第51話 灰林の証言
ヤニクが来たのは午後だった。
灰林は王都の郊外にある。正式な名前はない。灰色がかった幹を持つ低木が密集した林で、夏でも光が届きにくい。商館でも記録院でもない、人の目を避けたい者が使う場所だ。霜市場とは反対の方向にある。ヤニクはその二つを三日で往復していた。
ミラヴェルは午前中から、ヤニクが来る前の時間を使った。記録院から昨日持ち帰った情報の整理だ。整理しようとして、途中で止まった。止まった理由を考えかけて、今日は考えないことにした。昼前にお茶を飲んだ。正しい温度だったが、味が薄く感じた。
外套を脱がずに入ってきた。いつもは脱いでから椅子に座る。今日はそのまま立っていた。外套の裾に、葉の破片がついていた。草というより、木の葉の小さいものだ。灰林の木は背が低い。低い木の間を抜けてきた人間の外套に残る種類の葉だった。
「灰林まで行ったのですか?」
「三日のうちの二日は、あそこにいました」
ヤニクが椅子を引いて座った。今日は外套を着たまま座った。外套の中に何か入っているのかもしれない。あるいは、まだ動ける状態でいたかった、という判断かもしれない。どちらかは聞かなかった。
「報告を聞かせてください」
ヤニクが頷いた。外套を今さら脱ごうとして、止めた。
「シャルルは二ヶ月前からヴァラン派の末端と接触してた。ムーラン子爵の使いと、霜市場で三回会ってます。父親が倒れた夜、シャルルは屋敷にいなかった。夜半過ぎに戻ってます。……あと、これは確認できてないんですけど。その夜、カルヴェ家の厨房に、見慣れない人間が出入りしたって話があって。使用人じゃない人間が」
ムーラン子爵の使い。
六月の終わりに、ムーラン子爵の件は参照記録として処理した。しかしムーラン子爵そのものの動きは、切れていなかった。ヴァラン派との繋がりの中に、あの子爵が今も動いている。霜市場での接触が三回。シャルルはその末端に繋がった。
「屋敷にいなかった夜の行き先は」
「追えてません。灰林の方向だと思いますが、確認できなかった」
ヤニクが少し間を置いた。追えなかった、と言ったときの顔だった。追えなかったことを、自分への評価として受け取っている顔だ。ミラヴェルは「十分です」とは言わなかった。
「厨房の人間は」
「顔はわかってないです。使用人の証言だけで。深夜に厨房を使う理由がない人間が、短い時間だけいた、という話で」
ミラヴェルは机の端に置いた扇に、目を向けた。手は動かさなかった。
ヤニクの顔を見た。三日間、灰林と霜市場を動き続けた顔だった。今は報告を受けるべき時間だ。
四つの事実が揃っていた。シャルルのヴァラン派との接触。父が倒れた夜の不在。厨房への不審な出入り。アンセルムが確認した覚書の形式。
シャルルはヴァラン派に取り込まれた。領地の一部を差し出す代わりに、何かを得ようとした。
父アルベールはそれを拒んだ。その夜、厨房に何者かが入り、父は翌朝倒れた。
「心臓発作」という診断は正しいかもしれない。しかし発作を「起こさせた」可能性がある。
特定の薬物は、心臓に負荷をかける。医師ベルナールはそれを見抜けなかった、あるいは、見抜かなかった。
問題は、これを証明できるか。
そして証明したとき、ソフィーは何を失うか。
扇を握る手が、止まった。
手を握っていたことに、止まった後で気づいた。扇を手に取っていた。取ったことを意識していなかった。昨日、記録院で扇が音を立てた。今日も手が先に動いていた。二日続けて、手が意図より先に動いた。
ヤニクが、ミラヴェルを見ていた。
ミラヴェルは扇を開かなかった。机の上に置いた。
「もう一つ確認してください。医師ベルナールが、アルベール子爵以外にも何らかの形でヴァラン派やロブ派と接触した記録がありますか?」
「灰林にまだ追える筋があります」
「よろしくお願いします」
ヤニクが立ち上がった。一瞬止まった。ミラヴェルの顔を見た。何も言わずに、出ていった。
扉が閉まった。
外套の葉の破片が、床に一枚落ちていた。ヤニクが立ち上がったときに落ちたものだ。灰林の木の葉だ。小さく乾いている。ミラヴェルは拾わなかった。葉がそこにあった。それだけだった。
ヤニクが帰った後、ミラヴェルは机の前で考えを組み立て直した。
証明する方法はある。ベルナールに再検査を依頼する。正式な鑑定依頼として出せば、記録院に残る記録になる。記録が残れば、シャルルは動けなくなる。
この手順は見えている。ムーランの件から積み上げてきた形がある。しかし手順が見えていることと、それを今すぐ動かすことは、別の問いだ。
しかし。
証明したとき、ソフィーは何を失うか。
兄への信頼。家の安全。あるいは兄そのもの。失わなければ何が残るか。父が回復したとしても、シャルルとヴァラン派との繋がりは切れていない。シャルルはまた動く。カルヴェ家の外側にある仕組みも、まだ動いている。
ソフィーがそれを知ることと、知らないことの、どちらがソフィーにとって安全か。この問いにミラヴェルが答えを出す資格があるかどうかも、今は判断できなかった。
「証明する」と「証明しない」の間に、答えはない。
この問いは、ミラヴェルだけでは解けなかった。以前、マルグリットの件でソフィーに聞いたことがある。あのときは推理を固めた後だった。今回は違う。推理を固める前に、当事者に聞く必要がある。
推理を固める前に人に聞く。これまで一度もなかった形だった。
推理が固まっていないのではない。材料は揃っている。しかしこの問いの答えは推理の外側にある。ミラヴェルが一人で解ける問いではない。その自覚が、今日はある。
扇を机の上に置いたまま、しばらく部屋の中を歩いた。四歩で端から端まで歩ける部屋だ。何度か往復した。
歩きながら、ソフィーを呼ぶことを決めた。
部屋の外から使用人の足音が聞こえた。遠く廊下を通り過ぎた。足音が消えてから、また静かになった。
決めた理由を考えかけて、止めた。今日はすでに何度も止めている。止める前の思考の長さが、今日は短くなっている。短くなっている、と言い切っていいのかはわからないまま、次のことを考えた。
夕方の光が橙みがかっていた。午前の白さとは違う。今日は何種類かの光の中にいた。朝の自室の蝋燭。昼のカルヴェ家の庭。今の夕方の橙。それぞれの光の中で、考えが変わっていた。
翌日、ソフィーを呼んだ。ソフィーはすぐに来た。しばらく黙っていた。




