヴェルは手帳を受け取った。
両手で受け取った。表紙に傷があった。縦に一本、細い傷。紙の乾いた匂いがした。七年分の乾き方をした紙の匂いだ、とわかった。重さは、思ったより軽い。厚みは、思ったよりある。この二つが、最初に届いた情報だった。
手帳の表紙を一度だけ、指先でなぞった。縦の傷の上を通った。鋭いもので入った傷ではない。長い時間をかけて擦れた傷だ。七年間、同じ場所に保管されてきた証拠でもある。
「開けてください」
「記録院で」
サンクレールが目を上げた。
「アンセルムが待っています。三人で読んだ方が良いでしょう」
サンクレールは少し驚いた顔をした。驚いたまま、頷いた。頷いた後に、立ち上がった。動く準備ができていた。
ミラヴェルは手帳を上着の内側に入れた。扇と並んだ。
外に出ると、ヤニクが戸の脇に立っていた。こちらの気配に気づいて、振り返った。サンクレールを一度見た。見て、何も言わなかった。
「記録院に戻ります」
「わかりました」
それだけで、三人が動いた。
石畳に朝の光が伸びていた。来たときより霜が溶けている。市場の声が少し増えていた。サンクレールが外を歩く足音を、ミラヴェルは少し後ろで聞いた。外の足音の方が、少し軽かった。
手帳は、思ったより軽かった。




