第60話 霜市場の奥
記録院の扉を押して、外に出た。
朝の空気が顔に当たった。十月の朝はそういう当たり方をする。肌に触れる前に、まず鼻の奥で感じる種類の冷たさだ。夏は光と冷気が一緒に来る。今朝は冷気だけが来た。光はまだ建物の隙間に挟まっている。
石畳に霜が残っていた。日の当たらない壁際だけ白い。踏むと、かすかな音がした。霜を踏んだことに気づいたのは、音がしてからだ。足の裏よりも耳の方が先に知った。
ヤニクが前を行く。ミラヴェルは少し後ろについた。二人の足音の間隔が、自然に揃っていた。記録院から霜市場まで、歩いたことはない。今日が初めてだ。ヤニクは迷わず歩いた。この道を知っている。道の両側に、朝の商人が荷を開き始めている。ミラヴェルはその間を歩いた。普通の人間の歩き方で、歩いた。
霜市場に入ると、朝の荷降ろしが始まっていた。
六月に来たときとは、市場の音の種類が違う。あのときは人の声が上に広がるように響いていた。今は音が石畳に吸われる。低く、短く、散っていく。荷馬車が通るたびに車輪の音が石を跳ねる。呼び売りはまだ少ない。
光が斜めに差している。真上からではなく、東の建物の隙間から横向きに入ってくる。石畳の霜が溶けかけていた。市場の端に枯葉が溜まっていた。風が吹くたびに動いて、また止まった。ただ動いて、止まった。
「ここでは普通の人間に見えた方がいい」
ヤニクが前を向いたまま言った。
ミラヴェルは扇を上着の内側に入れた。ヤニクの言葉に対して、反論しなかった。ただ、動いた。扇が内側に収まった。それだけだ。
市場の奥、喧噪が遠くなる場所に、古い倉庫がある。
ヤニクが戸の前に立った。三回、間を置いて叩いた。叩き方に癖がある。決まった形で叩いている。最初の二回が近く、三回目が少し離れる。その間隔を知っている人間だけが開ける叩き方だ。
しばらく間があった。戸の向こうで、何かが動く気配がした。移動する足音ではない。その場で姿勢を変えた気配だ。戸の向こうで、誰かが聞いている。
それから、戸が内側から開いた。
四十代の男だった。顎に薄い無精髭。服は質素だが清潔だ。戸を開けた後、すぐには招き入れなかった。外を見た。左を見て、右を見て、それから二人を見た。順番に迷いがない。何百回も同じ順番でやってきた動作だ。
目が、警戒していた。
年月の堆積を含んだ警戒だ、とミラヴェルは観察した。一日や一月では作られない種類の目。長く同じ場所で息を潜めてきた人間の目。外の気配を読む習慣が染み込んでいる。顔の皺の入り方も、首筋の緊張も、服の着方も、全部が同じことを言っている。この男は五年間、誰かに見つかることを最初の問題として生きてきた。それが体の使い方に出ている。
目だけ、と思いかけて、止まった。
これは観察だ。観察として続けた。
男の視線が、ミラヴェルの顔で止まった。
瞳の色を見ている。
ミラヴェルは扇に手をかけなかった。かける前だった。扇は上着の内側にある。この男の前では、扇を使わなくていい。その判断が、手が動く前に出ていた。
男の表情から、警戒が抜けた。一瞬だけ。しかし確実に抜けた。抜けた後に残ったものを、ミラヴェルは言葉にしなかった。
「……リリアーヌ様の、お嬢さん。」
扇は、内側にあった。
「中に入ってください」
サンクレールが戸を開けた。ヤニクが「おれは外にいます」と言った。振り返りもしなかった。すでに戸の脇に立っていた。ミラヴェルは中に入った。入る直前に、外の光を一度感じた。中に入ると、その光は扉の向こうになる。
住処は、小さかった。窓が一つ。小さく、南向き。今の時間は光が入っている。机の上に本が数冊。背表紙が褪せている。壁際に小さな暖炉。今朝は火が入っていた。生活のための最低限だけがある。それ以上のものを持ち込まなかった結果として最低限になった空間だ。何を手放したのかは、何が残っているかを見るとわかる。残っているものが、この男の五年間の輪郭を作っていた。
椅子を勧められた。座った。サンクレールが向かいに座った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。先に口を開くのがどちらになるか、という均衡ではなかった。どちらも、何かを測っていた。ミラヴェルは待った。サンクレールも待った。
暖炉の火が、小さく音を立てた。乾いた薪の音だ。火は安定していた。この住処に、毎朝火を入れる習慣がある。それだけのことが、今朝の暖かさになっていた。
サンクレールの手が、膝の上に置かれていた。動かなかった。静かに置かれていた。準備してきた人間の手の置き方だ。
サンクレールが先に言った。
「あなたのことは、リリアーヌ様から、聞いていました」
ミラヴェルは何も言わなかった。続きを待った。
その言葉の続きを、私は待った。




