第5話 長男の輪郭
礼装の釦を留めながら、今夜の目的を一度だけ確認した。
エドガー・ド・グロワール。グロワール子爵家の長男。白廊の夜会に出席すると、フェリクスが昨夜の夕食で言っていた。グロワール家の話としてではなく、今夜の警備の引き継ぎの話として。兄は繋げていない。私は繋げた。
それで十分だ。
馬車に乗る前に扇を確認した。今夜は黒地のものにした。
白廊の蝋燭は人間の顔の輪郭を柔らかくする。
夜会のたびにそう思う。影の落ち方が昼間と違う。昼は陽光が骨格を正直に出すが、蝋燭の光は揺れるから、顔の造作が実際より曖昧に見える。社交の場が夜に設けられるのは理由のないことではない。
大廊下の両壁に燭台が並んでいる。石造りの天井が高く、足音と話し声が混ざって反響する。香水と暖炉の煙と、誰かの衣裳の毛皮の匂いが、全部同時に漂っている。父の斜め後ろ、半歩引いた位置に立つ。今夜の私の位置はここだ。この位置から部屋全体が視野に入る。
「ヴォワール伯爵、今夜もお越しいただいて」
父が誰かと挨拶を交わしている。私も会釈を返す。顔と名前は一致している。対応に必要な情報はそれだけだ。
微笑みの形を顔に乗せる。
社交の場ではこの形が全ての動作の基準点になる。特に何も感じていない表情と、何かを感じている表情の中間。どちらにも読める、どちらにも読めない。十七歳のデビューから今までこの形を崩したことがない。崩す必要がなかった、という方が正確かもしれない。
「ミラヴェル嬢、今夜も麗しい」
「ありがとうございます」
「最近はよくお見かけしますね。社交を楽しんでいらっしゃる?」
「ええ。学ぶことが多い季節です」
学んでいる。事実だ。
エドガー・ド・グロワールは大廊下の中ほどにいた。
二十代後半、背が高く、礼装の折り目が正確だ。先代の知人と思われる年配の男性の隣に立っている。会話をしているというより、させられているという印象の立ち方だ。しかし礼を失していない。
笑みの角度が一定だった。
相手が変わっても笑みの角度が変わらない人間は二種類いる。社交に慣れすぎて顔が固まっている人間か、今夜は社交に集中する余力がない人間か。エドガーはどちらかを確かめる必要があった。
父の会話が一段落したタイミングで自然な動線でエドガーの方向へ移動した。
「グロワール様、はじめまして。ヴォワール伯爵家のミラヴェルと申します」
エドガーが振り向いた。目の色は濃い茶色だ。一瞬だけ何かを探すような動き方をした。「ヴォワール」という名前に反応したのか、それとも別の何かか、この距離ではわからない。
「ヴォワール伯爵のご令嬢ですか? エドガー・ド・グロワールです」
「先代のご子爵様は、父もお世話になっておりました」
「……そうですか」
一拍の間があった。
短い間だったがその間にエドガーの顔の何かが動いた。父の話をされることに慣れていないのか、今は聞く準備ができていないのか? どちらかだ。
「この度はご不幸がございまして」
「ありがとうございます。おかげさまで、少しずつ落ち着いてまいりました」
言い終えてからエドガーが一度だけ視線を下に落とした。袖口のあたりを見るような動きだったが、何も確認していない。そういう目の動きだ。
落ち着いてきたという言葉の重さが声の底にあった。事実として言っている。
扇を開いた。
自然な仕草として顔の前で軽く扇いだ。蝋燭の熱と人の熱が混ざった廊下は、確かに暖かい。
エドガーの輪郭を見た。
整然としていた。
綻びがない。顔の造作の全体が均一に見える。色彩の欠けがどこにも走らない。
宝石が偽物だと知らない。
少なくとも今この場で、私に向けて語っていることについては。父の死のこと、遺産のこと、現在の生活のこと。何も隠していない。何も知らないから隠しようがない。
扇を閉じた。
「お体にお気をつけて」と言った。
「ありがとうございます」とエドガーが答えた。
それだけだった。私は父の方へ戻った。エドガーはまた別の挨拶の相手に向き直った。背中が少しだけ重そうだった。
まだ自分のものにしていない何かを、それでも手放せずにいる人間の背中だ。
蝋燭の光が揺れる度に人の顔の影が動く。
父が誰かと政治的な話をしている。声のトーンで判断できる。私は半歩引いた位置で、微笑みの形を保ちながら、今夜確認できたことを整理した。
エドガーは嘘をついていない。
この結果が意味することは一つだ。宝石が偽物であることを長男は知らない。次男シモンが「本物のはずだ」と主張しているのも、次男なりの根拠がある。では誰が知っていたのか? あるいは今も知っている人間が、この件にいるのか?
今夜はもう一人見なければならない相手がいる。




