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スミレ色の鑑定眼  作者: 猫じゃらし
第一章 青の鑑定
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第6話 死んだ誰か

 夜が深くなると白廊の蝋燭の匂いが変わる。


 熱が石に染みて、香水と混ざって、重くなる。夜会の後半特有の空気だ。人が動く速度が落ちて、話し声の密度が下がって、代わりに笑い声だけが長く廊下に響く。


 父が三人目の相手と話し込んでいた。政治的な会話をしているときの声の速度だ。長引く。


 私はその場を離れた。飲み物を取りに行くという動作を装いながら奥へ進む。この廊下を誰がどう歩いているかを父は把握していない。だから成立する。


 燭台が一定の間隔で壁に並んでいて、その間を歩くと光と影が交互に顔をよぎる。向こうから来る人間の顔も同じように変わる。

 夜会の廊下では人間の表情を正確に読むのが難しい。蝋燭の揺れが全ての輪郭を曖昧にする。社交の場が夜に設けられるのはそういう理由もあるのかもしれない。


 途中で二人から声をかけられた。一人は父の旧知の子爵夫人で季節の話を三言した。もう一人は同じ年頃の令嬢で来月の茶会の話をした。どちらも丁寧に返した。笑みの形を保ちながら、視線だけが先を見ていた。


 廊下の途中に中庭へ出る扉がある。開けはなたれていて、冬の外気が細く入ってくる。その前を通ると、香水と蝋燭の熱が一瞬だけ薄くなった。夜会の空気が剥がれて石の匂いがする。


 その扉の脇にエドガーがいた。年配の男性と話している。先ほどと同じ相手だ。笑みの角度が変わっていない。長い会話だとわかった。エドガーは抜け出せない位置にいる。


 シモン・ド・グロワールは大廊下の端に一人でいた。



 兄より線が細い。礼装は丁寧に整えられているが、着慣れていない印象がある。背筋は伸びているのに、どこか重心が定まっていない。目の動きが速い。部屋全体を何度も確認するように視線が動いて、戻って、また動く。

 誰かを探しているのか、誰かに見られていないか確かめているのか、この距離では判断できない。両手は体の脇に下ろしているが、指先がわずかに曲がっている。


 エドガーは人の中に立っていた。シモンは端にいる。兄弟で立ち方が対照的だ。


 近づいた。


「はじめまして。ヴォワール伯爵家のミラヴェルと申します」


「……グロワールのシモンです」


 一拍遅れた返事だった。社交の場の反応として不自然ではない。しかしその一拍の間に私のことを何か確認しようとした気配がある。


「先代のご子爵様には、父もお世話になっておりました」


「そうですか」


 エドガーと同じ返し方をした。しかし声の質が違う。エドガーの「そうですか」にはその言葉を受け取る重さがあった。シモンの「そうですか」はこの会話の行き先を測っている。どこへ向かうか、もう先を読んでいる。


 扇を開いた。


 廊下が暖かいので、という自然な仕草として。


 シモンの顔を見た。


 輪郭がどこも欠けていなかった。


 色彩の乱れがない。欠けが走らない。この人間も嘘をついていない。確信の根拠が彼の中にある。何かを見た、あるいは何かを知っている。その何かが「本物のはずだ」という断言を支えている。本気でそう信じている。


 扇を閉じた。


「ご不幸がございまして。どうかご自愛を」


 短い礼が返ってきた。シモンの目はもう別の方向を向いていた。背中がわずかに強張っている。緊張ではなく準備している人間の姿勢だ。何かを待っている。


 受け身の待ち方ではない。何かを起こそうとしている人間が機会を計っている。


 何を起こそうとしているのかは今の段階ではわからない。


 その場を離れながら、もう一度だけシモンの方を見た。人の流れの隙間から見ると、シモンは今度はエドガーの方向を確認していた。兄弟の間に廊下の人の流れがある。互いに視線は合わせていない。


 わからないという事実だけを持って父の方へ戻った。


「少し席を外しておりました」


「うむ」と父が言った。会話の相手はもう変わっていた。父の政治的な嗅覚が新しい話題を嗅ぎつけたらしい。


 私は半歩引いた位置に戻り、廊下の残りの時間をやり過ごした。今夜確認すべきことは確認した。あとは屋敷に帰るだけだ。



 馬車の中は静かだった。


 父が向かいの座席で目を閉じている。眠っているのか考えているのかは父の場合どちらとも判断できない。外の石畳の音が車体の底に伝わってくる。坂を下るたびに少しずつ揺れが変わる。


 今夜確認できたことを並べた。


 エドガーは嘘をついていない。シモンも同じだ。二人とも、宝石が本物だと信じている。


 この事実が意味することは何か?


 宝石が「偽物にすり替えられた」のではない可能性がある。最初から偽物だったとすれば、すり替えた人間は今夜の夜会にいない。呼ばれていないからか? 招待できない理由があるからか?


 死んでいるからか?


 グロワール子爵は先月亡くなった。財政の悪化は十五年前から始まった。詳細不明の大きな支出が十年前にある。ヤニクへの依頼では「五年以内」と絞った。


 この順番がおかしい。


 本物を売ったのが十年前だとすれば、なぜ複製を作るまでに五年かかったのか? 複製を作る理由が五年前に生じたのだとすれば、その理由は何か? 誰かが気づき始めたのか? 誰かに知られそうになったのか?


「気づかれた」なら複製は隠蔽のために作られた。「代替が必要になった」なら別の目的がある。どちらかによって関与した人間の動機が変わる。


 もう少し絞れる。


 複製を作る行為には二つの段階がある。職人への依頼と完成した複製の保管だ。どちらも単独ではできない。少なくとも一人、信頼できる人間が必要だ。

 その人間が今も生きているなら、アンセルムかヤニクのどちらかが情報を持ち帰れる。


 五年前に何が変わったのか?


 あるいは誰が変わったのか?


 扇を持つ手に力が入っていた。馬車が段差を越えた振動ではじめて気づいた。扇の骨の跡が指についていた。


 外を見た。中層の街灯が後ろへ流れていく。灯りの間に暗い部分が長く続く。冬の夜の速度で屋敷が近づいてくる。


 鑑定眼は綻びの存在を示す。意味を読むのは論理の仕事だ。二人に綻びがなかったという事実を論理で読んだ結果が「既に死んだ誰かだ」という結論なら、確認する方法は一つしかない。


 あとは確認するだけだ。

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