第58話 はじめての綻び
記録院の石は、十月になると夏よりも深く冷える。
夏の冷たさは内側からくる。石の芯に残った夜の温度が一日かけて外へ滲み出てくるような、その種類の冷たさだ。十月はそうではない。外の空気が石に食い込んでいる。廊下を歩くだけで、足の裏から、それがわかる。同じ石でも、季節によって石の持ち方が変わる。今朝の記録院は、冷気を貯めこんだ石の建物だった。壁に触れると、指先から冷気が這い上がってくる。触れなくても、空気の中にそれがある。
この建物の石は、夏の間に蓄えた冷気を、秋になってから少しずつ放出する。放出しながら、外からの冷気も受け取る。その両方が今朝の廊下にあった。
ヤニクと二人、第三書庫へ向かった。記録院の正門は夜明け前でも開いている。当直の門番が二人、眠そうな顔でこちらを見た。ミラヴェルが名前を告げると、片方がうなずいて通した。この時間に来ることは珍しいが、ミラヴェルの顔はすでに通行証になっていた。
廊下の突き当たりを左に折れると、第三書庫への通路になる。通路の蝋燭は、朝の交換前の状態だった。芯が短くなっていて、炎が小さい。光の届く範囲が狭い。壁の影が濃く、足元がよく見えない。窓のない書庫に入ると、その狭い光だけが頼りになる。外の夜明けも、ここには届かない。
アンセルムは来ていた。
書架の端で文書を広げていた。こちらに気づき、立ち上がった。眼鏡の奥の目が少し丸くなった。この時間にミラヴェルが来ることを、想定していなかった顔だ。想定していなかった、という事実が、目の丸くなり方に出た。アンセルムは表情を制御する人間だ。それでも出た。記録院に長く勤めている人間は、概して表情が少ない。アンセルムはその中でも特にそうだった。それでも出た。出た一瞬を、ミラヴェルは見た。アンセルムはすぐに表情を戻した。しかし一瞬は消えない。
「ミラヴェル様……こんなに早く」
「記録を確認したいのです」
それだけ言った。何の記録かはまだ言わなかった。アンセルムが文書を置き、こちらに向き直るまでの間、ミラヴェルは一瞬だけ考えた。
どこから入るか。間接的な切り出し方もある。しかし余地は逃げ道でもある。今朝ここに来たのは逃げ道を作るためではない。一番短い経路を取る。
「サンクレール男爵の死亡記録を見せてください。五年前のものです」
「……サンクレール男爵、ですか」
アンセルムが言った。
ミラヴェルは扇を開いていた。
色が、そこだけ引いた。アンセルムの顔ではなく、その周縁、輪郭の内側のわずかな部分が、薄くなる。欠けというより、退く。光が当たったままなのに、一か所だけ影でもなく、透けでもなく、ただ薄くなった。名前を聞いた瞬間に出た。聞かれると思っていなかった名前を聞いたとき、人間の内側は一瞬だけ準備を失う。その隙間に、綻びが現れる。
準備を失った一瞬の隙間に、薄さが出た。薄さはすぐに戻った。しかしミラヴェルは見た。
初めてだ。アンセルムに綻びが見えたのは、今日が初めてだった。
アンセルムとの付き合いは長い。記録院に来るたびに言葉を交わしてきた。文書の照合を頼んだことも、情報の確認を頼んだことも、何度もある。その間、一度も綻びを見たことがなかった。見えなかったのではなく、なかった。今日まで。この「今日まで」という区切りが、今この瞬間に引かれた。
大きくはない。鮮明でもない。しかし確実にある。これは嘘ではない。嘘の綻びは鋭く出る。隠しているものの綻びは、滲むように出る。今アンセルムに見えているのは、後者だ。何かを隠している。長い時間をかけて隠し続けてきた何かが、名前を聞いた一瞬に滲んだ。何を隠しているのかは、今はまだわからない。
扇を開いたまま持っている。アンセルムはその扇を見た。見て、目をミラヴェルに戻した。扇越しに何かが見えているとは、思っていないだろう。それでいい。
問いは立てられる。アンセルムはサンクレール男爵を知っているか。知っているとすれば、どう知っているか。同僚として名前を知っていた程度の知り方と、隠していることから来る綻びは、一致しない。これは後者だ。判断するより先に、その結論が出ていた。
二人の間に、数秒の沈黙が落ちた。ヤニクがいる。後ろに立っている。第三書庫の入口の角の、少し暗い位置だ。ミラヴェルはアンセルムから視線を外さなかった。アンセルムも、ミラヴェルから目を逸らさなかった。その選択を、ミラヴェルは見ていた。
「アンセルムさん。あなたは彼を知っていますか?」
扇は、開いたままにした。
これは問いだ。しかし問いの形をした何かでもある。知っているかと聞いている。知らないという答えを、今のミラヴェルは想定していない。どちらを選ぶか、それをアンセルムは今、内側で判断している。どちらを選んでも、次の問いがある。ミラヴェルはそれを知っていた。
ヤニクが一歩下がった気配がした。書庫の隅へ、音もなく。空気を読む人間だ。
アンセルムは指先で眼鏡を一度直した。何かを整えようとした動作だ。習慣の動作とは、指の力が違った。答えをもう決めている。どう言うかを今、選んでいる。答えるかどうかを迷っている沈黙ではない。ミラヴェルにはそれがわかった。わかった上で、扇を開いたまま、待った。
蝋燭の炎が、書庫の奥でわずかに揺れた。アンセルムが息を一つ、ゆっくりと吐いた。その息の後に、静けさが来た。書庫の外から、廊下の足音が一度だけ聞こえた。遠く、別の方向だ。消えた。静けさが戻った。
アンセルムが、眼鏡の奥で目を閉じた。
書庫が静かだった。炎が小さく揺れて、また戻った。閉じた目の奥で、何かが決まっていくのを、ミラヴェルは待った。待つことに、今日は迷いがなかった。
そして、開いた。




