第57話 五年前
音が聞こえたとき、ミラヴェルはまだ起きていた。
仕事を終えて机を離れたのが、夜半を少し過ぎた頃だった。眠りにつけたかどうかは、はっきりしない。横になっていたのか、ただ目を閉じていたのか。どちらとも言えない時間が少しあって、それから音が来た。
裏口を叩く音だ、とわかるまでに一拍かかった。正面ではない。使用人の通用口でもない。屋敷の北側、中庭に面した扉。日中でも人の少ない入口を、ヤニクは使う。父も兄も、この扉の音には気づかない。気づかないことを、ヤニクは計算している。二度目に来たときから、ヤニクはこの入口を使っている。最初に使ったのがなぜそこだったかを、ミラヴェルは聞いたことがない。
外套を肩にかけて部屋を出た。廊下に人の気配はなかった。まだ夜明け前だ。足音を立てないように歩いた。この廊下の、どこを踏むと音が出るかを、体が覚えている。
裏口の閂を引くと、冷気が顔に当たった。秋の夜明け前の空気は、凍る手前の種類の冷たさを持っている。息が白くなるかどうかの境界に、毎年同じ時期に来る。今朝がそれだった。石の壁がその冷気を閉じ込めていて、扉を開いた瞬間だけ放出される。夏は光と一緒に熱が来る。今朝は光より先に冷気が来た。
ヤニクが立っていた。外套の袖に枯葉が一枚ついていた。霜市場の方角から来ると、あの並木道を通ることになる。夜通し歩いていた人間の顔だった。疲れているのではなく、どこかを向いたまま歩いてきた、という種類の顔だ。目の焦点が遠い場所にある。考え続けながら歩いてきた人間の目だ。口に出す前に一拍置く。ヤニクはいつもそうする。
「早く来た方がいいと思って」
それだけ言った。挨拶より先にその一言が出てくるのは、ヤニクには珍しい。「早く来た方がいい」という判断をした、ということは、夜明けを待てない何かがある、ということだ。書き付けを送った後に、何か新しいことがあったのか。それとも、書き付けを送った時点で既にそう思っていたのか。どちらかは、中に入ってから聞く。
中に入れて、閂を戻した。廊下には蝋燭を一本持ってきていた。その光だけが二人の間にある。ヤニクの靴の底に泥がついていた。霜市場の周辺は朝露で地面が締まっていない。夜明け前に市場の方角から来た、というだけではなく、市場の敷地の中まで入っていた、ということだ。変な話があると書き付けを送った後に、もう一度自分の目で確かめに行った。それからここに来た。そういう順番だ。
ヤニクが足を運ぶとき、それは言葉より先に確信を持ったときだ。書き付けで「変な話」と書いた段階では、まだ確信ではなかった。昨夜、もう一度確かめて、確信になった。だからここに来た。父の書斎から最も遠い廊下の角に、ヤニクが立った。声を落とす必要がある場所を、訪問の回数で覚えている。
「ミラヴェルさん、変な話があって。五年前に死んだはずの男が、生きてるかもしれない。サンクレール男爵って知ってますか。記録院で働いてた人で、病気で死んだって記録があるんですけど、霜市場に、そいつによく似た男がいるって話を聞いて。年齢も、顔の特徴も合う。名前だけが違う」
ミラヴェルは何も言わなかった。
ヤニクが続けた。顔を見た者が複数いる。半年以上、霜市場の周辺に同じ男がいる。人相風体が記録院の記録と合うが、名前だけが別人のものだ。昨夜、もう一人から話を聞いた。二人の証言が、細部まで一致した。
「名前だけが違う、というところが変だと思って」
五年前に死んだ記録院の職員。五年前、母が死んだのも同じ年だ。記録院は、母が調査をしていた場所だ。
私は扇を持つ手を、意識して緩めた。力が入りすぎていた。
緩めた事実を、一瞬だけ置いた。感情の処理は後でいい。今はヤニクが目の前にいる。ヤニクの話を全部受け取ってから動く。それが正しい順番だ。五年前という言葉が、頭の中で一度だけ鳴った。鳴った事実を置いた。置いたまま、次の問いに進んだ。
「その男の、今の名前は何ですか」
一つだけ聞いた。なぜ死を偽装したか、誰が手を貸したか、今どこに住んでいるか。問いは他にもある。しかし今は一つでいい。何の名前を持って生きているかがわかれば、次の糸口になる。名前は記録院で引ける。記録院で引ければ、その先が広がる。一度に全部を聞こうとすると、順番が崩れる。
ヤニクが名前を言った。ミラヴェルはその名前を繰り返さなかった。代わりに外套の襟を整えた。
「記録院に行きます。ついてきてください」
「今から?」
「夜明け前のほうが、人が少ない」
ヤニクが一瞬、何か言いかけた。言わなかった。代わりに扉の方へ向いた。それで十分だった。
外に出ると、空はまだ藍色だった。東の方角がわずかに白みかけているが、石畳はまだ夜の色をしている。霜市場の方向から荷運びの音が遠く聞こえる。市場の仕入れは夜明け前から始まる。枯葉の匂いが風に乗って来た。この匂いは十月の特有のものだ。葉が腐る前の、乾いた枯れ方の匂い。
ミラヴェルは扇を上着の内側に収めた。五年前。記録院。この二つが重なったことを、今は整理しない。整理する前に記録院の文書を見る。ヤニクの話が正しければ、肖像との照合をアンセルムに頼む必要がある。記録院の職員の死亡記録には、照合用の人相書きが添付されている。それが本物かどうかを確かめることが、最初の手順だ。仮に人相書きが改竄されていれば、それ自体が証拠になる。改竄されていなければ、生存している人物との照合が次の手順になる。どちらに転んでも、まず文書を見る必要がある。
アンセルムはいつも一番早く来る。夜明け前なら、まだ人のいない第三書庫にいるはずだった。前を歩くヤニクの外套が、街灯の光を一瞬受けた。歩調は速い。「夜明け前のほうが人が少ない」と言ったとき、ヤニクは何も聞き返さなかった。おそらく同じことを考えていた。判断が一致するとき、言葉は要らない。
夜明け前の石畳は、まだ暗かった。記録院まで、ここから歩いて四半刻ほどかかる。その間に、ヤニクから残りの話を聞く。何を聞くかは、もう決まっている。
霜市場で顔を見た人間が複数いる、とヤニクは言った。その複数とは誰か。証言の信頼度はどの程度か。サンクレール男爵の死亡記録を誰が書いたか。記録院内部に協力者がいたとすれば、それは誰か。問いを並べると、次の一手が見えてくる。今朝の仕事は、記録院の文書を見ること。それだけだ。
石畳が足の裏から冷えてくる。その冷たさが、頭の中を整理するのに少し役立った。歩きながら、扇を外套の下でしっかりと握った。




