第56話 鍵の場所
母の部屋の前を、通り過ぎることがある。
毎日ではない。意図しているわけでもない。屋敷の廊下を歩いていると、気づいたら立っている。そういう種類の「立っている」だ。
どこで足が止まったかも、いつからそこにいたかも、気づいたときには既に終わっている。呼吸が一拍だけ変わる。それから、また歩き始める。七年間、その繰り返しだった。ただ立っている、という点だけは変わらなかった。
扉は七年間、鍵がかかったままだ。私は鍵の場所を知っている。父の書斎の、机の引き出しの奥。革の紐で束ねられた、小さな鍵だ。見たことがある。触れたことはない。
知っているが、開けたことはない。今日も、開けなかった。
廊下を戻りながら、なぜ開けないのかを、初めて考えた。これまで「開けない」ことは、問いの形になったことが一度もなかった。今朝、初めてそれが問いになった。答えは出なかった。
答えが出ないことより、問いが出たことの方が、今朝の出来事として大きかった。
廊下の石床が、足の裏を通して冷えてくる。十月のヴォワール家は、こういう冷え方をする。
夏の盛りには南側の窓から光が廊下の奥まで差し込んでいたが、今は端の一角だけが薄く白い。北へ向かうほど、曇りの日のような暗さが続く。外から聞こえるのは、風に落とされた葉が石畳を転がる音だけだ。人の声も馬の蹄の音も、この時間はまだ遠い。
屋敷の北廊下は、朝が一番遅く来る場所だ。使用人たちもこの廊下は避けて通る。用のない場所には近づかない、という判断が、長い年月で屋敷の習慣になっている。
扉は、何も言わない。七年間、言ったためしがない。扉が古びていくのを見てきた。塗料が少しずつ剥げて、蝶番の色が変わって、それでも扉は扉のままそこにある。変わらないことが、何かを主張していた。
「なぜ開けないのか」という問いが浮かんだのは、今朝が初めてだった。それ以前は、開けないことが選択ではなかった。呼吸と同じように、そうするものとして、そこにあった。
今朝、それが初めて問いの形になった。答えが出るより先に、廊下を引き返していた。問いだけが残った。
答えのない問いを持ち歩くのは、荷物の中に形のないものを入れているような感覚だ。重さがわからない。置きどころがわからない。
鍵の場所を知っている。開けようとすれば開けられる。それでも開けなかった七年間の理由を、今日初めて知りたいと思った。思った、という事実を、廊下に置いてきた。
自室の机に、六週間分の書き付けが積んである。
カルヴェ家の件は片がついた。シャルルの署名要求の取り下げは確認している。アルベール子爵は回復に向かっており、先週ヤニクから庭に出られるようになったと聞いた。
ソフィーからも短い文が届いていた。その文は机の端に置いたまま、返事をまだ書いていない。書こうとするたびに、書き出しの一行が決まらない。「よかった」と書くのが正しい気がして、書いた後で消した。正しいのになぜ消したかは、今日も考えなかった。消した、という事実だけが残っている。
医師ベルナールの見落としは記録院に保管してある。使わない。しかしある。ムーラン子爵の件は動いている。カトリーヌの消息は、一ヶ月以上届いていない。
記録院に保管した件数は、今回で六つになった。六という数が多いのか少ないのかは、まだわからない。ただ、積み重なった羊皮紙の重さを想像するとき、手帳に書き込んだページ数を数えるとき、何かが増えていることは確かだ。増えたものが何のためにあるかを、まだ確認できていない。それでも積んだ。積むことが正しいと判断してきた。その判断が今も正しいかどうかを、今日は先に進まなかった。
扇を手に取った。開いた。
何も見ていなかった。鑑定しようとしたわけではない。いつの間にか手の中にあり、気がついたら開いていた。室内の景色が扇越しに変わる。変わらない。部屋の中には綻びを生じさせるものが何もない。
閉じた。
以前にも同じことをした。あのときは何かを確かめようとして開いた。今日は違う。ただ手が動いた。目的のない動作には名前がつけにくい。つけようとして、やめた。
扇は道具だ。道具は使うときに意味を持つ。使わないときに手の中にある扇を、今日は机の端に置いた。置いて、窓の方を向いた。
窓の外、並木は半分ほど葉を落としている。夏の終わりにはまだ輪郭が丸かった木々が、今は細い骨格だけを残して空に立っている。葉が遮っていた向こうの石畳が透けて見える。
荷馬車が通るたびに車輪の音が硬く響く。夏の間はくぐもっていた音だ。季節が変わると、街の音の立ち方が変わる。呼び売りの声の種類も変わった。六月には果物、八月には冷水売り、今月は薪と干し肉の声が多い。外套の色も濃くなっている。
中層街の人の動きは、十月に入ると少しだけゆっくりになる。寒さに慣れるまでのあいだ、みな少し縮こまって歩く。
私は窓の内側にいる。外を見ている。今朝廊下で浮かんだ問いが、まだ頭の端にある。答えを出そうとしているわけではない。ただ、そこにある。
前日、ヤニクから短い書き付けが届いていた。
「明日の早朝に伺います。変な話があって」
変な話、という言い回しをヤニクが使うのは、整合性の取れないときだ。情報の内側に矛盾がある場合。説明のつかない出所から話が来た場合。見たものと聞いたことが合わない場合。
普段は長く言葉にしない分、この五文字の重さが普段と違う。早朝に来るとも書いてある。夜明け前を指しているのかもしれない。事前に日程を伝えてきたこと自体も珍しい。ヤニクが事前に日程を伝えるのは、相手に準備を促す必要があると判断したときだ。何の準備かは、明朝になればわかる。
言葉の量ではなく、言葉の選び方で人間は読める。それがヤニクの場合に特に当てはまる。
「変な話」という一言が、今も頭の端に引っかかっている。廊下の問いとは、別の引っかかり方をしている。二つが同時にある。
扇を持ったまま、窓から離れた。残っている仕事を片付けてから眠ることにした。机に向かいながら、廊下の問いがもう一度浮かんだ。答えはまだ出なかった。出ないまま、仕事を始めた。
仕事が終わる頃には、問いは静かになっていた。消えたわけではなかった。明朝、ヤニクが来る。
仕事を終えた手で、扇を引き出しの中に入れた。蝋燭を吹き消して、目を閉じた。
翌朝が来た。




