第53話 知っていた
医師ベルナールの診察室は、王都の南区にあった。
建物の入り口から薬の匂いがした。乾燥させた草と蒸留酒が混ざった種類の匂いだ。薬草を扱う場所に特有のものだ。霜市場の一角でも似た匂いがするが、こちらの方が濃く、閉じている。
王都に来てから今まで、医師を訪ねたことはなかった。鑑定の依頼者として会うのも今日が初めてだ。
待合の使用人に名を告げると、しばらく待たされた。
待つ間、診察室の前の廊下に立っていた。壁に医学の書の写しが一枚貼られていた。ラテン語だった。ミラヴェルにはラテン語の知識がない。読めない文字が壁にある場所で待っていた。
ベルナールが現れた。五十代とみえる男だった。白髪交じりの、きちんと整えられた髪。清潔な上着。手が大きい。医師の手だ。
ミラヴェルを見て、少し面食らった顔をした。若い女性が一人で来ることを想定していなかった、という顔だった。名刺を渡した。ヴォワール家の名刺だ。名刺を見てから、ベルナールの顔が切り替わった。
「ヴォワール嬢。どのようなご用件でしょうか?」
ミラヴェルは扇を開いた。
ベルナールに向けた。
鑑定を始めた瞬間、何かが引っかかった。通常の「綻びあり」でも「綻びなし」でもない。
この引っかかりには、見覚えがある。ムーランの件で書記官を鑑定したとき、同じ質の引っかかりがあった。あのときは「嘘ではないが、話していないことがある」という結論だった。今日の引っかかりもそれに近い。しかし少し違う。違いが何かを考えかけて、正式依頼の言葉を先に出すことにした。
「先生。アルベール子爵の血液を、もう一度詳しく調べていただけますか。ヴォワール家の鑑定士として、正式に依頼します。……もし特定の物質が検出されれば、それは記録院に提出される記録となります。ご存知の通り、記録院の文書は消せません」
ベルナールの顔が少し動いた。
扇越しに、その動きを見た。表情の筋肉が一度収縮して、戻った。戻る速さが、収縮する速さより遅かった。「記録院の文書は消せません」という一文が入った瞬間だった。
嘘ではない。
しかし、怯えている。
怯えている人間の綻びは、隠している事実の有無ではなく、「見つかること」への恐怖として出る。
この人間は、何かを知っている。
そして知っていることを、誰かに見られることを恐れている。
「知っていた」という確信が来た。
初診の段階で気づいていた。
しかし黙っていた。その黙り方は、気づかなかった人間の黙り方とは違う。
知っていて黙っていた人間の綻びだ。
扇を閉じた。
ベルナールが口を開いた。
「……あれは、確かに心臓への負荷による発作でした。しかし、その原因を引き起こしたものが何かについては、私には断言できません。食事の中に、心臓に負荷をかける成分が含まれていた可能性は……否定できない」
声が震えていた。かすかに。声に出す前に飲み込もうとして、飲み込みきれなかった震えだった。
この人間は確かに心臓への負荷について何かを知っている。知っていて、初診の段階で黙っていた。黙っていた理由が「言えない理由」だった。言えない理由の出所を突き止めることが、次の問いになった。
「その可能性を、なぜ初診の段階で報告しなかったのですか?」
ベルナールが間を置いた。
「……言えない理由が、ありました」
「その理由を、記録院への提出書類に記載していただく必要があります」
ベルナールの手が、机の下に入った。震えを隠した。
ミラヴェルはそれを見た。見て、指摘しなかった。
震えた手が机の下に消えた。その動作を、ミラヴェルは扇を閉じたまま見ていた。
「……わかりました。書きます」
ベルナールの声が、今度は震えていなかった。覚悟が決まった人間の声だった。
「ありがとうございます。検査結果の提出期限は三日後です。記録院の第三書庫に直接お持ちください」
ベルナールが頷いた。頷いてから、ミラヴェルを見た。見方が変わっていた。警戒の種類が、変わっていた。最初は「誰が来たか」という警戒だった。今は「何をされるか」という警戒になっている。
もう一点、見えた。ベルナールは怒っていない。怯えている。怒りと怯えでは構造が違う。怒りは外に向かう。怯えは内側に引く。この人間の怯えは、ミラヴェルに向いていない。別の方向に向いている。その方向を、今日は特定できなかった。
ミラヴェルは扇を持ったまま、それを見ていた。
診察室を出た。
外の光が強かった。南区の石畳は、中心部より白い石が多い。光の反射が違う。目が慣れるまで少し時間がかかった。
扇を上着の内側に入れた。表に出したまま歩く距離ではない。南区は人通りが多い。
「言えない理由がありました」というベルナールの言葉を、頭の中に置いた。今日は「別の場所に仕舞う」ことをしなかった。今月に入ってから、そういうことが増えている。
歩きながら、ベルナールの怯えが向いていた方向を考えた。ミラヴェルではない。アルベールでもない。おそらく、何かを「言えない」にさせた誰かに向いていた。その誰かがシャルルか、あるいはシャルルの背後にいる人間か。
ムーラン子爵の名前が来た。六月の終わりに切れたはずの糸が、また引っ張られている感覚があった。感覚という言葉をまた使った。今月に入って、感覚という言葉が増えている。
石畳を歩きながら、今日の扇の動きを振り返った。今日は使った。使ったことで何が見えたか。「知っていた」という事実と、「怯えが別の方向を向いている」という二点だ。精度は戻っている。戻った理由を考えかけて、歩き続けた。
屋敷に戻り、ヤニクへの書き付けを書いた。「ベルナールに圧力をかけている可能性のある人物を特定してほしい」という内容だ。ベルナールの「言えない理由」の出所を追う。
書き終えてから、包囲という言葉が来た。今まで使わなかった言葉だ。今日この言葉が来た理由は、今夜は問わなかった。言葉は来た。それだけで今日は十分だった。
使用人に書き付けを渡した後、お茶を飲んだ。正しい温度だった。苦くなかった。久しぶりに苦くなかった。今月に入って何度か苦く感じた日があったが、今日は違った。
部屋の中を少し歩いた。四歩で端から端まで歩ける部屋を、何度か往復した。歩きながら、次の手順を整理した。アンセルムからの追加情報。ヤニクからの次の報告。ベルナールの書類が三日後に届く。三つが揃うと、包囲が完成する。
その夜、カトリーヌ・ド・ムーランから文が届いた。
六週間、動きがなかった人間が、今夜動いた。文を読む前に、封の蝋を見た。ムーラン家の紋章だった。




