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スミレ色の鑑定眼  作者: 猫じゃらし
第五章 赤の遺産
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第49話 読みにくい

「ヴォワール嬢。父がお世話になっているようで」


 声が先に来た。


 アルベールの部屋を出た直後だった。今日のアルベールは昨日より顔色が戻っていた。話す声に力が戻っている。扉を閉めた瞬間、廊下の先に気配があった。


 振り返る前に扇を開いていた。シャルル・ド・カルヴェが立っていた。整えられた服装。柔らかな笑顔。三十歩ほど先から、声だけ張って言った。



 綻びが、いつもより読みにくい。


 感情が乱れると精度が落ちる。しかし自分に起きているとは、思っていなかった。


 嘘だ。しかし何の嘘かが、わからない。


「心臓が弱かった」という部分か。

「過労が原因」という部分か。

 あるいは、全部か。


 扇を閉じる。



 シャルルがこちらに向かって歩いてきた。廊下の板が一歩ごとに鳴った。踏み込みが強い。笑顔の作り方が自然だった。表情の筋肉が慣れている。


 残り二十歩ほどで、ミラヴェルは扇の角度を少し変えた。シャルルの顔の正面に向ける角度だ。いつもの鑑定の角度から、少しだけずれていた。


 ミラヴェルは答えた。「こちらこそ、お父様には良くしていただいております。早いご回復をお祈り申し上げています」


「ありがとうございます。父も喜んでおります」シャルルが穏やかに会釈した。「父は昔から心臓が少し弱くて。今回も過労が重なったのでしょう。ヴォワール嬢のように聡明な方がご心配くださっているとわかれば、父も安心します」


「そうでございますか」とミラヴェルは言った。「シャルル様もどうぞ、ご無理のないよう。お忙しいのはよく存じておりますが」


 シャルルの目が、一度だけ細くなった。笑顔の形は変わっていない。


「……ええ、おかげさまで。では」


 会釈して、通り過ぎた。


 扇を持つ手が、少し動いていた。シャルルの背中が廊下の角を曲がった後、もう動いていなかった。



 カルヴェ家を出た。


 外は昼過ぎの光が強かった。石畳に横長の影が伸びている。


「心臓が弱かった」というシャルルの言葉は、ソフィーの言葉と正反対だ。「父、心臓は丈夫だったのよ」、兄と妹が同じ父について真逆のことを言っている。どちらかが嘘をついている。あるいは両方が、自分の知っている事実を言っている。今朝の鑑定眼では、矛盾のどこに綻びがあるかまで特定できなかった。


 シャルルへの応答を頭の中で振り返った。「お忙しいのはよく存じておりますが」という一文は、気遣いの言葉として成立する。同時に「動きを知っている」という含意を持てる。シャルルの目が細くなったのは、後者として受け取った可能性がある。受け取ったなら、牽制として機能した。受け取らなかったなら、ただの社交辞令で終わった。どちらかはわからない。わからないまま、今日は終わる。


 帰り道を、いつもより速く歩いた。気づいたのは角を三つ曲がった後だった。速さが先に出て、気づきが後から来た。


 立ち止まった。四つ目の角の手前だ。


 シャルルが嘘をついている。綻びは見えた。しかし「何の嘘か」まで読めなかった。鑑定眼は綻びの場所を示す。その意味を補うのは論理だ。今日の論理は、鑑定眼が示した場所まで届かなかった。


 これが今日の結果だった。


 ヤニクが三日で結果を持ってくる。アンセルムが記録院で文書を当たる。二つが同時に動いている。今日のミラヴェルが動かせたのは、その二つだけだった。三日前には動かせなかった。昨日も動かせなかった。今日、動いた。


 また歩き始めた。屋敷まで残り五分ほどの距離だった。



 午後。ヤニクに連絡を取った。夕方、来た。部屋に入れると、ヤニクはいつも入り口で一度止まる。今日も止まった。目が先に部屋の中を確認してから、入った。


「シャルルとヴァラン派との接触の経路を調べてほしいのです。それから、アルベール子爵が倒れた夜のカルヴェ家の出入りを、できる範囲で」


 ヤニクが書き付けに目を落として、少し間を置いた。


「ミラヴェルさん。これ、ソフィーさんの兄の話ですよね。……大丈夫ですか?」


「調査をお願いしているのです」とミラヴェルは答えた。


 答えながら、「大丈夫」という言葉の意味を考えた。ヤニクが何について大丈夫かを聞いているのか。鑑定眼の精度についてか。判断の適切さについてか。あるいは別の何かについてか。どれかはわからなかった。


 ヤニクがミラヴェルの顔を見た。細い目で、長く見た。書き付けを持ったまま動かなかった。


「ヤニク」


「……はい。やります」


 書き付けをたたんで上着の内側に収めた。立ち上がる前に一度だけ、ミラヴェルの顔を見た。何も言わずに立った。


「よろしくお願いします」


「三日ください」と言って、部屋を出た。


 廊下を遠ざかる足音が聞こえた。ヤニクの足音は軽い。廊下の板がほとんど鳴らなかった。シャルルの踏み込みとは、全然違う。


 今日会った二人の男の足音が、全く別の種類だった。


 部屋が静かになった。ヤニクが来る前と同じ静けさに見えた。しかし来る前とは違う。依頼を渡した。それだけを、静かな部屋の中に置いた。



 机の前に座った。


 蝋燭を灯した。一本だけ灯した。明るさは十分だった。


 アンセルムへの依頼の内容を考えようとした。カルヴェ家に関連する最近の文書動向。シャルルの署名歴。ヴァラン派との覚書に類する書式があれば、


 そこで気づいた。


「大丈夫ですか?」という問いのことを、考えていた。


 ヤニクは「大丈夫ですか?」と聞いた。ミラヴェルは「調査をお願いしているのです」と答えた。質問に答えなかった。答えなかったことを、今気づいた。答えなかった理由を問おうとして、問いが途中で止まった。


 扇を手に取った。


 開く。


 部屋の中。見る対象がない。


 閉じる。


 机の上に置いた。アンセルムへの依頼は明日、記録院で直接行う。今夜はそれだけを決めた。




 窓の外が暗くなっていた。夏の終わりの夜は早く来る。蝉の声はなかった。虫の声が遠くに聞こえた。


 蝋燭が燃えていた。一本だけの炎は、昨日の二本より静かだった。


 今日、扇を三度開いた。廊下でシャルルに向けた一度だけが実際の鑑定だった。残りは使う対象がなかった。それでも手が動いた。扇を開くことが、何かの代わりになっていた。


 蝋燭の炎が揺れて、また静かになった。


 翌朝、記録院へ行った。八月の終わりの朝の光の中を歩いた。光は傾いていた。今月ずっとそうだった。アンセルムは眼鏡を外したままにしていた。

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