第54話 ソフィー様も、喜ばれると思います
文は短かった。
「一度、お話しできますか。父の件で、あなたがご存知ないことをお伝えできるかもしれません。場所はご指定ください」
カトリーヌ・ド・ムーランからの文だった。
六週間、動きがなかった。その人間が今夜動いた。タイミングを考えた。ベルナールへの依頼が三日前。ヤニクの報告が先週。アンセルムの情報が先々週。これらのどれかが、カトリーヌに届いた可能性がある。あるいは全く別の理由で今夜動いた。どちらかは、会わなければわからない。
翌朝、返事を書いた。「明後日の午後、記録院の前の喫茶室でいかがでしょうか?」
カトリーヌはすぐに返事を寄越した。「承知しました」の一行だけだった。
喫茶室に先に着いた。
カトリーヌが来た。黒に近い茶色の外套。落ち着いた歩き方。向かいの椅子を引いて座った。使用人を連れていなかった。
ミラヴェルは扇を開いた。
綻びはない。
隠していることもない。
恐怖もない。
計算はある。
しかしその計算は、ミラヴェルを利用しようとするものではない。
何かを清算しようとしている、という種類の計算だ。
扇を閉じた。
カトリーヌが口を開いた。
「ヴォワール嬢、遠回しに話す時間はお互いにないと思いますので、直接申し上げます。父は現在、ヴァラン派とロブ派の両方に情報を売っています。どちらにも深く関わらず、しかしどちらにも使われている。私はその事実を、三年前から知っていました」
「なぜ今、それをお伝えになるのですか?」
「カルヴェ家に手が伸びたからです。アルベール子爵は私の父の旧友でした。今回の件に父の名が使われていると聞いて、黙っていられなかった」
ミラヴェルは頷いた。カトリーヌが「父の名が使われている」と言った。この言葉の重さを、少し置いた。嘘ではない。事実として言っている。
「ムーラン子爵と、ヴァラン派の接触の具体的な内容をご存知ですか?」
「シャルルの動きについては存じません。ただ、父の動きを仲介している人間がいることは、三年前から気づいていました。名前まではわかりません。記録にも残っていないはずです」
ミラヴェルは頷いた。名前はわからない。しかし「仲介者がいる」という事実は、ヤニクが追っている線と重なる。
「ありがとうございます」とミラヴェルは言った。
お茶が来た。カトリーヌは飲まなかった。ミラヴェルも飲まなかった。
カトリーヌが立ち上がる前に言った。「……ヴォワール嬢。あなたのお母様のことは存じています。リリアーヌ様は、十年前にも似たような仕組みを追っていた。あのときは途中で止まった。今回は、止まらないでいただけますか?」
ミラヴェルは答えなかった。
カトリーヌは答えを待たずに立ち上がった。「失礼します」と言い、出ていった。
カトリーヌが出ていった後、しばらくその席に座っていた。
「十年前にも似たような仕組みを追っていた」「途中で止まった」その意味を、今日は別の場所に仕舞わなかった。仕舞わないまま、席を立った。
喫茶室の外に出ると、午後の光が石畳の上に落ちていた。傾いた光だ。今月ずっとこの角度だった。八月の終わりの光は、一日のうちで一番長く傾いている時間帯がある。今がその時間だった。
歩きながら、カトリーヌの言葉を整理した。
ムーラン子爵が両派に情報を売っている。仲介者がいる、名前はわからない。この二点が今日加わった。カトリーヌが動いたタイミングと理由を、ミラヴェルは頭の中に置いた。父の動きを三年前から知っていて、黙っていた。
今日動いた。動いた理由は「父の名が使われた」だと言った。その順序を、ミラヴェルは歩きながら確かめた。
三日後、全てが揃った。
ベルナールの検査結果が届いた。アンセルムが受け取り、ミラヴェルに渡した。微量の薬物が検出されていた。単体では致死量ではない。しかし心臓に負荷をかける成分だった。「アルベール子爵の心臓は丈夫だった」、ソフィーの言葉が、証拠として機能した。
証拠が揃った。
お茶を一口飲んだ。正しい温度で、苦くも薄くもなかった。ただ熱かった。今月初めての味だった。
次に、シャルルに会う。
翌朝、カルヴェ家の庭だった。
アルベールの部屋を見舞った後、庭に出たところにシャルルがいた。
朝の光が庭に入っていた。八月の終わりの光だ。今月の最初に自分の庭で見た光と同じ季節の光だが、角度が変わっている。八月が終わりに向かっている。影がさらに長くなっていた。
庭に花が何本かあった。カルヴェ家の庭師が手入れした庭だ。整えられていた。ヴォワール家の庭の雑草とは違う。どちらも庭だ。
シャルルがミラヴェルを見た。顔が少し硬くなった。
ミラヴェルは扇を開いた。
シャルルの綻びが見えた。今日は「読みにくい」ことはなかった。何の嘘かもわかった。
確認した。
扇を閉じた。
今日は鑑定眼の結果を使わない。証拠は別にある。
「ヴォワール嬢、父の様子はいかがでしたか?」とシャルルが言った。
「おかげさまで、お顔色が戻っていらっしゃいます」ミラヴェルが答えた。
「そうですか。よかった」
「シャルル様。お父様の回復のためには、今後一切の署名要求を取り下げることが最善と存じます。ヴォワール家の鑑定士として、そのようにお伝えします。……なお、記録院には既に、複数の参照記録が保管されております」
シャルルの顔が、白くなった。
沈黙。
シャルルが何か言いかけて、止まった。庭の木が少し揺れた。風が入ってきた。シャルルの上着が揺れた。ミラヴェルの扇は手の中で動かなかった。
ミラヴェルは待った。待ち方は、今日は静かだった。
「お父様は、お元気になられるでしょう。ソフィー様も、喜ばれると思います」
シャルルが、目を細めた。
「ソフィー様」という言葉が届いた。妹が知っている。そのことが記録院の記録と繋がった。シャルルの顔に、それが読めた。
ミラヴェルは扇を持ったまま、会釈して庭を出た。
外の光が強かった。
今回、証拠を提示しなかった。証拠があったのに、使わなかった。
「シャルルを処罰するため」ではなく「アルベールが安全でいるため」を選んだ。あるいは「ソフィーが傷つく形での解決を選ばなかった」。どちらの言い方も、今日の選択を指している。ミラヴェルはどちらとも言わなかった。
どちらが正確か、今は、考えないことにした。
「考えないことにした」と思ったとき、それが以前より軽くなっていることに気づいた。その違いを記録しようとして、やめた。
石畳を歩いた。扇を手に持っていた。庭では開いて、すぐに閉じた。それだけだった。閉じることを選んだ。証拠があるのに扇を使わないことを選んだのは、今回が初めてだった。
使わない、ということが選択になった日を、後から問おうとして、止めた。
数日後、アルベール子爵が回復し始めた。




